「2022年からの〈真の映画史〉」に向けての序説 #10

映画の話を聞くことは、自分を映画の方に引き戻してくれます。映画評論家というものは、彼らの仕事というものは、映画.comというインターネット上のウェブサイトおかげであまり必要とされなくなれました。それはとても良い事です。万人が評論家であるべきだし、批評家であるべきです。というよりも、人は1000円なり1万円なり、自分の懐から出し、渡した金銭と交換した商品なりサービスに関してはあれこれ文句をつけたがるものです。点数や★の数であっても、なにか自分なりに評価してみたいと思うのです。あれこれと言う権利を得たと思い込むのです。

 

 

横断歩道のペイントが禿げていて薄くなりすぎているという場合、それを見過ごしておくことは、危険につながる要素となります。子供が別のところを横断して、車に轢かれる場合があるからです。だから、役所なりなんなりに電話して「横断歩道のシマウマ模様が見えなくなっていますよ。」と伝えることはとても重要なことです。それは住民税を払っているから苦情をいう権利がある、という以上に重要なことです。しかも住民税を払っていなくとも、そのクレームなり助言を役所に伝えることができるのです。一方映画は、いや、映画でも音楽演奏でも美術館での展示でもいいのですが、「おたくでたった今映画を見ましたが、ひどい映画ですね。しかし、あの女優はなんて下手くそな演技なんでしょう!?」と映画館なり、配給会社なり、制作会社に電話することはできます。「お金を返してもらえますか?少なくともあの大根役者の分だけでも返金していただけたら…」ということができます。しかし、それらのアレコレの感想は、映画.com上でSNS上でなされます。しかし、現実問題として、出来の悪いジャガイモが返品でき、別のジャガイモをもらえることができるようには、映画を返品できたり、別のよりよい映画と交換できる訳ではありません。消費者は消費するのであり、消費が前提になっている限り、消費できなければなりません。ただ、そこに至らない何かがその出来の悪い映画にはあるということです。

 

 

時は金なりという言葉には一定の真理があります。2時間も時間を持っていかれる、という感覚は映画に特有のものです。(舞台の場合は、観客は、どこか、生の役者が、お気に入りの役者がそこにいるという感覚を持続させながら見ているようです。なので時間を持っていかれるという感覚は映画とは別の何かだと思われます)。それも椅子に固定されて、動けません。スクリーンと観客には完全に主従関係があるのですが、そのために、その主従関係をやりくりするために映画の中のカメラはあちこち動き回るわけです。と言うよりもあちこち動き回ったカメラの結果としての映像が定着した映画の中で……つまり、カメラがありとあらゆる複数の視点を提供し続けることによって、観客の視点を一つに、スクリーンの方向に固定するのであって、そこに映画の古典的な悪き強制力があり、また良さもあります。カメラアングルの多様性なり、フレームワークの多様性はこういったことにも関わっています。カメラ映像を介在しない、生の野球やサッカーの観客、生のパフュームや誰それのコンサートの観客とはまた違う何かがあるのです。

 

 

わたしは……わたしに限らず「全体のまとまりが…」とか「ここはいいんだけど、全体的には…」とか、結局のところ全体が、全体として気になっているという事態があります。全体とは言い換えると「全てを捉えている」ということで「全貌を明らかにできる」ということで、言い換えると「全知(全能)的な何かで」、つまりは「神だ」ということにつながっていきます。なので観客に「神になってもらえる視点を提供できる」映画がよりよい全体を持った映画であるといえることができるでしょう。「お客さまは神様です」は二重の意味でそうなのです。お客さんが「神」になり、主従関係における「主」になれる場合に、「その映画はすばらしい」となるのです。しかしそれも「すばらしい」と思っているのではなく、思わされている場合が少なくはありません。

 

 

わたしは全体的なまとまりを持つ映画よりも、どちらかというと離散的、分散的な映画の方が好きです。そして、非同期性、無関係性がより強調されている世界が好きです。要するに「全体的である映画」は押し付けがましいのです!それでも全体的であろうとしている映画を否定するつもりはありません。事実、面白い物語を作ること、それに準じた演出をほどこすこと、「妻は告白する」なり、「陸軍中野学校」なりを作ることは大変です。それは若尾文子市川雷蔵に大金のギャラを払うということとは別に大変なことなのです。

 

 

べつに「つながる」がいけないというのではありませんが、そこにはある種の恐れがあります。あの有名な「第三項排除」のことですが、それを恐れるあまり、人びとは動けなくなっているという事態もあります。集合すべきタイミングで集合すればすむことなのであり、いつも集合しているような錯覚を与えてしまう「繋がる」という事態がいいものとは思えません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■mm8er MOVIES vol.5■2/4(fri)■ASAGAYA-TEN


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■mm8er MOVIES vol.5 ■

 

🟢吉本裕美子

🟢ムラカミロキ

🟢野上亨介

8mmフィルム上映

+LIVE+小座談会(予定)

 

🔺@阿佐ヶ谷天(JR阿佐ヶ谷駅スグ)

🔺2022年2月4日 (金)

🔺開場 18:00開始18:30

🔺料金1000+オーダー

🔺アクセス➡️https://asagaya-ten.com/access.html

 

 

⭕⭕上映

◐吉本裕美子 

赤城神社~毘沙門天』 2007年/約3分/カ ラー、『TSUMARI NO MATSURI』 2009年/約3分/カラー

◐ムラカミロキ 8mm 自選作品 (約30分)

◐野上亨介 8mm 自選作品 (約30分)

 

⭕⭕LIVE

◐吉本裕美子 ダクソフォン ソロ (約15分) 

◐ムラカミロキ ソロ (約20分)

「2022年からの<真の映画史>」に向けての序説 #9

1人で考えるのは良いことですが、2人で考える、と言うよりも2人で考えを提示しながら別の問いを導き出すことができます。人は理解可能なのっぺりした平野のなかで考えるのではなく、時には他人の意見を使って崖に登ったり、海に飛び込んでみる必要があります。そうしながら鍛えていくべきです。わたしはわたしが第4映画と名付けている「映画のもう一つの方向性」に向かって舵を取るべきなのですが、なかなかうまく行きません。そこには壁がありますし、手助けしてくれる人が見当たりません。繰り返しになりますが…映像の断片が売買できる経済の仕組みを、流行りのブロックチェーン理論やNFT理論なども使いながら考えないと先に進めないのです。これを考えるためには作家や監督よりも、むしろプロデューサーの意見が必要です。映画において一儲けしよう、とか、映画の市場を我々なりの革命的方法で揺るがすべきだ。とか考えている人物が必要です。そして経済学や、法学、美学などの数名の専門家が必要なのです。こういったことを考えていると、時間が足りないと思えてきます。そして「モンタージュにはもう可能性はないんだ、別の何かをしよう。」と言って、絵を描いたりしているのです!

