超未来映像スタディーズ

▪️超未来映像スタディーズ▪️


以下の会話体テキストは、映画、映像、メディア、などについてここ数年断片的に考えてきたことのとりあえずのまとめである。狭義の映画論、映像論にとどまらずより広範な領域における思考の動機、きっかけを与えるものとして読まれたい。なお、全体的な統合、論理の完全な整合性はあらかじめ放棄している。■は男性、●は女性のキャラクターとして設定している。

 


■さて、始めようか。

●どこから始める?

■そうね、とりあえず、2022年1月から高円寺のfourth floor secondを会場に参加させてもらっている「超未来映像!」のことから。これはいちおう映像、映画の上映イベントでだいたい1回につき、作家2人か3人の参加、トータルで1時間ちょいくらいは上映して、気が向いたらトークもやってっていう、どちらかといえば、そんなに集客に一生懸命にならなくてよい、というか、いちおう体裁的には商業的ではあれいわゆるコマーシャリズムに寄りかからない程度のイベント。

●そうなんだ。その前に2021年は8mm映画の上映を断続的にやってたんだよね。

■年下の、といっても30代半ば?のムラカミロキと一緒にやってたんだけど、これはむしろ8mmという古典的な様式をこのデジタルな時代に積極的に見せていたことである種面白がられていた。しかし作品数も限られているし、新作が撮れないわけだから必然的に終わる。骨董屋とかで売っているジャンク扱いのホームムーヴィーの8mmフィルムを買い漁ったり、ネットオークションで出回っている8mmの映画ソフトを自由に切り貼りして再編集したものを上映する、ということも考えたんだけど、そこまでの余裕はなかったな。

●8mmの会場となっていた高円寺の4thから約200メートル離れたところに2号店が2022年の頭から始動し、忘年会や新年会に誘われてなんだかんだしている’うちに「超未来映像」の企画が始まった。

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超未来映像!PR画像

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8mm上映イベント mm8er MOVIES  最終回 PR画像

 


■そうだね、オーナーからイベントタイトルを決めてほしいといわれて、最初は「超現代映像の夕べ」となづけて、1月2月はやっていた。映像の歴史を「終わりつつあるもの」としてとらえ、さんさんとした曙光というよりもぼんやりとした映像文化のクレプスキュール(黄昏)に力点を置いていたんだけど、オーナーがいつのまにか「超未来映像!」に変更した。

●超という接頭辞ってむかしジョルジュ・バタイユが「老練なモグラ」というテキストでシュル‐レアリズム、要は「超‐現実主義」のことについて語ってたよね。

ニーチェのいう「超人」(ultra‐man)から来ているんだと思うけど、「超」という接頭辞は日本人はほんとによく使うよね。海外のケースは知らんけど。主にヴァナキュラーな会話での音声言語で。

●字義的には「限界(や境界線)を超える」ということでひいてはそれが「上方志向のあらわれ」なんだと思うけど、日本語会話の「超まずい!」とか「超キレイ!」とかは上方下方というよりもたんなる「強調」だよね。

■「映像」は20世紀的に了解可能なものとして定立できるけど「超未来」ていうのはわかりにくい、像を結ばない。いまだ訪れていない未来を超えることは、想像的にも論理的にも不可能。

●そこがまあいいんじゃないですか。未来のイメージもさんざん作られてきて消費されてきたわけだけど、Jアニメ的、ドメスティック的にはドラえもんに代表される「未来のイメージ」のユートピア的な想像がいったん終了して、AKIRAが描写するディストピアの方がなんとなく、優位になってきた感じはするね。あのクソつまらなかったというより、なんだかよくわからなかった東京オリンピック以降かな。3•11の震災によるディザスターのあとでもなお、もちろんゴジラやなんかのディストピア寄りの未来像であれ、小松左京の悲観史観的なディストピアSF小説の「日本沈没」の現代版であれ、用心して未来を見守ろうぜという動きも続行している。

