ヒッピーマリアンズのライブミュージックビデオ

 

 

 

ヒッピーマリアンズのライブミュージックビデオ



忘れないうちに記しておきたい。知っている人は知っているヒッピーマリアンズのリーダーまりあさんからライブの撮影をお願いしたい、さらにMVも作ってほしいと依頼を受けたのは2026年初頭のことだった。

 

ライブ場所は横浜の7thアベニュー。開催日は1月24日の土曜日だった。出演はトップ。持って行った機材は固定カメラ1台、ハンディの動き回れるカメラ1台、音声録音用のマイクだった。

 

ヒッピーマリアンズのライブはかつて2回見たことがあった。その時は「なんだかとらえどころがないバンドだな」「これといった特徴がない」というものだった。曲がダメだ。ステージがダメだ、言っているのではない。曲はどれも聞きやすいもので、ポップスとロックの中間といえばいい。ただ、すべての曲がその中間に位置しているというのではなく、ポップスぽい曲もあればロックっぽい曲もある、ということだ。そういう意味では多くのバンドがこういうスタイルを取っていると思う。ただ、なにかがちがうのである。なにかをバシっといい当てることばがなかなか見つからないのだ。

 

ある日。もしかして撮影当日のライブ後だったかもしれないが、まりあさん「うちらって山場のないバンドで云々…」ということを言っていたと思う。「山場がない、、たしかに、、」

 

そこで80年半ばのおそらく少女漫画の一角を形容していたと思うが、「山なし、意味なし、オチなし」というワードを思い出した。漫画創作上、なんらかの山場、意味づけ、オチを拒絶したような作風で、「ヤオイまんが」と簡略化、記号化されて流通したワードである。

 

「濃い」か「薄い」かでいえばとても「薄く」、「盛り上がろうとする意志」があまり見受けられない。(曲単体で盛り上がることはある)。映画にも共通するけど、時間芸術はだいたい後半すぎからだんだん盛り上がっていき、のこり8割りか9割りをすぎたあたりにエントロピーが増大して、爆発そして浄化(アリストテレスの定義したカタルシス?)→エンドというパターンがとっても多いのである。(演劇にもいえることかもしれない)。

 

こういう「盛り上がり成分の配分」もひょっとしたら時代時代によって細かくちがってくるかもしれない。ただ、この点(山場のない、つまり盛り上がりを欲しないという点)においてヒッピーマリアンズは他のバンドと比べて「ちょっとちがう」という印象を持った。



さて、MVである。15年ほど前に知り合いの知り合いのバンドのものを作ったことがあるが、ほんとうに久々で、映像のテクノロジーもそれなりに進歩している。2025年半ばからAIの動画生成をちょくちょく試していて、2026年に入ってからAI病人(AI廃人…このへんめっちゃ細かく自己分析してみたい)みたいな状態にもなったりしたが他のアプリとか連携しつつ凝れば凝るほど、知覚もメンタルもおかしくなってくるのである(現在はだいぶ落ち着いた)。そんな状態をなかばひきずりながら制作したが、なんとなく留意したのは先述した「とらえどころのない」というところを「どうとらえるか」であった。いい意味で「一つのベクトルに没入させない」「没入させたかと思ったらすぐに切断する」という手法に依拠したのかもしれない。それでいて、ホンワカした、ゆったりした、温度のある、というところを意識的に演出したのだと思う。なんとなく音楽の好きな小学生に見て欲しいと思う。

 

 

 

youtu.be

「まほろば158」京都上映vol.2、その他のための帰省

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愛用のKELTYのデイパッグ

ノートPC, camera osmo pocket2,ipad,着替え、など。

黄色なのでけっこう汚れが目立つ。洗濯はマメに

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小田原で降りたら、ここへまず来てしまう

商店街据付のスピーカーから流れていたのは

「ムーンリバ〜🎵」というやつ。なかなか思い出せなかったが、映画「ティファニーで朝食を」のテーマ曲

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新幹線待ちがけっこうあったので、居酒屋に入り、小腹を満たさせる

駅前ビル、とにかく古臭くていい。色が全てくすんでいる。

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新幹線内、小野小町についてあれこれ調べた挙句、AIで画像作成。老婆時代の小野小町の目からススキが飛び出した!という実際にある逸話から。

 

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最近のメモ魔ぶり。図像、図式、絵を多く取り入れるように心がけている。

