俳優からの気づき



■ 俳優からの気づき





俳優のパートの撮影がすんだ。プロットづくりに関して、何回もメールをやりとりし、結果的には共同作業である。




映画であれ舞台であれ、俳優というトライブを観察していて思うのは、男性のほうが、「演じる時空間=撮影本番時」と「演じない時空間=日常」を技巧的に分けているのではないか、ということだ。女性に関しては、男性のそれよりも、希薄だ、という直観はいつまでたってもぬぐえない。




演じることの明晰さ、とは何だろうか。それはそれで、やっている本人の経験値に左右されるだろうが、その明晰さが明晰さとして、持ちこたえられなくなる、というときに、「俳優が演じる、というバカバカしくも魅惑的な動作」がついに終焉するのではないだろうか。演技の透明性、などというもったいぶったことを言っているのではなく、演じることのかったるさ、から演じることが始まる場合に、演じる身体がよけいに複雑になる、という面白さがある。技巧は形態をめざすが、できあがった形態は<型-カタ>として分厚い仮面をさらに分厚くするだけだろう。これは演技のうまい、へたの判断に関して、おそらく不明な点が多すぎる、ということにもかかわりがある。カタがあればそれを基準にすればいい。カタがないものを目指すためには、カタは自前の虚構のなかで、やりくりされるだろう。世阿弥花伝書をよまなくとも、カタをやりくりしているうちに、これは能だ、といいきれる次元(能、という概念を変更できる次元)が到来するのではないか。





「ハマリ役」という言い方があるが、ハマればハマるほど、日常/非日常の境界があいまいになり、日常に演技を持ち込んでいる、とみなされることになるだろう。だが、いうまでもなく、日本の現代人はとっくの前から(おそらくは1979年から)演技をしている、という見方が多数派なのではないか、と思う。いや、1920年代中ごろに劇映画が出現し、劇映画が日常の時空と連続してみなされるようになったとき原節子を模倣する、無数の日本の母親が生まれたのではないだろうか。(同じようにリュミエールの『列車の到着』を模倣する無数の鉄道写真のあり方も、ひとつの写真の演技だといえるだろうか)





俳優は謎であり、謎が永遠につづいてほしい、といういいかたは、もともとリアルな次元だけでは満足できない、というリアルな原則のもとで確認されるだろう。虚構、メルヘン、ファンタジー、作り話、そういうものはたくさんあったほうがよい。