イメージの本
2018
銀座シネ・スイッチ1
(あー床にスロープついてねえーー前のにいちゃんの頭がじゃま〜)
となりのおっさんがグレープ風味の飴のにおいをプンプンさせて鑑賞の邪魔だった!そして予告18分は長すぎますわ。。。
◼️ハードディスクに埋設された映像の分子細胞は、永遠に無傷であり、それはまた、永久に手で触れることができない。(フィルムについた傷はどこへ行ったのか? ジャン・ジュネは芸術の起源は傷にある、と言ったのに)。アーカイヴ映像は、すでに多くの傷を伴っており、傷の多さはまた上映回数の多さを物語っていた。それはスプロケットというフィルムを恒常的に送り込む回転軸とともにあった。映画は傷つきやすい子供だったが、しかしそうであることをやめた。なぜならハードディスク(映像の分子細胞)なるものが歴史に登場したからである。
◼️映像=真実、また写真=真実というアリバイは、映像からノイズを縮減すること、安定した構図や露出値、被写界深度、焦点で、フレームにあらわれた事物を明瞭に指示することができ、安定した知覚を与えるものでなければならなかった。エフェクトなどはもってのほかだ。映像ドキュメンタリズム、映像ジャーナリズムの是非は、それは真実を伝える、という公約がある限り、この「映像の無傷」言いかえれば「その像がその像であること」の同一性、その強さ、正しさを前提しなければならないものだった。
◼️イメージの本 においては、スクリーンに映っている所与が、映像なのか原ー映像(アーカイヴの映像)なのかにわかに判断がつきにくい。おそらくすべての映像素材にハイコントラストのエフェクトがかかっており、ゴダールの制作側で撮られたと思われる海の映像(めずらしくシンメトリカルな構図が採用されている)においても、コントラストを上げるばっかりに空が黄色に変色し、海が濃紺に変色し、波頭が緑に変色している 。(このコントラストのエフェクトは今に始まったことではなく、遡ること、1999年、愛の世紀 (原題は 愛の讃歌) から顕著になってくる)。
◼️表象による表象の批判、をもっとも過激に試みたジガ・ヴェルトフ集団期に回帰しているのかはともかく、イメージの本においてはハイコントラストによる像の輪郭の把握に遅延が生じることによって、先述したドキメンタリー的価値としての像が一様に廃棄される。(何かが映っている。しかし何が映っているのだろう❓)たんなる像、網膜的抽象性をそのベクトルに内包する反–映像 へと像が恒常的に前進してゆくのだ。
◼️ヨーロッパ→アメリカ→アジア という近代(脱近代)の経済的ヘゲモニーのシフトにおいて、もっとも犠牲にあっているのがアラブ圏である。(アフリカと北米はある時期から和解したように思える)。それはアメリカがイスラエルに肩入れすればするほどシリア、レバノン、パレスチナを苦しめてきた歴史とともにある。繁栄とその犠牲者。定住者と移民。日本のコンビニの店員の国籍不明性と売買の透明性。世界史的構造の結果。それはまた別のなにかの原因でもあるような、それ。爆発。血みどろ。を模倣する映画的爆発、映画的血みどろ。
◼️イメージの本におけるフィルムの傷は、いうまでもなく世界近現代史の傷だ!と強引に締めておきます。おわり。