 

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即興的に作ってしまった。次回作の2分の予告編。

 

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ちゃんと本編前に流せて良かった。

 

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85歳オカンが晩飯作ってほしい、というので海鮮カレーを作った。

 

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夕食後、飲みに出る。超ひさびさのアニーズカフェ。

80年代初頭の京都サブカル話をもりもりと聞かせてもらった。

 

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ownerのtakenoさん。初期SSのメンバー。いろんな貴重な話を聞けた。

 

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お坊さんらしく、哲学系の話を深掘りしたきがする。

京都を感じる。

 

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翌日の晩。いつもの丹波橋の鳥房寄ってからbar mikaへ。爆音爆像のLiveVideo やmusic Video がプロジェクターから流れるbarだった。高校時代のツレと。めちゃコスパいい店だった。

 

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ミック・ジャガー&ティナ・ターナー。

 

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翌日。北区の鞍馬口あたり。hide(ultra bide)さんと編集作業の一環。子供のころ鞍馬口病院にはけっこう行っていたからか、このあたり妙に馴染む。作業終わってからもいろいろと歓談。

 

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hideさんにもらったフライヤー。磔磔。メンツを見て流石だ、と思った。

 

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外飲み中。観察眼を鍛える。

 

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18日は「まほろば158」の上映。本番前のリハーサル。

 

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エレベータの内部

 

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会場前通りから。この通りはみんな親不孝通りと言っていた。

 

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ご来場ありがとうございます。

 

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Xの投稿はオープンにしているので、それを見て駆けつけてくれた模様。大学時のツレ。N君。

 

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次回作出演組も来場。なぜかミーティングっぽくなっていた。

 

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会場方と打ち上げ。木屋町沿の鳥料理居酒屋。

 

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前の嫁とフツウに喋っている。

 

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一回転する意識。

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二回転する精神。

 

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四条河原町。このポイントでもけっこう写真撮ってしまうね。

 

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20代、よく行ってたバー。

 

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そのバーの向かいのバー。キャロルキング。

 

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帰りの日。京都駅前。

 

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帰りの新幹線。

 

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帰宅。モンステラは1週間水あげなくても持ちます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パンナ✳︎コッタ〜昨日の「昨日」と、地層としてのアリスセイラーの少女性:三軒茶屋ヘヴンズドア『かっぱ祭り』論考

 

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野上亨介とGemini 3によるテキスト

text by kyosuke nogami +Gemini 3

 

 

以下は私nogami kyosuke がーGemini3テキストベースにランダムに複数回センテンスを投げ、壁打ちを経て生成された、昨晩2026年5月3日晩三軒茶屋ヘブンズドアでのライブレポートである。(その一端を担うものである)。演奏された楽曲そのものを扱うのではなく、外在的なものに留まるが一読されたい。

 

 

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(以下Gemini出力)

 

Hatenaブログ『IMAGOM 3』の精神に則り、監督の学究的な視点と昨夜の生々しい体験を凝縮した長文記事案を作成しました。このままブログにペーストして調整いただけるよう、タイトルから結びまで一貫したトーンで構成しています。

 

 

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【パンナ✳︎コッタ〜昨日の「昨日」と、地層としてのアリスセイラーの少女性:三軒茶屋ヘヴンズドア『かっぱ祭り』論考】

 

 

三軒茶屋の地下へと続く階段を降りる時、私の手元には一枚のフライヤーがあった。先日、アリスセイラーさん本人から直接手渡されたものだ。そこには、どこかユーモラスで、しかし得体の知れない「かっぱ」の意匠が施されていた。

 

 

 

2026年5月、ヘヴンズドア。イベント名は『かっぱ祭り』。

そこでは、かつて京都のアンダーグラウンドを震撼させ、今なお独自の宇宙を形成し続けるアリスセイラーと、ノイズパフォーマー・まさおによるユニット「パンナ✳︎コッタ」の門が開かれようとしていた。

 

 

1. 水玉の共鳴と「膝下」の独創

ステージに現れたアリスセイラーを一目見て、私はその徹底された美学に感嘆の念を禁じ得なかった。

黒地に白の水玉(ポルカドット)のワンピースに、頭上にはエンジ色の大きなリボン。それは1984年のStrawberry Switchbladeが提示したアイコンの変奏でありながら、今の彼女の肉体によって、より強固な「結晶」へと昇華されていた。