■そこで「未来のイメージ」と「リアルな未来」のズレが出てくるんだけど。

●未来といったときに「一般的な人間の一般的な未来」ではなく、未来にはホームレスの未来もあるし、虫の未来もあるし、土の、空気の未来、一酸化炭素や増粘剤や酸化防止剤の未来もある。性倒錯者の未来もあるし、政治犯の未来もある、そういうマイナーな事象を含めての未来ということであって、ハイテクノロジーの進化過程だけに依存した未来像というのはむしろ均質的かつ古典的な未来像だと思うね。メタバースやNFTアートとかも含めてね。パフュームが2013年に「未来のミュージアム」という曲歌ってたけど、そのPVが完全にドラえもんを引用した古典モデルで、あのあたりで未来のイメージ消費はいったん飽和点を迎えたと思われる。

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(未来のミュージアム perfume ポスター)

 

■とまあ、前置きが長くなりましたけど、そろそろ本題に。

●そうね、と、その前に「批評」についてちょっと触れておきたいんだけど。

■え?どうして?

●うーん、そうだねここ半年以上、新作を作っては、超未来映像!で上映したわけだけど、通して思ったことは、若い頃、まあだいたい昭和天皇崩御した1989年〜バブル崩壊リーマンショック辺りに試みていた「批評的展開」とはまたちょっと違う異質なものとして感じられた、ということ。

■なんかね「批評」の位相が変わってきているというか、なんとなく「批評が成立しにくい」と言うよりも端的に「批評しちゃダメ、やめとけ」的な空気がかつてよりも覆っているというか、そんな気がするのね。

●ああなんとなくわかるわそれ。

■そもそも「批評する」ということ知らない人もいっぱいいるね。おそらく。クリティック、「critic」という単語さえ知らない。クリニックとかクリーニングとかクリまんじゅうだったら知ってるけど。

●暴力的還元のフェーズかも知れないけど、ネットがすべてを分散化させ、棲み分け化させたといっても過言ではないとは思うけど、「時代のオピニオンリーダー」なんて心底欲している人なんて実はそんなにいなくて、システムが仮初に代表させているだけで、取っかえ引っ変えしてるだけだと言うこともできる。

■順番とかランキングとか発生させてくれるのね。わざわざ。そういうことは前ネット時代から変わらないし、競走させて、必死に走らせるというパターンは相変わらず続いているな。そういうシステムの粘着性はずっとね。。

●現在60代の人はさておき、50代の人は批評を何で享受していたかというと、だいたいニューアカデミズムだったわけで、今の40代の人は何だろね?

▪️宮台真司とかになるのかな?

●Z世代なんていう言い方は空疎で雑なカテゴライズだと思うけど、おそらく強調していいと思うのは、YouTube に代表されるネット動画上の言説が何となく「批評的なもの」としてすり替えられている点で、こちらが頼みもしないのにAIのアルゴリズムで必ずヒロユキとかホリエモンとか成田祐輔が出てくる。見てみると、案外面白いものもあって、しかしそれを続けている限り、トップ画面にショート動画を含めた彼らの動画が出てくるわけね。

▪️あとに残らないでしょ、あれは。

●そもそも後に残らせよう、大事なところは記憶しておこうと思って見てないよ。にもかかわらず、彼らはどうもマジョリティを代表して言っているような、言わされているような気がしてそこが、いやらしいんだよね。

▪️垂れ流しの消費以前の明滅する風景といいますか。とはいえ、再生回数見たらやはり強力なものを感じるね。TVを完全にバカにしきっている態度なんかはむしろ共感持ってるけど。

YouTube動画の短さって、やってる人は分かると思うけどアップロードの速さのことであって、時間コスパあってのショートなんだよね。しかし、そこで語られている内容の質がどうのこうのってあまり観察されてないと思うな。

▪️ともあれ、批評的ななにかを感受するには昔は書物だったわけよ。だいたい新刊1冊につき2、3千円ペイして、知性の片鱗を買っていた。Z世代の人全てがそうじゃないと思うけど、ネット代やサブスクに使う金よりも、ネットやってる時間=金をかなり奪われているという気がするね。細かい統計は知らんけど。

●成田祐輔はヒロユキよりも優秀だと思うけど、今ほど人気のなかったかなり前の彼の動画見ていたら、(ニューアカデミズムの中ではいちばんきっちりと理論的な仕事をしていた)柄谷行人の愛読者だった。と言っていた。まあ柄谷行人も教鞭取っていたイエール大学繋がりの話かもしれないけどね。

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(柄谷行人の著書「日本精神分析」)

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(成田祐輔)

 

▪️携帯が4Gになって動画がかなり見やすくなったわけだけど、そのあたりからsnsと日常生活がなんとなく分離不可能なものとして近接してきて、だんだんと現実を捉える目も変わってきたし、風景も多重になってきたし、考え方も多重レイヤーの中で考えるようにはなってきた、と思わない?

