「2022年からの〈真の映画史〉」に向けての序説 #6

頭を切りかえるべきです。電子回路が2つあり、その2つをスイッチを使ってつなげたり、切断したりするようなものです。「おい待てよ、ひょっとすると…」ということはよくあります。まずはそういうスイッチを入れるべきです。hatena blog…ここには誰もいません。SNS上にいる何人かさえもいません…。そう、つい先日わたしは東京のとある場所で「超現代映像の夕べ」という映像上映のイベントにおいて「第4映画ー1(第1期)」と「第4映画ー2(第2期)」からの何本かを、といっても一本につき3分~5分というきわめて短いものですが、上映しました。会場には15人ほどの人がいて…。人が映画によって、映像やそれに付随する音響によって集まるというのはとても良いことです。わたしが自室で一人で見るのとは何らかの違いがあります。そして上映直後に今見た映画についての感想を述べることは時間をあけて述べるよりもいくらか良いことのように思えます。

 

 

 

頭を切りかえるべきです。第1期のものは、2018年の12月のことですが新しい機材を買ったのでそれを試したかったという素朴な制作理由がありました。あの頃はまだかろうじて深夜のファミリーレストランで喫煙ができ、そこでは始発待ちの都会の遊び人がたむろしていました。わたしは買ったばかりのiPadで編集していました。そういう中でこしらえたものですから、幾分「せっかち」なものになったのかもしれません。ベリーショート、超短編ですから、ゆったりとした、アンゲロプロス長回しや、タルコフスキー長回しのようなカットは一つもありません。それに第4、というからには第1、第2、第3とあるわけです。第1は、リュミールからメリエスに至る前-劇映画期における映画、第2はエイゼンシュタイン、グリフィスを通過した劇映画、ないしハリウッドに代表される物語映画一般。第3はゴダールの、特に中国女以降の、あるいはジガ•ヴェルトフ集団時代を通過した、あるいはソニマージュ工房時代を通過した、劇映画や物語映画を脱構築したなにか、とても果敢な、冒険的ななにかに支えられた映画です。そして第4は……。わたしは20代からある種の「前衛娯楽映画」を作りたいとかねがね思っていて、いや、それは1997年に「ネッカチーフ」という映画を作ったにもかかわらず、それだけでは不十分で、それに、「ネッカチーフ」はだいぶ不評だったので…いや大不評だったにもかかわらず、2002年あたりの、池坊女子短期大学の一室で行われた京都国際学生映画祭の関西インディペンデントの枠組みに招かれたこともあり、ささやかながらもそれなりの社会的かつ歴史的な経緯というものがあるわけで、そろそろ新たな何かを提示するべきだと考えたのです。第4映画は1期、2期ともにモンタージュ映画のさらなる冒険なのですが、特に第2期のものについては、「社会的なモラルという観点」から見ると、著作権侵害、肖像権侵害が甚だしいので、それは「冒険が行き過ぎている」ということになります。しかし「ネッカチーフ」も、法に抵触しているのです。冒険的な要素を盛り込みすぎていたのです。

 

 

 

第2期のものは、まさしくあの疫病下で、コロナ第二波か、三波の期間に制作しました。とても早いスピードで1日に2本作ることもありました。ゴールデンウィークの最中でありながらも外出できなかったので、主に自室にこもって作ったのです。1997年の「ネッカチーフ」で試みたのは、クローズアップのカットの転用と再編集、再録音、それらの方法による同一確定的映像空間の創出、ということですが、第2期のものでも、同じことを再びやっています。おそらくYOUTUBE動画の中では2010年代の後半あたりからじわじわとアップロードされてきた「MAD」というジャンルに属しているのですが、他にも優れた「MAD」はあります。脚光を浴びたり、浴びていなかったりするのですが、多くは子供っぽい<遊び>という感覚に満ち満ちています。深刻なところがなく、笑い、あの痙攣的な、こういってよければバタイユ的な笑いを消費する事の肯定感に満ちています。このMAD系の映画、第4映画の第2期の何本かのベリーショートは、2020年のいつだったか…上映をしたのですが、客は全く入りませんでした…いや、正確に言えば一人入りました。その上映日までわたしはMAD映画の系譜とは何だろうと思い、あれこれと資料を探していたのですが、基本的文献というものはありません。MADはむしろ反映画の映画なのだから、映画の勢力に則るものではなく、70%は反するものなのだから、あるわけないのです。しかし、哲学者カントのアンチノミー論などはMAD映画に正統的な論理を与えるのにおおいに役立つだろうという気がしています。MADにおいて映画は敵であるかも知れないが、哲学は、ある種の哲学はMADの味方であり友人です。哲学ユニット、ドゥルーズ&ガタリの「哲学とは何か?」はきわめて科学的、ミクロ科学的な芸術論ですが…、いや、この話はやめておきましょう。

 

 

 

果たしてマルセル•デュシャンのある種の作品はMAD的なのだろうか?という問いはともかく、マーティン•アーノルド、ウィリアム•バロウズ。前者は映像の側面で、後者は映像と音響の関係性の側面でMAD的ななにかを実現させています。系譜的に捉えるならばこの二人が先行してMADを行ったと言わなければなりません。マーティン•アーノルドを知るものはきわめて少なく、特に注目されません。一方バロウズは、よく知られていますが、最近はあまり語られることはありません。