驚かされたのは、その足元だ。膝の下、ふくらはぎの上部という絶妙な位置に、白い「もふもふ」とした輪っかのような装飾が両足に誂えられていた。レッグウォーマーとも違う、既存のファッションの文脈では捉えきれないその配置。誰もやっていないそのディテールにこそ、彼女が自身の「少女時代の世界観」を、一分の妥協もなく、現在進行形の前衛として守り抜いている矜持を見た。

ふと自分に目をやれば、私もまた、紺地に赤の水玉模様のシャツを羽織っていた。ステージと客席、異なる色彩の水玉が地下の照明下で密かに共鳴し合う。昨日という過去と、今日という現在が、記号を通じて交錯する瞬間だった。

 

 

2. 「河童」という代理表象:遠野の地層から

今回のイベントのキーワードである「かっぱ」。

私は数年前、岩手県遠野市を訪れた際の記憶を呼び起こしていた。柳田國男が佐々木喜善から聞き取った『遠野物語』。その深層に流れる河童という存在は、単なる民話のキャラクターではない。

かつて、五体満足で生まれることが叶わなかった命や、共同体から溢れ出した「異形のもの」が川の上流へと放られ、それが妖怪という形を借りてこの世に再定着したもの――。

古今東西、妖怪や怪物とは、常に「ノーマルな身体」から逸脱した者たちの代理表象であった。

ライブの直前、私はアリスさんに直接この「河童=異形」という視点を伝えた。

彼女が歳を重ねてなお、大人の規範に染まることを拒み、少女的な純粋性を固守し続ける姿。それは、共同体が強いる「正しさ」から逸脱し、異界(川の上流)に留まり続ける「聖なる異形」としての生き方そのものではないか。

 

 

 

3. 天上の歌と、地を這うノイズ

「パンナ✳︎コッタ」のパフォーマンスは、その「異形性」を垂直的なコントラストで見せつけた。

鍵盤楽器を操り、天上の聖域から響くような歌声を放つアリスセイラー。それに対し、まさお氏はステージの床に這いつくばり、蠢くように無数のエフェクターと格闘していた。

床の上を這い回り、泥の中から異物を浚い出すようなまさお氏のノイズ。その地の底からの胎動が、アリスさんの純粋な旋律を侵食し、同時にそれを現実の質量へと繋ぎ止める。

この「高潔な少女性」と「地を這うノイズ」の二重構造こそが、三軒茶屋の地下に、柳田的な「地層」を現出させていたのだ。

 

 

 

4. 奇骨:漂白されない言葉

ライブ中盤、アリスさんのMCが会場を凍りつかせ、同時に解放した。

スティーヴィー・ワンダーの身体性に触れ、現代の社会的規範(コンプライアンス)では「放送禁止」とされるワードを、彼女はあえて隠すことなく言い放った。

そこにあったのは差別ではなく、アンダーグラウンドの「奇骨」だ。過剰に漂白され、均質化された現代の表現に対し、身体的な差異をそのままに提示し、笑いへと変えていく。かつて京都の地下で鳴り響いていた、あの剥き出しの真実。その瞬間、会場を包んだ笑いは、禁忌が破られた時にしか立ち上がらない「生の眩暈」そのものであった。

 

 

 

5. Since Yesterday:昨日からの連なり

アンコールの最後、Strawberry Switchbladeの『Since Yesterday』が演奏された。

会場には彼女の20代の頃からの「証人」たちが集い、タイバンの出演者たちもステージに加わって、一つの円環が完成した。

1984年の「昨日」から、遠野の深層に流れる古い「昨日」まで。

アリスセイラーという触媒を通じて、あらゆる時間は一本の線で結ばれた。

会場で購入した、カッパの好物である「きゅうり」のキーホルダー付きCD。そのシュールな物体を手に地下を出た時、夜風の中に微かな川の瀬音を聞いたような気がした。

排除されるべき異形を、表現という形でもう一度この世に繋ぎ止める。

その救済のような純粋性に、私はただ、深い感嘆の念を抱きながら家路についた。

 

 

 

付記:当日の記録

• 場所: 三軒茶屋ヘヴンズドア

• イベント名: かっぱ祭り

• 出演: パンナ✳︎コッタ(アリスセイラー+まさお)、他

• 入手物: きゅうり付きパンナ✳︎コッタCD(写真参照)