●いいんだか、悪いんだか、答えは出ないけど、決定的にある種の複雑さ、複雑なレイヤーの中でしか生きれないようにはなってきたとは思うね。

▪️なんだろうね、超未来映像!で毎月超短編であれ、新作を作っては上映してるんだけど、その大前提みたいなものを多少なりとも探ろうとはしてるのかな、と。

●映画批評、評論に関していうと、一昔前は蓮實重彦という東大系のボスがいたわけよ。

▪️今さら蓮實かよ!若い人はおそらく知らないよね。

●何回もぶり返して申し訳ないけど、映画批評を顕揚しつつ、作り手も含めて若手のシネアストを多少とも牽引してきたし、中にはいい仕事してる人もいるんだろけど、先に言ったYouTube 上の「批評家もどき勢力」に押されて出れなくなってきているという気がするね。

▪️蓮實重彦もいい歳だしそれは仕方ないことかもしれない。しかし彼はやはりビデオを馬鹿にした時点で決定的に終わったと思うね。かなり前のことだけどね。フィルムカルチャー=映画文化がついに終焉を迎えて、映画よりも映像、映像よりも動画というフィジカルでも概念的にも突出してきたこの時代だからこそそれは言えることで。

●制作メカニズムの形式としては映画も映像も動画も同じなんだけどね。

▪️こないだ誰かと話した時にも言ってたけど、YouTuberの数が増えれば増えるほど、映画制作、というか映画的に撮影可能な技術の量が増えるわけですよ。

●映画制作者予備軍としてのYouTuberってこと?

▪️そう、まさにそう。

●自部屋をスタジオ代わりにして自撮りで、というのは多数派だと思う。映画撮影で「特機」にあたるクレーンやトラッキング用のレールやなんかを所有しているYouTuberはいないと思うけどこれからどうなるかわからんよ。

▪️そこまでいかなくても、ちょっとした撮影スタジオくらいのレベルで細かいガジェットを買い足していってなんとか凌ぐ、という人は多そう。しかし、商品紹介やらをやっているYouTuberが突如映画制作者になるというのは確率的に少ないと思うな。

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(YouTuberのスタジオ)

 

●根本的に飽きるという現象があって、資本主義自体が差異化の装置である限り、飽きる→差異化という自動運動がベースになっている。その点をつきながらの啓蒙装置が必要なのかも。

▪️商品紹介の動画なんてあまり想像力も使わなくていいし、マニュアルのマニュアルみたいなもんだから、作るのは楽なんだろうけど、再生回数上げていくら小遣い稼げても、やってても面白くないとは思うね。

●なんとなく残念に思うのはYouTuberが撮る動画にはカメラワークがないってこと。

▪️そうね、照明とアングルはあるんだけど、カメラワークがないね。商品紹介でパンニングとかティルティングとか使ってもいいと思うけどね。ずっとフィックスで俯瞰撮りでっていうのも。。あなたもけっこうyoutubeに上げてるんじゃないの?

 

■上げてはいるけど、ほとんど保管庫として使っている。いちおうクラウドにも上げているし、それはバックアップなんだけど、YouTubeというプラットフォームに上げておけば自分のマシン使わなくても人のマシンで上映できたりする 。

●いわば同期性の驚異的なところがあってそういうことも含めてオリジナリティと言うやつがかなり希薄になってくる。意識薄い系というか…

■そうね。薄いし、軽いし、なんとなく作品の重みがないし、それはそれで気楽にやっていける条件としてあるんだけど、翻って言えばコストと時間をかけずにできるってことで、インスタントムービーの量産体制だけ確保できてるって感じかな。それはそれで絶対的に肯定してるんだけどね。