 

いや、それでもモンタージュ<にしか>可能性はない、と自分に言い聞かせながらあれこれと試したりはしているのですが…。そういう時に、他の誰かの意見や問題提起を知ることは何かの役に立ちます。2022年になって、そう1月の3日の晩にずいぶん歳下の青年を自室に招いて、映画や他のあれこれをめぐる話をしました。ミスチルエレカシの時代はどうのこうの…、とか、若者がBARに行かなくなったのは…とか映画以外の話も含めて話しました。私は話す時は関西弁(京都弁)であったり、標準語であったり、その時その場所に応じて何となく無意識に使い分けているのですが、このトークの映像を見直してみると関西弁で話しているということがわかります。そして話しかたの次元においては「リズムではなく拍をつけたがっている」ということがわかります。声質は、あまりいいものとは思えません。関西弁はイントネーションの凹凸があるのですが、標準語はフラットに進んでいきます。それは一見合理的な発音体系だとは思うのですが、息苦しさも感じます。一定の高さで発声を維持しなければならない、といった強制力を感じます。定規で直線を引くのは面倒な時もあるのです。そして「一体全体標準語を喋らなければならないという規則がないにもかかわらず、どうしてみんな標準語を話すのだろう」と時々思ったりもします。

 

 

わたしはわたしが話すことにおいて拍をつけること、つまり、何らかの強弱をつけることをしたがっている、ということがわかりました。……自分で自分が話す映像を見る機会はそう滅多にあるもんじゃありません。テレビに出ている芸能人やらでさえ、自分の出ている番組などは見ないものなのです。しかしわたしは一定の時間を作って見直しました。そこにうつっているわたしは、何というか、わたしが普段思っているわたしではありません。残念ながら「わたし以下」ものでした。……色々と発見があるわけです。なので、自分で自分が話をする姿を客観的にみることは、「こいつは一体誰なんだ…?」と気にかけながら見るのは、大いに役に立つ何かなのです。鏡とは、そういったものです。髪の毛や肌などの自分のひどい部分を発見し、よりマシに見せたりするのに役立ちます。トークの映像、あれは動く鏡であり、鏡よりもより多くの分析材料を提供する有益な何かです。普段わたしが人びとと会って話す時、どういった印象を与えているのかがある程度はわかるのです。(https://youtu.be/INTTkaJStUQ  https://youtu.be/EmShHFahrFQ  https://youtu.be/kV0K_07uw4I  https://youtu.be/UHAQgezBBPQ

 

 

8mm映画を作っていた時代は、そうです、すでにvideoがありました。デッキもありましたし、カメラもありました。videoが出現したのは…我が家においてBetaのvideoデッキが導入されたのは確か高校2年、1987年だったと思います。わたしがBetaのビデオデッキを欲していたのは…ローカルな話ですが…ローリング•ストーンズやら、なんとかの洋楽のビデオの違法の海賊版がBetaでしか販売されていなかったからです。しかも、それはビデオショップでもなく、レコード屋でもなく、何だかよくわからない場所で販売されていました。テレビドラマは少しも録画しようとはせず、MTV的な音楽番組と深夜の映画番組しか録画しませんでした。一方1987年の時点ではvideo cameraはまだまだ普及していませんでした。簡易的な民間用のビデオカメラが普及したのはもっと後のことです。独占禁止的なやり方で発売されていたVHSーCテープと8㎜テープの二種類があって、ようやく小型のものが普及しだしたのは昭和天皇崩御して以降のことだと思います。バブルの全盛期というのは、海外旅行の全盛期でもあり、ちょうどパスポートサイズのハンディカムというやつがSONYから発売され、それで一気に汎用的になったのだと思います。

 

 

24、5の頃だと思いますが、videoがあったにもかかわらず8㎜を作ったのにはいくつかの理由があります。もちろんそれ以前にHi8というvideoで、短編を作っていたのですが、8㎜作品、いわばリュミールの時代から続いているフィルム作品を作るべきだと思ったのです。それは映画というものをより根本的に知るためでもありました。電子の世界ではなく光の世界に対峙するためです。現像、というよりも光が感光板に何かを、今まさにわたしが見ている何かを焼き付けようとする世界です。

 

 

当時は16㎜で作るのが劇場公開のある種の最低基準となっていて、周りの野心家は16㎜で映画を撮りたがっていました。わたしも人にすすめられたりしましたが、「いや、これからはvideoの時代だし、フィルムで作るのがステイタスだと言っても、ここ2、3年のことだよ、それ以降のことは…」とうそぶいていました。videoは、今やもうvideoという言い方は廃れているようですが、どちらかといえば軽蔑されていました。「野上君videoで撮る映画は映画なんかじゃないよ。」とよく言われたもので、何度となく口論していたのを覚えています。わたしは「フィルムであろうが、ビデオであろうが、それが映像でありさえすれば良い。」とよく言い返していたものです。

 

 

そうです。2月の4日の金曜日に8㎜映画を、それを映画と呼んで差し支えないのなら、映画を…上映するのですが、とても貴重なものです。故加藤幹郎氏の弟子筋にあたるのかどうかは知りませんが、…ずいぶん前のことです…京都の映画評論家の方がエルモの映写機パナビジョンSC-18を無償で譲渡してくれて、しかしモーターを回転させるベルトが経年劣化していたので修理に出したもので映写するのです。時代がvideoからHDになり、クラウド上のデータになり、それらを置き換えたUSBスティックやSDカードになったりしている現在ですが、目に見えるものは、そう、映像には違いありません。形式的に考えて、モンタージュ編集を含んだ映像なのですが、そこには絵巻物の系譜があり、紙芝居の系譜があり、パラパラ漫画の系譜があり、プラトンの洞窟の系譜があり、幻灯機の系譜があります。個別に検証するべきです。そしてそこから漏れているもの、ついつい忘れがちなものとして、戦後GHQが日本の教育システムに導入した「視聴覚による教育」、その系譜があるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「2022年からの〈 真の映画史〉」に向けての序説 #8

あまり大きな動きはありません。大きな動きを期待するべきではありません。「朝、目が覚めたら、日本は社会主義になっていました。さあ配給された朝食をいただきましょう、」とは成らないのです。資本主義という大きな動きを内在化させたシステムは、真に刻一刻、あまりにも大きな動きを求めすぎるので、そうなっているに過ぎません。さらに大きくなろうとする動きは、何人かの人々を宇宙に送り込んでだれそれが、「宇宙はどうだったかね?」と聞き、答えさせる術を心得ているのですが、それが真に人々に期待されていたのかどうかは別問題です。それに、地球の気候変動がどうのこうの、と言われても、やはり、というべきか、わたしには体感として気候が変動している!という感覚がありません。なのにYouTubeも含めたメディアは「気候変動がどうのこうの…」というものですから…「さて、気候が変動しているらしいが、いったい、どこがどういうふうに変動しているのだろう?」という疑問が残るのです。体感は個人差があるので仕方の無いことです。そして日本に居続ける限り…。

 

たしかに夏は暑く、「昔は、おれが子供の頃はこうじゃなかった、こんなには暑くなかったよ」と言えるでしょう。しかし気候が変動しているな、とまでは思えないのです。「人間はまだ危害を真に被っていない。動物たちを見たまえ、地球温暖化のせいで、こんなにも絶滅危惧種が出てきているではないか!」と言う向きもあるでしょう。