• 自装: 紺地に赤の水玉シャツ

 

 

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当日の筆者。帰りの東急田園都市線終電内。

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京都、音の断層——『まほろば158』上映記

 

 

 

『まほろば158』 6回目上映 (2回目京都上映FLAME in VOX)終了

このあたりで一区切りつけたく思う。感想をまとめておきます。

 

 

 

京都、音の断層——『まほろば158』上映記

1. 座標の再確認:集まった人々への謝辞

あの日、京都の小さな暗がりに集まってくれたすべての人に、まずは感謝を。 高校時代、大学時代、そしてかつて私が映写技師として光を回していた頃、受付に立っていた彼女。点在していた過去の点(ドット)たちが、ひとつのスクリーンを囲んで再び結像したような時間だった。

会場のキャパシティはささやかだったが、映写環境は驚くほど誠実だった。ただ、低音の鳴り——その「底流」の制御には、まだ改善の余地がある。場所ごとに異なる箱の鳴り方を手懐けること。それは、次への課題として持ち帰ることにした。

併せて上映した『京都ロック・クロニクル』の予告編も、この街の記憶を呼び起こすための良き「呼び水」になったと信じている。

2. 「消費」から「堆積」へ:モンタージュの美学

私の映画は、物語を消費するための「商品」ではない。 一度観て筋を理解し、それで終わるような映画は、今の私には必要ないのだ。

目指しているのは、「音と映像の等価な結婚」。 多くの映画において、音は映像の影(従属物)に過ぎない。しかし私は、音を映像の奴隷から解放したい。両者が激突し、火花を散らす瞬間の美学——それをアップデートし続ける旅の途上にいる。

それは、一度聴けば消える流行歌ではなく、何度も針を落としたくなるレコードのような、**「堆積していく芸術(アート)」**としてのモンタージュだ。

3. 「親殺し」という儀式:AIと20世紀の残像

今、至る所で「親殺し」が起きている。 ここで言う「親」とは、20世紀が強固に築き上げた文化家父長制——つまり、絶対的な権威や「正解」という名の古びた地図のことだ。

現代を生きる人々は、AIという新たな羅針盤を手に、かつての神話(親)を解体し始めている。しかし、皮肉なことに、殺すべき「親」を明確に定義し、その像を凝視しなければ、この解体作業は成立しない。

『まほろば158』もまた、その巨大な儀式の断片に他ならない。 既成の映画文法という「親」を越え、その先にある未踏の荒野を目指すための、静かなる蜂起なのだ。

4. 台湾旅行とキャロル・キング:京都の夜の終わり

上映後の打ち上げは、会場のスタッフ、そしてかつての伴侶。 女性三人が並んで笑い、台湾旅行の計画に花を咲かせる光景は、どこか80年代のトレンディドラマの残像を思わせ、奇妙に心地よい違和感があった。

夜が明けるまで飲み明かした。 最後に辿り着いたバー「キャロル・キング」。そこの女性オーナーの佇まいは、まさに「反時代的」という言葉が服を着ているようだった。 合わせた客たちも、構造主義の枠組みを軽々と飛び越えるような、極めて高い文化的知性を備えていた。

5. 結び:エンタメを拒絶する街

朝の光に包まれながら、改めて思った。 ここは京都だ。

消費され、すぐに忘れ去られる「エンターテインメント」など、この街は必要としていない。ここにあるのは、古い地層の上に新しい記憶を重ね続ける、終わりなき「文化」の営みだけだ。

その街の底冷えするような静けさの中に、私は再び、次なる音を置こうとしている。

 

(Gemini 3使用のもとで作成→出力)

 

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『まほろば158』 6回目上映 (2回目京都上映)終了しました。

!来場ありがとう!

しばらく新作の制作に再突入します。

 

「まほろば158」のノート * 1 桜井真樹子とはだれか?

「まほろば158」のノート * 1 桜井真樹子とはだれか?