●いいんじゃないかしら。資金集めるのもめんどくせい。集めているうちにやる気無くしちゃったわ、というより、その都度の欲望やアイデアを簡単に実現してゆくプロセスというのもあっていいとは思うな。やはり時代はガタリ的になっているというか、小さく、かつ細かくなって来ているというか。

アクセラレーショニズム、いわば加速主義っていうのは現代哲学のある種の流行になっているとは思うんだけど、加速がわりと簡単に可能になるのよね。ほんと8mmをのびのび撮ってた時代がいつの間にかノンリニア編集中心的になってきて、20年そこらでこれだけ編集技術、録音技術が進化したってことだ。

●重要なのは加速と減速を自由に調整できることがアクセラレーションの真意であって、たんに加速をずっと続けているだけでは能がないし、疲れるだけだ。

■それは言えるね。だけど、インスタントムービーの偉大さというか真価を追求するには相当のコンセプチュアルな要素が必要であって、インスタントのカップ麺をえんえんと食わされているようなことはできないわけよ。

●そこであれこれ考えているわけね。

■そうね、この辺りから本題に入りたいんだけど。

●どうぞどうぞ。

 

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(加速主義の思想家、ニック・ランドの著書)

▪️コンセプチュアルと言ったらちょっと大袈裟かもしれないけど、まあ若い頃から考えながら実践してきたこと、というのがあって、それが超未来的かはともかく、1997年以降少なくとも誰もやっていないんじゃないか、ということがあって。

●ほうほう

▪️まあ作品見てもらうのが早いんだけど、超未来映像!の8月に上映した「SYNTAX EROOR 2」をまず試聴して。https://youtu.be/dWReXmjKdEA 。これは2022年8月の作品で1997年から足掛け25年になる。

フッテージいわば素材の使い回しということね、それをつなぎ合わせると、また別の新たなものとして立ち上がる、ということね。

▪️端的にいうとそうだね。映像でも音楽でも建築でも絵画でもそうだけど、引用するという事象があってそこが作家性の部分的な評価になってたりするんだけど、「何を、どのタイミングでどの程度、引用しているか」そこを問うことが非常にコンセプチュアルな作意だと思うんだね。

●どうしてこういうことを思いついたんだろうね。

▪️そうね、いろいろとらえかたはあるんだろうけど、8mm撮る前はHi8でビデオ作品撮っていて、当時はまだ3CCDカメラが最上級のものだった。それでジャスト・バブル世代の姉が20万くらいするソニーのカメラを買ってくれてそれで撮り始めた。と、同時に編集用にビデオデッキを2台購入した。

●一台は再生用でもう一台は録画用になるのよね、それでダビングができるようになる。

▪️ダビングはその前に誰でもカセットテープでやっていたと思うんだけど、デッキ部が2台分あるマシン、ダブルビデオデッキはなかったから2台揃えてRGBで接続してたんだよね。おそらくまだS端子さえない時代だ。

●音楽喫茶的な場所でロックビデオのダビングサービスとかしてくれてたところがあった。

▪️そうね、海賊版のマスターテープからダビングして売る、という二重に

違法な行為を堂々とやっていたところだね。警察の検挙にあったところもあるんじゃない?

●ビデオデッキ2台購入してゴダールの作品、主に「軽蔑」(1963)というブリジッドバルドー主演の物語映画で、編集のし直し、リモンタージュしていたんだけど、そこで発見できたことがあった。再生機と録音機の間にビデオ・エフェクターかましてね。

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(ゴダール「軽蔑」ポスター)

 

●カットという単位時間を自分で操作し直して、作り替えることね。当時家庭用のビデオエフェクターなんてあったんだ。

▪️当時学生の頃コンテナという京都の四條縄手にあったクラブで週1回ほどバイトしてたんだけどそこのオーナーがわりと映画好きな人で、年代もののビデオエフェクターを持っていた。おそらくエフェクトの種類とかはソラリゼーションその他少ないんだけどSUNSUIというステレオメーカーで知られているところのものをなぜか貸してくれて、それでビデオアート的なものを作っていた。当時民生用のエフェクター、有名どころでいうとSonyのファミリースタジオも出ていない時代だったんでほぼ業務用のエフェクター1台で50万くらいしていたと思うよ。