わたしに考えられることは呼吸の出力側、つまり息を吐く行為において、二酸化炭素の排出量を減らすことでもあるでしょう。ある種のSF映画の登場人物のように無表情で呼吸を最小限に留めること……よくは分かりませんが、「世界をよくしよう」という動きがあり「世界を悪くしよう」という動きはあまりありません。そして「世界をよくしよう」という人々はそれを阻止する動きにはかなり敏感になっています。「君は世界を悪くしようとしているね」と直接は言わないのですが、「あの企業はヤバい。世界を悪くしようとしている。あの企業のこれこれこういうところを是正しなければならない」ということを公に言います。なので「世界を悪くしよう」としているのは個々の人ではなく、より大きな単位、企業やある種の組織体だということができます。


しかしその企業も、たとえばアパレルの企業も、悪意があって「より合理的、効率的なやり方でたくさんシャツやブラウスを製造して、より二酸化炭素を排出し、人々を苦しめてやろう」としているわけではありませんし、むろん、これからの企業は「環境に配慮すべきだ」という紋切り型が幅をきかせ、その命令に背くものは世の中の嫌われものになるでしょう。


一方で、「そうだ、自分の着るシャツだって自分で作ることができるはずだ。ユニクロや何とかに頼るべきではない。」と思う向きも多分にあるはずです。おそらくは綿花の栽培の仕方の学ぶには2週間かかり、そしてその土地を見つけるのに1ヶ月は必要であり、パターンを引く技術や、型紙を作る技術、そして縫う技術がいる、それにそもそも「自分はどういったシャツを着たいのか。」がわかっていなければならない、ということに気づくはずです。


環境、ないし気候変動の話に戻りますが、地球温暖化危機や炭素の排出がどれだけ人類を苦しめるのかがある程度わかっているのならば、VRの技術を使うなりしてそれを表現し、体感させる何かを開発すべきです。ないし全世界同時配信される動画なりTV番組なりを作るべきです。全人類にかかわる問題であればなおさらそうなのです。わたしは体感できないので体感させる何かがあればよりいいのではないか、と思っているのです。あるいは、国連が、パリ協定やら京都議定書の発行を仕切っている組織体がそういうことを推し進めるべきであり、何人かの資産家が、貧乏人の何十倍も長生きできるような資産家がその実現のための資金提供をすべるきなのです。そうでないと、あまり興味深い問題提起とはならないでしょう。炭素と言っても、あまりピンとこないものなのです。炭酸飲料がピンとくるほどにはピンとこないのです。

 

 

 

 

 

「2022年からの〈 真の映画史 〉」に向けての序説 #7

ワンカットを何とかして納得いくものにするための手順があります。まずは固定のカメラで撮るべきです。それから手持ちのハンディのカメラ撮るべきです。最初からハンディで撮っていたのではその映像の特性が分からないものなのです。「なにを伝達したいのか」がわかっている場合とそうでない場合があるのです。料理の写真においてさえもさまざまな探求がなされています。端的に言って商売上の探求ですが、カメラはそれがデジタルであるにもかかわらず、オブジェ、つまり料理のことですが、より正確に商売につながる写真をこしらえるためには、料理を囲う白い布製のシェードを用意したり、スポットライトやレフレックスを用意したりしなければなりません。それは、その類まれな、というか経済利益上の理由から撮られるべき写真が存在するのは、「美味しそうな料理」と「たんなる料理」の写真はちがうと見なされるからで、だいたいの料理写真においては「美味しそう」という演出の部分でカメラマンは頭を抱えるのです。「しかし、もっと美味そうにこのつけ麺を見せることができないだろうか?…でもあとでフォトショップで加工できるさ…なんとかなるさ…」と言っても、もともとの写真の出来が悪ければどうにもなりません。そして、たんなる光景、どこかの交差点や駅のホーム、公園のベンチなどなんでもいいのですがそういった単純ななにかにおいても「できるだけいい感じに撮りたい」と思うのです。人は根本的に「他人によく見せたい」と思うものなのです。ひとつの映像を得た場合、それはハードディスクなりクラウドなりに定着しているわけで、取り返しのつかないなにかに成っているのです。「あんな、下手クソな写真をSNSにアップしないでよ!」と後で怒っても、遅いのです。

 

 

 

より経済的な理由から逃れた、冒険的な映画制作はひとつの映像から出発してもかまわないのですが、ひとつの映像の中のいくつかの要素を見出すべきです。それはひとつの壁はひとつの壁ではなく、それ以上のなにかがあるからで、パイの断面のように20か30に折り畳まれた何かがあるからです。壁を見るということは壁にかかわる想像力の発生の原因もそこにはあるのです。たとえば……セメントであったり石材であったり、FRPであったり、つまり壁の素材というものが関わっていて、それにその素材を作るだれそれがいて、だれそれがいるということは、そのだれそれの生活があるはずで、そのだれそれはガールフレンドと同棲中であったり、手取りが24〜30万だったりするわけで…。……わたしは映像には、深層と表層がある、深層を読み解くベきだ、などと言っている訳ではありません。映像には表層しかありません。にもかかわらず表層には無数の何かがあるのです。おそらくはニーチェが「表層の奥行」または「表層の、その見せかけの奥行」と呼んだ何かがあるのです!…そうでないと…次のカットが見つかりません。壁のカットの次にくるカットが見つからず、投げやりになって半裸の男の写真を繋いだりするのです。そして「野上君、君の伝えたいことは一体全体なになんだね?」と不思議がられるのです。

 

 

そうです。ひとつのカットに繋ぐべきものはひとつのはずなのに、原理的にはいくつものカットから選べることを忘れてはいけないのです。そのひとつは原理的には無数の、天文学的な数の選択肢の中から選ばれるのです!…そして人々はあまりにも「連続性」というものに囚われています。もちろん話し言葉や書き言葉においては、連続性を保たなければ意味というやつが発生しないので…わかりやすい連続性が歓迎されると同時に飛躍を含む非連続性は嫌われるのです。

 

 

果たして映像の文法などと言ったのはいったい誰でしょう?サドゥールでしょうか?エイゼンシュテインでしょうか?いや、文法と言いつつも、映像に「てにをは」や定冠詞や接続詞や倒置法や付加疑問文があるからそこを取り違えないで映画を見ようじゃないか!、とそこまで言っているわけではありません。それに経済的理由に組み込まれていない映像は、より次のカットを決めにくいものなのです。そしてそこにこそモンタージュの真価があるはずです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「2022年からの〈真の映画史〉」に向けての序説 #6