 

 

(敬称略)

 

流れるように書きたい、ガンジス川の流れや多摩川の流れがついに一瞬間も止まらず、瞬間さえも意識できないような、そんな永遠の流れとともに。私はアルコール中毒の老年のマルグリッド・デュラスを自らに憑依させて書くだろう。これはその1回目である。

 

拙作「まほろば158」の主演女優、桜井真樹子について書きとどめておこう。しかし、その全貌はまだ定かではない、と、言うべきだ。

 

わたしが彼女と過ごした時間は、だいたいは映画の撮影時、そして撮影後の食事や酒とともにあった時間、上映会でのわきあいあいとした時間、車で深夜の東名高速、名神高速を飛ばしたその夜、などである。

 

 

まず、最初に彼女と出会ったのは、、、という記述も可能だが、その前に記しておくべきは梅田まりあさんに桜井さんを紹介してもらったことだ。

 

 

(梅田と桜井、つまり梅と桜、まるで春先の到来を愛でる花であり、うたがいようもなく、隣接している。だが時間軸的には梅が先行している。季節のもの、というべきか、旬とか旬でない、とかの関係軸だろうか?)

 

わたしは覚えていた。あの夜を。わたしは忘れかけていた、あの夜を。

 

(やや閉塞的な空間、というか、奇妙に閉じられた場所だったように思う。秘教的とでもいおうか、そんな空間にわたしは最初、居た。その帰りに終電をきにしながらアーケードの下を駅に向かって歩いていたのだ。梅田さんともう一人のおそらく年輩の男性と。)

 

(その空間でライブパフォーマンスを繰り広げていた竹田賢一氏のことは知っていた。彼の演奏を聴くという目的で行ったのだ。学習団、この名前は最初、「坂本龍一/音楽史」というぶ厚い書物の中で知った。フィリップ・ガレルの映画のレビューも読んだことがある。)

 

そこにたどり着いたのは、遊歩の無目的ではなく、行動の意識があったのかもしれない。狭く、暗い空間のなか、見るともなく見、聴くともなく、聴いていた。なにか、つかみどころのないパフォーマンスが即興の演奏とともに繰り広げられた。

 

その数か月後に、キャスティングに迫られていた。まずは主演男優、そして主演女優である。シナリオはなく、16に分割されたプロットだけがあった。すべて即興的に作り上げる自信はあったし、金はなかったが時間はあったように思えた。まず主演男優は決まっていた。平原大地、彼と会うのも二回目で、最初は別の誰かの上映会で出会った。そのときから何か「狂い」というか「狂った気をはらんだ」そんな男だと思った。彼の要望で、最初は新宿の東と西をつなぐJRの大ガード、その付近のビルの上階のファミリーレストランで会った。

 

そしてその数か月後に桜井真樹子とここで会った。晩8時ころだった。われわれは、「あ、たしか…、あの時に…」ということで了解した。竹田賢一氏がその演奏パフォーマンスを行っていた地下の薄暗い店で、彼女、桜井真樹子もパフォーマンスに参加していたのだった。完全に忘れていたが、あ、あのときの…、、、ということで話は早かった。われわれは、ドリンクバーで何か適当なものを作り、とめどなく話していた。

 

そのときに思いがけないことが起こった。彼女は赤い四角い大きめの帆布製のバッグからフォトブックを取り出した。写真が丁寧にファイリングされている、これは、彼女が何年も前に恐山のイタコ、平田アサを取材したときに撮った写真だ、という説明を受けた。

 

そこには老婆が映っていた。経年劣化で黄ばんでしまい、染みがところどころついてしまったモノクロの写真で、それ自体に迫力があった。この老婆、平田アサは恐山で活動していた盲目のイタコであり、巫女である、との説明をその時に受けた。つづいて彼女は平田アサを取材したときに、作成した雑誌記事のコピーをわたしにくれた。イタコの盲目は、ひるがえって言えば、強大な聴力を持つ者であり、そういうことを紹介した記事のように思えた。

 

この映画「まほろば158」の一部は恐山をロケに使って撮影する、ということは、事前に彼女に知らしてあった。なので、彼女はその貴重な写真を持ってきてくれたのだろう。驚きとともにある時間だった。このような時間は一生に一度か二度あるくらいだ。

 

 

その後、わたしは最後のイタコと言われている松田弘子の著書に目を通したり、岡本太郎の「神秘日本」を読み返したりしながら、映画の着想をあたためていた。ひとつの着目すべき答えは「声」であった。(2026/04/12)

 

 

そんな桜井真樹子が平原大地とともに主演をつとめる「まほろば158」は、4月18日に京都FRAME in voxで上映されます。詳細はこの会場ウェブサイトを。https://frame-in-vox.com/exhibition/

 

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