●そうね、それも今やアプリひとつでできるんだからいい時代になったよね。

▪️本当に。

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(Sony family studio 初期の家庭用ビデオ編集機)

 

●2台のデッキをつなげて新たな何かを作るって言うのは、1970年代に2台のターンテーブルからクール・ハークがブレイクビーツを編み出し、ひいてはヒップホップやハウスというジャンルに連結していった事象と似てなくもないわね。

▪️言われてみればそうだね。ブレークビーツの発見はヴォーカルトラックのない場所(レコード溝)に限定されて初めて発見できたことで、その辺はまあ違うっちゃあ違うんだけど。

●当時の時点でまだRolandの808に代表されるようなリズムマシーンがなかった、これが重要ね。

▪️リズムの機械的な反復をどうやって作るかってなると、原始的な手法であれ最初現れたのがターンテーブル2台によって作られたブレークビーツだった。何度でも強調しておきたいよな、この話は。

●そうね。ブレイク(空白)というヴォーカルトラックもコーラスも入っていない箇所だから、引用とはいえないし、著作権も発生しないところ、というのは重要ね。

▪️アメリカの黒人のホームパーティでたまたま発見されたということだけど、ブレイクを繋いで行ってループさせる箇所がダンスする音響、いわばブレイクダンスのBGM、というかバックトラックにふさわしかった訳だよな。

●音楽(クラブミュージック以外ではジョン・ゾーンなど)でも映像(ゴダールなど)でも小説/文章(バロウズなど)でも絵画(ジャスパー・ジョンズ、ヨゼフ・コスースなど)でも建築(チャールズ・ジェンクスなど)でも、作品知覚して全体像をまずパッと把握したがる習性てなかなか拭えないんだけど、上に上げたある種のポストモダンアート以降の作品知覚って見た途端、聴いた途端、気に入った箇所を自作で引用しようか?とか、そういう欲望の発生て物凄く自然なことといえばそう。


▪️超未来映像!の7月の上映会で「ジョンテ、マニトウ、ダロンタン〜破局の20秒前のエクステリア・ポジション」という安倍晋三暗殺事件の直後に作った作品を上映して、その後、会場で音響と映像の引用史と映画史についてとりあえず年表化したものを配布したんだけど、そのあたりのおさらいを少し。

●どうぞどうぞ

▪️先に言ったブレイクビーツブレイクダンスやハウスミュージック、ひいては最新のヴェイパーウェイブやフューチャーファンクに至るまで素材のカットアップとリミックス‥再編集)を映画史に照らし合わせてみると、まずもって重要なのがウィリアム・バロウズとアンソニー・バルチ。

●その前に再おさらいしておくと1895年に世界史初登場として知られているリュミエールの「列車の到着」があった。そこで映像がこの世に登場して、のちの映画(film cinema movie)に展開してゆく第一撃のムーブメントが用意される。その後弁士の弁舌や楽隊の演奏をバックに映像を見せて、映画を盛り上げていくという興行的かつ娯楽的な流れが用意され、1927年にアメリカ産の「ジャズシンガー」という作品で、ついに音声をフィルムにマウントしたサウンドトラック付きの映像の初発がこの世に現れる。アラン・クロスランド監督ね。

▪️そうだね、その2つを何度でも押さえておくというのは重要だね。1895年から1927年だから、完全なサウンドトラックのトーキーを待つまで32年かかったということになるね。この32年というスパンも覚えておいて良いと思う。

●それでどういう展開になってゆくのかな?

▪️調べたんだけど、1956年4月8日に日本テレビで「テレビ坊やの冒険」というテレビ番組で吹き替え放送が始まっている。国内初の吹き替え放送ってことね。

ということは、映像に音声をくっつけることが可能になったトーキー映画の出現から29年かかったってことになるね。長いのか?短いのか?