頭を切りかえるべきです。電子回路が2つあり、その2つをスイッチを使ってつなげたり、切断したりするようなものです。「おい待てよ、ひょっとすると…」ということはよくあります。まずはそういうスイッチを入れるべきです。hatena blog…ここには誰もいません。SNS上にいる何人かさえもいません…。そう、つい先日わたしは東京のとある場所で「超現代映像の夕べ」という映像上映のイベントにおいて「第4映画ー1(第1期)」と「第4映画ー2(第2期)」からの何本かを、といっても一本につき3分~5分というきわめて短いものですが、上映しました。会場には15人ほどの人がいて…。人が映画によって、映像やそれに付随する音響によって集まるというのはとても良いことです。わたしが自室で一人で見るのとは何らかの違いがあります。そして上映直後に今見た映画についての感想を述べることは時間をあけて述べるよりもいくらか良いことのように思えます。

 

 

 

頭を切りかえるべきです。第1期のものは、2018年の12月のことですが新しい機材を買ったのでそれを試したかったという素朴な制作理由がありました。あの頃はまだかろうじて深夜のファミリーレストランで喫煙ができ、そこでは始発待ちの都会の遊び人がたむろしていました。わたしは買ったばかりのiPadで編集していました。そういう中でこしらえたものですから、幾分「せっかち」なものになったのかもしれません。ベリーショート、超短編ですから、ゆったりとした、アンゲロプロス長回しや、タルコフスキー長回しのようなカットは一つもありません。それに第4、というからには第1、第2、第3とあるわけです。第1は、リュミールからメリエスに至る前-劇映画期における映画、第2はエイゼンシュタイン、グリフィスを通過した劇映画、ないしハリウッドに代表される物語映画一般。第3はゴダールの、特に中国女以降の、あるいはジガ•ヴェルトフ集団時代を通過した、あるいはソニマージュ工房時代を通過した、劇映画や物語映画を脱構築したなにか、とても果敢な、冒険的ななにかに支えられた映画です。そして第4は……。わたしは20代からある種の「前衛娯楽映画」を作りたいとかねがね思っていて、いや、それは1997年に「ネッカチーフ」という映画を作ったにもかかわらず、それだけでは不十分で、それに、「ネッカチーフ」はだいぶ不評だったので…いや大不評だったにもかかわらず、2002年あたりの、池坊女子短期大学の一室で行われた京都国際学生映画祭の関西インディペンデントの枠組みに招かれたこともあり、ささやかながらもそれなりの社会的かつ歴史的な経緯というものがあるわけで、そろそろ新たな何かを提示するべきだと考えたのです。第4映画は1期、2期ともにモンタージュ映画のさらなる冒険なのですが、特に第2期のものについては、「社会的なモラルという観点」から見ると、著作権侵害、肖像権侵害が甚だしいので、それは「冒険が行き過ぎている」ということになります。しかし「ネッカチーフ」も、法に抵触しているのです。冒険的な要素を盛り込みすぎていたのです。

 

 

 

第2期のものは、まさしくあの疫病下で、コロナ第二波か、三波の期間に制作しました。とても早いスピードで1日に2本作ることもありました。ゴールデンウィークの最中でありながらも外出できなかったので、主に自室にこもって作ったのです。1997年の「ネッカチーフ」で試みたのは、クローズアップのカットの転用と再編集、再録音、それらの方法による同一確定的映像空間の創出、ということですが、第2期のものでも、同じことを再びやっています。おそらくYOUTUBE動画の中では2010年代の後半あたりからじわじわとアップロードされてきた「MAD」というジャンルに属しているのですが、他にも優れた「MAD」はあります。脚光を浴びたり、浴びていなかったりするのですが、多くは子供っぽい<遊び>という感覚に満ち満ちています。深刻なところがなく、笑い、あの痙攣的な、こういってよければバタイユ的な笑いを消費する事の肯定感に満ちています。このMAD系の映画、第4映画の第2期の何本かのベリーショートは、2020年のいつだったか…上映をしたのですが、客は全く入りませんでした…いや、正確に言えば一人入りました。その上映日までわたしはMAD映画の系譜とは何だろうと思い、あれこれと資料を探していたのですが、基本的文献というものはありません。MADはむしろ反映画の映画なのだから、映画の勢力に則るものではなく、70%は反するものなのだから、あるわけないのです。しかし、哲学者カントのアンチノミー論などはMAD映画に正統的な論理を与えるのにおおいに役立つだろうという気がしています。MADにおいて映画は敵であるかも知れないが、哲学は、ある種の哲学はMADの味方であり友人です。哲学ユニット、ドゥルーズ&ガタリの「哲学とは何か?」はきわめて科学的、ミクロ科学的な芸術論ですが…、いや、この話はやめておきましょう。

 

 

 

果たしてマルセル•デュシャンのある種の作品はMAD的なのだろうか?という問いはともかく、マーティン•アーノルド、ウィリアム•バロウズ。前者は映像の側面で、後者は映像と音響の関係性の側面でMAD的ななにかを実現させています。系譜的に捉えるならばこの二人が先行してMADを行ったと言わなければなりません。マーティン•アーノルドを知るものはきわめて少なく、特に注目されません。一方バロウズは、よく知られていますが、最近はあまり語られることはありません。

 

 

 

 

「2022年からの〈 真の映画史〉」に向けての序説 #5

コロナパンデミック以降、ある種の傾向として、海外旅行に行きにくい、または逆に海外の人は日本に来にくいということがあります。それぞれの国が鎖国状態に置かれる傾向にあるのでしょうか。そうするとますます国内に国内的ではない別のなにか、環境であれ、共同体であれ、システムであれ…そういう別ななにかを欲するのではないでしょうか。「国家なんて言うコンセプトはもう古いよ。だって今は資本が国家をコントロールしているんだから」と、そういうことも言えるでしょう。 中央集権的ななにかはゆっくりと薄れてくるような気がしますが、諸力は、一気に、ビリヤードの玉のように分散的になるわけではありません。

 

わたしはベネズエラブータン王国などどちらかといえばあまり馴染みのない国も含めて言いたいのですが、世界中にはさまざまな国家があります。しかし発展途上国と先進国を分けて考えようとしたのはいったいだれなのでしょう?個人ではなくとも、いったいどのような人たちがどういった時代に「この国は先進的である」とか「この国は発展途上国である」とか決めてかかるようになったのでしょう。たとえば、最新のiPhoneを持っている人に対して最新のiPhoneを持っていない人が「君は先進的だね。最新のiPhoneを持っているなんて!」と言うことはできます。その場合、先進的/発展的という観念そのものを分けているのはiPhoneという物体なのです。その目に見えるバージョンアップの過程なのですが、どうしてそのような判断が国家の場合にも適用されるのでしょう。おそらく産業革命を欲した人は、「これらの革命的要素を何とかして金儲けに変えなければならない。そうだ、どこかよその国の、これこれこういう人が欲していそうななにかを売りつけよう」と考えていたにちがいありません。それに利益をそこそこ出すためには数量的に多くの商品が必要になるわけで、それに比例して労働力も必要となってきます。その労働力となったのは多くのアフリカ人であり、またイギリス国内の労働者でしたが、ひどい搾取が行われていたのです。マルクスはこういったイギリスの惨状をきわめて緻密に分析したのですが…。

 

