「2022年からの〈 真の映画史 〉」に向けての序説 #2

ここ20年ほどで、機材の進化は恐るべきスピードでなされました。思うに、ガスコンロとか、洗濯機に関してはそれほど進化していません。ガスが電気に変わったり、ややこしい機能がついたりしただけです。だけど、映像をこしらえる機材に関しては20年ほど前に比べるとみちがえるような変化を遂げたのです。わたしが思うにその労力、映像を切ったり貼ったり、そこにナレーションや音楽を付け加える労力は30分の1になりました。映像は今愛されています。いや、むかしから愛されていたのですが、むかしは手の届かないなにかとして愛されていたのです。ある時期までのスクリーンやテレビは「手の届かないなにか」として久我美子綾瀬はるかたちを映していました。現在は、手の届きそうな何かとして、俳優やアイドルたちは画面の中にいるのです。もしくは「手の届きそうな」という錯覚を与えるのに成功している人物として、画面の中にいるのです。


わたしも含めて現在の映像作家や映画作家YouTubeのことに言及せざるを得ません。YouTubeは手の届くところにある、それは素晴らしいことだ。と言わねばなりません。それにGoogleYouTubeを買収して以降は、人々に利益を与えたり、損失を与えたりするものになりました。ある種パチンコ台や馬券にようになったのですが、それも愛される原因なのです。


つい先日、ある場所で若い女性作家の試写会が行われたのですが、それはノートパソコンから映像作品を引き出す手法をとっていました。上映はとても上手くいったのですが、それが終わったあと、「私のYouTubeチャンネルにためこんである小品も上映できるかな。試したいんだけど。」と言いました。彼女はすぐに承諾して、ノートパソコンを差し出してくれました。そして上映は難なくできたのです。要するにWiFiのおかげでこういった簡易な上映ができるのです。いや、WiFiがなくても未然にダウンロードしておけば上映できるのです!


このことに関してはあまり難しく考える必要はありません。クラウドと小型デバイスとプロジェクターと音響装置があれば簡易に上映できるという時代なのだという認識さえ持っていればいいのです。それに一気に300人の観客の心を動かすのではなく10人ないし15人の観客に見てもらい、1人か2人の心を動かせばいいのです。イエス•キリストでさえ、弟子は10人少しだったのです。映画は…ハリウッドという大恐竜のせいで、とてつもなく馬鹿でかいものとして人々を魅了してきました。その表象形態は「その映像には金がかかっているのかね?」というある種強迫的な観念を植え付けるのに成功したのですが、映像に金がかかっているということは必ずしも「その映像はすばらしい」という評価にはつながりません。3000円もするハンバーグランチが必ずしも美味しいとは限りません。500円のハンバーグランチの6倍美味しいとは限りません。その店の家賃や人件費、維持費なども含めての3000円なのであり、素材が3000円という訳ではないのです。

 

そうです。わたしは2万円かかっているスピルバーグのワンカットよりも2000円しかかかっていないアンゲロプロスのワンカットの方が、より高尚であり魅力的だと思います。いや、映像に関する分析はそこまで細かくなされていませんし、ますます、細かく分析されることは無くなってきているように思えます。それに…焼き鳥の肉は細かく分析されており、この部位よりもあの部位の方が美味しく、そして希少価値もあるので値段を高めにしておこうという観念があります。焼き鳥はすでに全体であることをやめ、断片の自律的な体系としてあります。断片の組み合わせとして強力に人々を魅了しているのです。映画の見方も、というよりも制作する上で、値段のレートをつけるべきです。断片としてのワンカットが美学的単位や経済的単位となるべきなのです。エキストラを使用した10秒のワンカットが経済的価値として200円だったとしても、その美学的価値は2000円だった。なので、間をとって定価を1000円にしておこう、ということを見出すためです。

 

わたしは最終的に映像の断片は売買の対象とならなければならないと思っています。そして世の中が「サスティナビリティ」とか言っている限りにおいて、映像は再利用の価値のあるものとして、見なさなければなりません。ゴダールはこのことに早くから気づいているはずですが、映画はまだまだ全体性の神話に囚われています。

 


あるまとまった短い観念を持つということ……それはわたしを苦しめません。それはより良い方向へと導くなにかです。一方長い読書はわたしを苦しめることがあります。

 


絵画は…そう絵画を見ていると、例えばモランディの静物画をじっと見ていると、静謐ななにか…気取ったところがなく、一切の虚飾をはぎ取った誠実さを感じます。それは実際の皿や小瓶を見ているのとはちがい、絵画がもたらすものです。

そうして「わたしもモランディの絵画のように皿や小瓶を撮ってみたいものだ」と思うのです。事実、皿や小瓶を撮影することは簡単なことです。でもノーマルに考えてそうしたいと願う人はあまりいません。絵に描きたいという人ならいるでしょう。重要なのは「モランディの絵画のように」と言ったときに、具体的なものの決定と、それらの配置を決めなければならず、その次にカメラアングルや照明を決めなければなりません。「コップがこの位置じゃあモランディ的ではないぞ」とか「このテーブルクロスの皺の寄せ方はモランディ的というよりもセザンヌ的なんじゃないかな」とか、そういったあれこれ、これから撮ろうとしている映像にかんするあれこれが頭を占めはじめるのです。

 

そうです。わたしには「ワンカットにも絵画的な価値があるんじゃないか」と思えてきているのです。30秒ないし、60秒のカットだけを絵画として見ることができるのではないかということです。それに90パーセントの映画は性急に物語を描きたいために映像の絵画的な価値を問おうとはしません。カメラワークが介在しているワンカットにおいては絵画的ななにかはむしろ失われます。

 

それはそうとジョナス・メカスは自身の16mmのフィルム数コマをビニール袋に入れてそれを上映会場で販売していたように記憶しています。そこには、物としてのフィルムの価値がたった数コマで見出されるということになります。ようするに、映画の価値をいったん物語の価値から離して捉えるとさまざまなものが見えてくるのです。

 

 

1800円で120分の物語の全体を売るのではなく、絵画的、または美的な価値のある3分の映像を500円で売るということも考えなければならないのです。最近の若者、特にアメリカのZ世代といわれている若者は倍速で映画を見ています。それでは映画を見たことにはならないにもかかわらず、映画を見ているのです。NetflixAmazonプライムの話でしょうが、このやや行き過ぎた現象が教えるものは、映画鑑賞というものは時間がかかる、という感覚が若者に広まってきているということです。