「2022年からの〈 真の映画史〉」に向けての序説 #5

コロナパンデミック以降、ある種の傾向として、海外旅行に行きにくい、または逆に海外の人は日本に来にくいということがあります。それぞれの国が鎖国状態に置かれる傾向にあるのでしょうか。そうするとますます国内に国内的ではない別のなにか、環境であれ、共同体であれ、システムであれ…そういう別ななにかを欲するのではないでしょうか。「国家なんて言うコンセプトはもう古いよ。だって今は資本が国家をコントロールしているんだから」と、そういうことも言えるでしょう。 中央集権的ななにかはゆっくりと薄れてくるような気がしますが、諸力は、一気に、ビリヤードの玉のように分散的になるわけではありません。

 

わたしはベネズエラブータン王国などどちらかといえばあまり馴染みのない国も含めて言いたいのですが、世界中にはさまざまな国家があります。しかし発展途上国と先進国を分けて考えようとしたのはいったいだれなのでしょう?個人ではなくとも、いったいどのような人たちがどういった時代に「この国は先進的である」とか「この国は発展途上国である」とか決めてかかるようになったのでしょう。たとえば、最新のiPhoneを持っている人に対して最新のiPhoneを持っていない人が「君は先進的だね。最新のiPhoneを持っているなんて!」と言うことはできます。その場合、先進的/発展的という観念そのものを分けているのはiPhoneという物体なのです。その目に見えるバージョンアップの過程なのですが、どうしてそのような判断が国家の場合にも適用されるのでしょう。おそらく産業革命を欲した人は、「これらの革命的要素を何とかして金儲けに変えなければならない。そうだ、どこかよその国の、これこれこういう人が欲していそうななにかを売りつけよう」と考えていたにちがいありません。それに利益をそこそこ出すためには数量的に多くの商品が必要になるわけで、それに比例して労働力も必要となってきます。その労働力となったのは多くのアフリカ人であり、またイギリス国内の労働者でしたが、ひどい搾取が行われていたのです。マルクスはこういったイギリスの惨状をきわめて緻密に分析したのですが…。

 

「お前たちは遅れている、お前たちはゴハンを手で食べる。おれたちはスプーンとフォークで食べる。おれたちの方が先進的だ。」といった安心感を得るために先進的/発展的という二分した観念を持ち出したのは先進国の側です。そこで発展途上国の人々は「いや、お前たちの言い分は間違っている。手で食べることの方がクールだし、べつにそれで死んでもかまわないのさ。」とは言い返さないのです。なぜなら…国連の組織自体が先進国のやり方でなされているという事実もありますが…発展途上国の側の人々は「オレたちはまさに発展しようとしている。発展途上国万歳!」とは言わないからです。もしくは、情報伝達上の操作があるからです。たとえば…ゴダールの発言を繰り返すのですが…アフリカの難民の子供たちの写真なり映像なりを先進国人は見ることができ、「なんて可哀想なんだ。オレはあんな国に生まれなくて本当に良かったと思う」と言うことができます。一方、難民の子供は、先進国の鼻を垂らした子供がポテトチップスを食べながら汚い手でゲームをやっているといった写真なり映像なりを見ることができないばかりか、そのような写真や映像を流通させてはいけないという暗黙のしきたりみたいなものがあるからです。

 

いや、そのような状況も変わりつつあります。たとえば今のアフリカは若者の数がとても多く、最後の資本主義のターゲット、いやマーケットになっています。それにスマートフォンの普及率が急速に上がり、そこには中国でFacebookが禁止されているようななにかがあるかもしれませんが、よその大陸の画像や動画を見る確率は増えてきているような気がします。それに人類の何%か何10%かは銀行口座を持つことができません。そういった状況においては、稼いだ金をどこかに送金するということができません。そして不思議なことに、すこしも利子率をあげることができないにもかかわらず手数料だけで儲けているような先進国の銀行はこれからバンバン潰れるだろうと言われています。これは逆説的なことですが、銀行口座に貯蓄をしておかなくても、電子決済だけでなんとかなる、つまり日本銀行にも財務省にも頼らずに電子の決済システムだけでなんとかなるのは当然の理だ、ということです。アフリカでスマートフォンの普及率が急速に上がっているのはこのためなのです。

 

映画という大陸は…音楽という大陸よりも、建築という大陸よりも、美術という大陸よりも、かなり小さいものです。なぜなら映画の歴史はとても浅いもので、50%は、「三船敏郎、あいつはいい役者だ。」とか「ジェラール•フィリップ、あいつはイケメンの元祖だ。」とかで成り立っていますが、50%はメディア史に依存しながら生きているからです。音楽や美術の歴史は、あまりにも長いのでメディア史という近年のなにかには回収されない強度というものが備わっているのです。どちらがどうというわけではないですが、問題にされていないのが、映像そのものの美、かつて、いまも日本人がもてはやしているであろうルノワールの裸婦の表面への評価に似たなにかであり、クロード•ドビュッシーが音によるスケッチを施した曲「映像」なりの音の表面への評価に似たなにかの歴史なのです。