「お前たちは遅れている、お前たちはゴハンを手で食べる。おれたちはスプーンとフォークで食べる。おれたちの方が先進的だ。」といった安心感を得るために先進的/発展的という二分した観念を持ち出したのは先進国の側です。そこで発展途上国の人々は「いや、お前たちの言い分は間違っている。手で食べることの方がクールだし、べつにそれで死んでもかまわないのさ。」とは言い返さないのです。なぜなら…国連の組織自体が先進国のやり方でなされているという事実もありますが…発展途上国の側の人々は「オレたちはまさに発展しようとしている。発展途上国万歳!」とは言わないからです。もしくは、情報伝達上の操作があるからです。たとえば…ゴダールの発言を繰り返すのですが…アフリカの難民の子供たちの写真なり映像なりを先進国人は見ることができ、「なんて可哀想なんだ。オレはあんな国に生まれなくて本当に良かったと思う」と言うことができます。一方、難民の子供は、先進国の鼻を垂らした子供がポテトチップスを食べながら汚い手でゲームをやっているといった写真なり映像なりを見ることができないばかりか、そのような写真や映像を流通させてはいけないという暗黙のしきたりみたいなものがあるからです。

 

いや、そのような状況も変わりつつあります。たとえば今のアフリカは若者の数がとても多く、最後の資本主義のターゲット、いやマーケットになっています。それにスマートフォンの普及率が急速に上がり、そこには中国でFacebookが禁止されているようななにかがあるかもしれませんが、よその大陸の画像や動画を見る確率は増えてきているような気がします。それに人類の何%か何10%かは銀行口座を持つことができません。そういった状況においては、稼いだ金をどこかに送金するということができません。そして不思議なことに、すこしも利子率をあげることができないにもかかわらず手数料だけで儲けているような先進国の銀行はこれからバンバン潰れるだろうと言われています。これは逆説的なことですが、銀行口座に貯蓄をしておかなくても、電子決済だけでなんとかなる、つまり日本銀行にも財務省にも頼らずに電子の決済システムだけでなんとかなるのは当然の理だ、ということです。アフリカでスマートフォンの普及率が急速に上がっているのはこのためなのです。

 

映画という大陸は…音楽という大陸よりも、建築という大陸よりも、美術という大陸よりも、かなり小さいものです。なぜなら映画の歴史はとても浅いもので、50%は、「三船敏郎、あいつはいい役者だ。」とか「ジェラール•フィリップ、あいつはイケメンの元祖だ。」とかで成り立っていますが、50%はメディア史に依存しながら生きているからです。音楽や美術の歴史は、あまりにも長いのでメディア史という近年のなにかには回収されない強度というものが備わっているのです。どちらがどうというわけではないですが、問題にされていないのが、映像そのものの美、かつて、いまも日本人がもてはやしているであろうルノワールの裸婦の表面への評価に似たなにかであり、クロード•ドビュッシーが音によるスケッチを施した曲「映像」なりの音の表面への評価に似たなにかの歴史なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

「2022年からの〈 真の映画史〉」に向けての序説 #4

たしかに、わたしは並外れた「よそもの」です。映画の仕事などひとつもしていないにもかかわらず、〈 真の映画史〉とか言っているからです。でも、それをどうにかしよう、少しでも映画の仕事というやつに近づこう、とするべきじゃありません。重要なのは日々、きわめて個人的なやり方で映画を撮り、映画を撮っているフリをするのではなく、映画を撮り、映画のためのワンカットを繋いだり、ワンショットを撮ってHDMI端子を使ってテレビやプロジェクターで見直すことです。わたしは半年前あたりに撮影専用のスマートフォンを買いました。それは撮影するためだけのものです。現代では撮影機械の最小サイズはスマートフォンです。それにyou tuberらの撮影環境が、とりわけ室内の撮影環境が充実を目指すと同時に撮影ガジェット、照明ガジェットは飛ぶように売れます。でも悲しいかな、それらのガジェットは…なにか素朴な商品、石鹸やシャンプーの詰め合わせセットが素晴らしいとか、北海道で取れたカニがいかに美味しいかを紹介したり、「可愛いわたしを見て欲しい」という欲求の現れを多分に感じられるだけのなにかを紹介するためだけに使用されているのです!もちろんそうじゃない動画もありますが、総じて言えることは、そこには真のイマージュがないということです。そこにはイマージュを作ろうという意志はありません。定着させるべきなにかはありますが、乗り越えるべきなにかがありません。

 

1080pでアップロードされた動画は果たして35mmフィルムに勝るとも劣らない画質が確保できるのかどうかはわかりません。しかしAmazonで2万ないし3万で購入できるプロジェクターで映すにはなんら遜色のないものなのです。

 

 

そうです。テクノロジーが更新されると同時に映画にまつわるあれこれの考え方も更新されるべきなのです。もはや資本主義はそのトンネルの出口を探しているのか、トンネルそのものを壊そうとしているのか、わかりません。「これではなくあれ」、つまり差異を生み出すことにことごとく疎んじ果てた、いちシステムの姿であるにもかかわらず、それでも資本主義は素晴らしいというお偉方がいらっしゃるのはわたしも承知しています。

 

 

 

多数の金持ちはあまり考えません。考える必要なく暮らせていけるからです。しかしそういう状態が続くのはあまり面白いものではありません。「できるならオレも何か画期的なことをしよう、そう、革命とか…そうだな、しかし革命は自分一人じゃできないし革命をしようとしている人たちに1000万投資しよう…そうすれば世の中はあと4.5年はいくぶん面白いものになるはずだ…」そう思っている金持ちも中にはいるでしょう。しかし人生が喪失するのを恐れない人生ではなくなり、どこか守備するべきものとなった瞬間に、すべてゼロに戻るのです。なかったことになるのです。

 

 

 

ある感情を抑えるためには、その逆の感情が同量か、もしくはそれ以上に要ります。「嬉しい」という感情を抑えるには「嬉しくない」という感情が要り、「あいつにムカついている」という感情を抑えるためには「あいつにはムカついていない」という感情が要ります。こういったことは哲学者のスピノザから学びました。きわめて数学的な定理として彼の哲学は成り立っていますが、感情Aと対立する非感情Aの割合を数学的に処理しなければならないということです。でも実際なかなかうまくいかないのが現実生活というものです。わたしの若い頃はかなり言い合っていました。同世代の者にも目上の者にも口論をしかけていました。「君が映画というものを感情で見ているのはおかしい。なぜなら良かった、とか悪かったとか言っているだけだったら、それは感情の奴隷であるに過ぎない」ということを平気で言っていたのです。そこには一定の真理があると同時に一過的な真理しかありません。なぜなら感情というやつはすぐに忘れ去られるもので、結局は「どうしてあの時、あんなに怒っていたのか」とか「あの時あの程度のことで喜んでいたのはどうかしていたと思う」とか、そういうふうに捉え直すことができるからです。しかし、感情を内部に溜め込んでいると、それは取り返しのつかないストレスになったり、憎しみになったりします。だから…コツがいるのです。感情をコントロールするコツがいるのです。人がブチ切れているところを見るのは愉快なことです。しかし、自分がブチ切れるとなると、必ずしも愉快なことではないのです。

 

 

 

多くの物語映画は、登場人物が感情を持つということに極めて大きく依存しています。また感情を露呈するということは大いに歓迎されています。こういったことはおそらくはギリシャ悲劇や喜劇まで遡って考え直す必要があります。演劇は大袈裟な身振りをしなくては観客には伝えることはできません。「オレは今怒っているぞ」というたんなる言明ではなく、身振り手振りで怒りを表明することができなくてはならないのです。おそらくサイレント映画においても、そのようなオーバーアクションが採用されています。そうでないと伝えられないという何かがそこには見出されていたのです。それ以前にヴェルディのオペラやワーグナーのオペラを含めて考えると、どのようにしてそういった感情のアクションと音楽とが結びついてきたのかを検討することができます。しかし残念ながら、それらの映像の記録はありません。しかし、ないからこそ研究者は研究すべきなのです。…日本の能はそれらの、ヨーロッパの演劇装置に比べてアクション的には地味であり、能面からして、感情と非感情の総体として…先に申し上げたスピノザ的な意味での数学的処理のなされた感情表情の総体として捉えることもできます…いや、能の事に関してはまたの機会に語ることにしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「2022年からの<真の映画史>」に向けての序説 #3

 

 

 

語り続けなければならない、という以前に考え続けなければならないのです。そして撮影し続けなければなりません。しかし、この「何々せねばなりません」というのはかなり窮屈な何かです。「オレは考えたい時に考えるさ」と言った方がはるかに気楽です。他人に対して何か強制するという圧迫感がありません。重要なのは、無意識の流れに沿って、自動的に考え、語ることです。ここまでは何もいりません。

 

 

だからそうするべきなのです。考え語ることは、あなたの脳と口さえあればできるのですが、書こうと思えば鉛筆や消しゴムが要ります。JIS配列なりUS配列なりのキーボードが要ります。書きながら考えたり、過去にとったメモを参考にしながら考えるということもできます。しかし、撮影しようとなれば…あなたが考えたり想像した創造的な何かを撮影しようとなれば…撮影カメラが要ります。それをより丁寧に撮影しようとなれば照明装置が要ります。そして「おや?おれの撮りたかったものはこんなんじゃないぞ。」と言って、光を強化させるためのレフ板や、影の定着を和らげるためのフィルターなどが要ることに気づくのです。

 

 

そうです。わたしは近いうちにある演奏者の撮影をするのですが、一体全体どのように撮ればいいのか?という問いを自らに課しています。「いいさ、その日、その現場で考えるさ」と言うこともできるのですが、事前に用意するべき何かがあって然るべきなのです。何の演奏かといいますと、韓国の楽器であるチャンゴというものです。演奏者は女性なのですが、わたしはずいぶん前に、といっても2020年の暮れにその楽器演奏を見ました。サムルノリという韓国の独自の芸能があり、それは音楽と踊りの組み合わせなのですが、そのレコードを聴いたことがあるにもかかわらず、なまの舞台や舞台上演の演奏のビデオなどは見たことがありませんでした。チャンゴはまさにそのサムルノリの演奏時に使われる楽器で、最初は放浪芸のような何かだったのですが、次第にキム•ドク•スーという男性が現在のサムルノリのスタイルとして定着させたのです。そこでわたしはきれいな洋服を着てスタインウェイなりYAMAHAなりのピアノを弾く女性よりも、サムルノリで使用されるチャンゴという打楽器を普段着で演奏する女性の方が興味深いということに気づきました。まさにチャンゴという楽器はあまり知られていません。銅鑼(ドラ)が知られているほどには知られていないのです。

 

 

ある程度、文明が発達すると…というか文化が成熟してくると、「もっと違う面白い文化はないのかね?」となります。わたしが覚えているのはワールドミュージックという商売用のパッケージであれやこれやがもてはやされていた時期です。そこではあたかも「欧米文化ではもうダメだ」というような風潮があって、独自の聴取コミュニティを形成していました。音楽においては…まさしくバッハ以降の平均律以降の音楽においては、「単純ななにかの繰り返しだ」という印象を持ちます。それは現在のJ-POPまで連綿と続いているのですが、そうではなく、最初から(c音からはじまる)7音音階からはズレていて、なおかつそもそもからしてチューニングがちがうようななにかを感じさせるような音楽は世界中にあるのです。今更ながら思うのですが、映画は、こう言ってよければ「映像と音響の組み合わされたなにか」はそういったより特殊な音楽を紹介するのにも役立ってきました。わたしはマドンナのPVやフランク•ザッパのPVのことを言っているのではありません。ワールドミュージックを扱ったものではないのですが「ステップ•アクロス•ザ•ボーダー」という映画を1990年代半ば頃京都駅の脇ににあったルネサンス•ホールで見ました。これはスイスの若い男二人組が共同して作ったものです。そこではフレッド•フリスというギター奏者が大きく取り上げられているということで観に行ったのですが、フリスの音源を聴いていても分からないことがわかりました。それこそ映像の力であり、編集の力なのです。ギターの弦に向かって米粒を放り投げて、あのサウンドを作っていたなんていうことはCDを聴いていても分からないことなのです!

 

 

映像は音楽を欲しているし、音楽は映像を欲しています。それらは最愛の夫婦のように仲が良いのです。そして絵画は…いや、この話は後回しにしましょう。…もしくはトーキー映画の出現以降に音と映像の仲を引き裂いたなにかがあるとすれば、ストローブ&ユイレやゴダールの映画ということになるのでしょうか?彼らの映画では映像を盛り上げるための音楽という視点がありません。いや、解釈のしようによってはあるのですが、そういうことに、つまり盛り上げることに対して懐疑的でありその懐疑こそがフィルムに定着しています。グスタフ•レオンハルトが出演している『アンナ•マグダレーナ•バッハの日記』では、演奏が少しも盛り上がっていないような撮影方法が採用されています。いっぽうバッハの時代の音楽家の衣装やカツラのリアリスティックな何かはそれ自体盛り上がっているような感じを与えます。演奏シーンが長く、そして突然紙に書かれた文字が大写しにされて、それは不自然だ、といってもいいほどの早口のナレーションが被さったりします。そしてまた退屈な演奏シーンが続きます。それが悪いと言っているのじゃありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「2022年からの〈 真の映画史 〉」に向けての序説 #2

ここ20年ほどで、機材の進化は恐るべきスピードでなされました。思うに、ガスコンロとか、洗濯機に関してはそれほど進化していません。ガスが電気に変わったり、ややこしい機能がついたりしただけです。だけど、映像をこしらえる機材に関しては20年ほど前に比べるとみちがえるような変化を遂げたのです。わたしが思うにその労力、映像を切ったり貼ったり、そこにナレーションや音楽を付け加える労力は30分の1になりました。映像は今愛されています。いや、むかしから愛されていたのですが、むかしは手の届かないなにかとして愛されていたのです。ある時期までのスクリーンやテレビは「手の届かないなにか」として久我美子綾瀬はるかたちを映していました。現在は、手の届きそうな何かとして、俳優やアイドルたちは画面の中にいるのです。もしくは「手の届きそうな」という錯覚を与えるのに成功している人物として、画面の中にいるのです。


わたしも含めて現在の映像作家や映画作家YouTubeのことに言及せざるを得ません。YouTubeは手の届くところにある、それは素晴らしいことだ。と言わねばなりません。それにGoogleYouTubeを買収して以降は、人々に利益を与えたり、損失を与えたりするものになりました。ある種パチンコ台や馬券にようになったのですが、それも愛される原因なのです。


つい先日、ある場所で若い女性作家の試写会が行われたのですが、それはノートパソコンから映像作品を引き出す手法をとっていました。上映はとても上手くいったのですが、それが終わったあと、「私のYouTubeチャンネルにためこんである小品も上映できるかな。試したいんだけど。」と言いました。彼女はすぐに承諾して、ノートパソコンを差し出してくれました。そして上映は難なくできたのです。要するにWiFiのおかげでこういった簡易な上映ができるのです。いや、WiFiがなくても未然にダウンロードしておけば上映できるのです!


このことに関してはあまり難しく考える必要はありません。クラウドと小型デバイスとプロジェクターと音響装置があれば簡易に上映できるという時代なのだという認識さえ持っていればいいのです。それに一気に300人の観客の心を動かすのではなく10人ないし15人の観客に見てもらい、1人か2人の心を動かせばいいのです。イエス•キリストでさえ、弟子は10人少しだったのです。映画は…ハリウッドという大恐竜のせいで、とてつもなく馬鹿でかいものとして人々を魅了してきました。その表象形態は「その映像には金がかかっているのかね?」というある種強迫的な観念を植え付けるのに成功したのですが、映像に金がかかっているということは必ずしも「その映像はすばらしい」という評価にはつながりません。3000円もするハンバーグランチが必ずしも美味しいとは限りません。500円のハンバーグランチの6倍美味しいとは限りません。その店の家賃や人件費、維持費なども含めての3000円なのであり、素材が3000円という訳ではないのです。

 

そうです。わたしは2万円かかっているスピルバーグのワンカットよりも2000円しかかかっていないアンゲロプロスのワンカットの方が、より高尚であり魅力的だと思います。いや、映像に関する分析はそこまで細かくなされていませんし、ますます、細かく分析されることは無くなってきているように思えます。それに…焼き鳥の肉は細かく分析されており、この部位よりもあの部位の方が美味しく、そして希少価値もあるので値段を高めにしておこうという観念があります。焼き鳥はすでに全体であることをやめ、断片の自律的な体系としてあります。断片の組み合わせとして強力に人々を魅了しているのです。映画の見方も、というよりも制作する上で、値段のレートをつけるべきです。断片としてのワンカットが美学的単位や経済的単位となるべきなのです。エキストラを使用した10秒のワンカットが経済的価値として200円だったとしても、その美学的価値は2000円だった。なので、間をとって定価を1000円にしておこう、ということを見出すためです。

 

わたしは最終的に映像の断片は売買の対象とならなければならないと思っています。そして世の中が「サスティナビリティ」とか言っている限りにおいて、映像は再利用の価値のあるものとして、見なさなければなりません。ゴダールはこのことに早くから気づいているはずですが、映画はまだまだ全体性の神話に囚われています。

 


あるまとまった短い観念を持つということ……それはわたしを苦しめません。それはより良い方向へと導くなにかです。一方長い読書はわたしを苦しめることがあります。

 


絵画は…そう絵画を見ていると、例えばモランディの静物画をじっと見ていると、静謐ななにか…気取ったところがなく、一切の虚飾をはぎ取った誠実さを感じます。それは実際の皿や小瓶を見ているのとはちがい、絵画がもたらすものです。

そうして「わたしもモランディの絵画のように皿や小瓶を撮ってみたいものだ」と思うのです。事実、皿や小瓶を撮影することは簡単なことです。でもノーマルに考えてそうしたいと願う人はあまりいません。絵に描きたいという人ならいるでしょう。重要なのは「モランディの絵画のように」と言ったときに、具体的なものの決定と、それらの配置を決めなければならず、その次にカメラアングルや照明を決めなければなりません。「コップがこの位置じゃあモランディ的ではないぞ」とか「このテーブルクロスの皺の寄せ方はモランディ的というよりもセザンヌ的なんじゃないかな」とか、そういったあれこれ、これから撮ろうとしている映像にかんするあれこれが頭を占めはじめるのです。

 

そうです。わたしには「ワンカットにも絵画的な価値があるんじゃないか」と思えてきているのです。30秒ないし、60秒のカットだけを絵画として見ることができるのではないかということです。それに90パーセントの映画は性急に物語を描きたいために映像の絵画的な価値を問おうとはしません。カメラワークが介在しているワンカットにおいては絵画的ななにかはむしろ失われます。

 

それはそうとジョナス・メカスは自身の16mmのフィルム数コマをビニール袋に入れてそれを上映会場で販売していたように記憶しています。そこには、物としてのフィルムの価値がたった数コマで見出されるということになります。ようするに、映画の価値をいったん物語の価値から離して捉えるとさまざまなものが見えてくるのです。

 

 

1800円で120分の物語の全体を売るのではなく、絵画的、または美的な価値のある3分の映像を500円で売るということも考えなければならないのです。最近の若者、特にアメリカのZ世代といわれている若者は倍速で映画を見ています。それでは映画を見たことにはならないにもかかわらず、映画を見ているのです。NetflixAmazonプライムの話でしょうが、このやや行き過ぎた現象が教えるものは、映画鑑賞というものは時間がかかる、という感覚が若者に広まってきているということです。

 

 

 

 

「2022年からの〈 真の映画史 〉」に向けての序説 #1

ふと立ち止まって、ついつい見続けてしまう光景というものがあります。自身の脳にロケハンアプリがデフォルトでインストールされているかのようですが、常に映像によって録画されるべき何かを探しているのです。録画されるのは常に映像なのであってアニメとか絵、イラストではありません。実際の事実としての光景であって、その背後には無数の歴史が重なり合った事実があります。光景との出会いはこういってよければ<電撃的>であり<瞬間的>です。映画の出発点とは、「あるすぐれた俳優に会った」とか「映画の予算となる1000万が手に入った」ではなく「ある光景に出会った」ということもありうるのです。


そしてつい先日、わたしは電撃的な出会いを通過して数日後、それを撮影しに行きました。いや、正確に言えば三脚を持たずに試し撮りに行きました。導かれる者と導く物の関係性が成立していたのです。人間はこちらに語りかけてくるものです。「今日はスパゲッティを食べた。それは美味しかった。」とか「新しいシャツを買った。それは私に似合うと思う。」とかです。しかし光景は何も語りません。そこがいいところです。映像とはこちらに語りかけないからこそ映像なのです。


わたしはサボっていたわけではありません。さまざまな音楽家の演奏や、その他気になるもの、都市の光景、植物や壁、部屋の内部や食器、絵画などを撮影しては、真に撮影すべきものをこちらにたぐりよせていたのです。それにしても撮影したいと思いながらもいまだ撮影していない対象が多すぎるというのも現実です。そう、その態度は純然たる演出家のそれではありません。技術者としての撮影者です。しかし、撮影こそが演出なのです。演出家は本番の撮影後に「おい君、今の表情はまちがっている。もっと眉毛を真ん中に寄せてくれないか」とか「もう一回撮りなおすぞ、なぜなら…」と言うだけです。わたしは、多くの音楽演奏家をかなりの回数撮影して気づいたのですが、撮影とはすでにして演出なのです。なぜなら被写体が「そうだ、オレは、今撮影されている。今まさに…」ということがわかっているからです。その上、撮影者はそこにこそ意識を向けながら撮影せざるをえないし、またそうすることによって撮影者と被写体の間で良好ななにかが生まれるのです。ここには撮影をめぐってのある種のプロブレマティーク(問題提起的要素)があります。それは発展的なものであって古典的なものではありません。(2022/1/5)

 

撮影者、いわゆるカメラマンに監督が指示をするという現場の動かし方には理にかなったところとそうでないところがあります。監督の思うようにカメラが回っていないことがあり、「おい、お前、そんな画角じゃだめだよ。それにこれじゃ露出を絞りすぎだ。画面が暗すぎるよ。」と言ったりするケースがあるのです。カメラマンはやりなおすのですが、なかなか監督の思うような画面に至りません。カメラマンはブチ切れて「全てを任すと言ったじゃないか!このクソ監督め!」と怒鳴ったりします。


つまり……私が言いたいのは監督がカメラを回した方が早いのです。だから監督もカメラを回す術を学ぶべきなのです。「いや野上君、それではダメだよ。演出に徹底できないじゃないか」と言われることもあります。いやわたしはすでにそういった考えを放棄しています。俳優には事前にリハーサルの時間を与えます。それを見ながら「いや、そうじゃない。ここでいったん立ち止まって、一呼吸置いてから、男にバケツの水をぶちまけてくれ」と言うのです。そしてカメラを回せるタイミングになると撮影を開始するのです。つねにリハーサルを入念にするのです。そうすることによって、同時にカメラワークをよりよく変化させ決定させることができるのです。


ヒッチコックの時代は、いやもっと前からでしょうか、ピント合わせの人までもがいました。彼はカメラマンの助手とかいう呼ばれ方をしていて、被写体の動きに合わせて紐のメジャーを使いながら焦点距離を計測していたのです。ピントリングのそばにマスキングテープを貼りそこにペンで記しをつけておき、本番の時にその記しにのっとってピントを合わせていました。完全に指先の作業です。むかしのフィルムムービーカメラにはオートフォーカスなんていう便利な機能はなく、ピントを合わすのも人力で行っていたのです。要するに……カメラマンと監督を分離させていたのはテクノロジーそのものでもあったのです。

 

そうです。テクノロジーの進化に準じて映画撮影のあり方も変えるべきなのです。もっとも複数台でカメラを回すコンサートのような形態においては監督がカメラを回すことはできません。そこには劇映画とはまた考え方のちがうなにかがあります。「盛り上げるためには何をどうすればいいんだろう」というよくあるヤツで、「コンサートがいかにも盛り上がって見えるようなカメラワークとはいったいどんな撮り方なんだろう」というものです。(2022/1/5)

 

 

 

 

「すてきな他人2」

mm8er MOVIES vol.4

メトロノーム2部作の後編「すてきな他人2」の上映を終えた

高円寺4thのスクリーンも新調で画像解像度が前よりもよくなったと錯覚

撮ったのは1995年、ー26歳〜結婚前でいちばんチャラい時期なのではないか、と

 

当時同志社大学の学生だったカップルを起用し、わりかし自由度の高い映画だと再認

セリフから意味の重みを剥奪している

言葉遊びのノリの連続?

 

若い頃なるべく好き放題やっておいて良かった、とおっさんくさいこと言うが

本当にその通りです

こうして形になって残っているのは

再共有の歓喜の第一段階

それでは

 

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大阪から駆けつけてくれたお客さんにサブレをいただきました

ありがとうございます

 

 

 

 

 

 

 

演劇ノート 「十字架を背負った男」 in easy motion

 

当演劇の主演、伊藤武雄に誘われて先日の11月6日は南池袋、box in box theater シアターグリーンにて観劇。当日の街の様子はパンデミックも薄らいでようやく活気を取り戻したか、陽気な雑踏感にあふれていたと思われた。そんななか「イエス・キリスト」の自伝的断片を現代風にアレンジしつつも舞台化した「十字架を背負った男」を観た。

 

時間に遅れるかとやや焦ったがオープン定刻に到着し、中に入る。舞台セットに目をやると、うらぶれ、殺伐とした海岸地域のリアリティのある舞台装置がセットされている。

 

キリスト生涯の最後は十字架を背負って「ゴルゴダの丘」に向かうのだから丘のセットなのではないか、とやや気になっているうちに開幕。

 

(つづく)

 

 


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8mm短編上映+LIVE ▪mm8er MOVIES vol.4▪

 

高円寺4thでの8mm上映はこれでいったん終了となるでしょう。たんなるノスタルジアではないフィルム=物質の結晶が放つ「場所の芳香」をぜひ体感してください。

 

 

 

 

▪mm8er MOVIES vol.4▪


野上亨介 8mm自選作品集

ムラカミロキ 8mm自選作品集

ムラカミロキ LIVE

野上+ムラカミ 小対談

 

 


2021/11/19(fri)

19:00open 19:30start〜22:00

2000yen (include 1drink)

@Kouenji 4th

http://fourthfloor.sub.jp/

 


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memo

音楽聴取について

 

普段よく音楽を聴く方→どんな音楽か?

→ 主旋律のあるポップス、ロック、ロマン派の標題音楽、主旋律の曖昧なジャズ、旋律を無視した即興曲、など色々

歌詞従属的な楽曲構成がいまだに支配的だが、だんだんと減衰しているように思える

 

聴き方の複数性を意識しているわけではないが、そうしている場合もある

だいたい一般化していうと

感情に相同してしまう方向へと持っていく→ポップス、ロック、その他

↓↓

感情にひっかからない方向へと持っていく→歌詞のない、また旋律の曖昧なBGM音楽

🔺この移行がある

 

楽器(音発生)の起源がわかりやすい音楽は主旋律のない音楽(歌詞のない音楽)とも言える

ポップス聴取において<カラオケヴァージョンの方がいい>という現象

(時代的にはCDシングルのおまけトラック以降、古くは8トラック録音のカラオケテープから?)

だいたいジャズならsextet(六重奏)あたりまでが、かろうじて聴き分け可能(人による)

この「聴き分け可能性の高い音楽性」を求める動きがある。

 

 

と、以上カーラ•ブレイのsextetを聴いていたらメモしたくなった。

 

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