●字幕=文字言語だとして吹き替えは音声言語そのもの。唇の動きと翻訳語をうまくシンクロさせて、タイミング合わせて不自然さが出ないようにうまく音声を録音してゆくのね。

▪️重要なのはもともとあった英語なりフランス語なりのオリジナルの原言語をいったん無音にして新たな翻訳言語を上からレコーディングするということ。

●そこで、まずレコーディングの多層性、いまでいうMTR(multi truck recording)による多重録音的ななにかが意識されてきたんだと思うよ。

▪️そうね、ということはこの時点で映画における音声というのはいくらでも操作可能な対象として立ち現れたということだ。変形可能性を含んだものとしてのオリジナル、という認識の始まりかもしれないね。

●これは余談かもしれないけど、これまたうんざりするほど語られている「2001年宇宙の旅」(1968)のなかでコンピュータHALが宇宙飛行士の唇の動きを読解して、ということはその空間で話されていることの意味を読解して、それが自分に(HALに)対する裏切りの言葉だとして彼らを宇宙飛行機から追放する、というシーンがあるんだけど、これは知ってるかな?

▪️HALが映画の中で歌った「デイジー、デイジー♪」というのは覚えているわ。

●そうだね、この曲は実際コンピュータが世界で初めて歌った歌で原曲は1892年のハリー・ダクレという歌手が歌っていた。

▪️1961年、IBM社の704による合成音声だと言われているやつね。

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(HAL9000のプラモデル、メビウスモデル社)

●映画の中ではHALの形象は球状の監視カメラのような物騒なフォルムでペッパー君のような愛嬌は少しもないんだけど、このシーンが重要なのは、人間の話しているその内容がコンピュータに解析され、すでにバレている、これを示したことだね。

▪️そうだね、キューブリック特有の「暗さ」も多分に感じられて完全にディストピア志向のSF。あと、このシーンではどうしても読唇術を思い出してしまうんだけど。

●そうだね古典的なスパイ技術として読唇術を知ってる人は多いと思うけど、実際は聴覚障害者や難聴者が補聴器の更なる補聴技術として使用していたものらしい。普通にかんがえて母音の識別は可能だけど子音の識別が不可能。アイウエオの識別はできるけどアカサタナの識別ができない。まあ今となっては体内にセンサー埋め込んだりして遠隔技術的にできるのかもしれないけど。しかも電話を発明したベル博士の父親アレクサンダー・ベルがこの読唇術を最初に思いついたんだって。

▪️そうなんだ。で、次に登場するのが、ウィリアム・バロウズとアンソニー・バルチによる「Bill and Tony」という短編でビデオソフトやDVDでは「Towers Open Fire」の中の一編ということになっている。この作品は「2001年宇宙の旅」の四年後1972年に作られていて、簡単にいうと、男が2人画面に並んでいて、じっとこちらを見ながら交互に話している。いつのまにか男Aと男Bの声が入れ替わっているという単純なものなんだけど、ちょっとよく集中して見てないとわからんぞ。という次元のものでそこにセンスを感じる。この小品も「映画の中の音声なんて簡単に変えられますよ」というメタ・メッセージを含んでいてバロウズ小説のカットアップ、フォールドインしか知らない人はぜひ見て欲しい。あとジャンキーとしてだけバロウズを祭り上げるのはもうやめようね、とついでに言っておくわ。

●調査してみるといろいろあるんだね。なかなか思いつかないもう一つの映画の系譜?

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(Towers Open Fire パッケージ)

 

 

▪️言い忘れたけど、1958年にブルース・コナーの「A MOVIE」という重要な映画があって、コナーはどちらかといえば現代美術の方で知っている人が多いと思うんだけど、ファンクアートやなんかが好きな人は知っているかもしれない。

●へえ、そうなんだ。今までの話もどちらかと言えばアート界隈の人が考えてそうだな。映画というメディアを抽象化できてないと考えられないことだよ。

▪️客観的な体裁としての客体=映画を一旦リュミエールアラン・クロスランドまで引き返して捉え直すことによって、その体裁がどんどん剥がされていくんだね。

●まあ各自勝手に色々と既存のネタをこねくり回して楽しんでいる人もいるにはいるだろうしね。

▪️そうね、YouTuberレベルでも割と面白い動きは出てきていて、大体2019年から動画をアップロードしているFrantz  K endo(だいたいみんな「MADドラえもん」で知っている)や2020年あたりからアップロードしているクロノマーズ(だいたいみんな「ハローキティー、ヤクザ吹き替え版」で知っている)なんかが突出して再生回数を稼いでいる。コンセプチュアルなことは何も考えてないと思うけど、若手の無茶苦茶な感性が暴走していて面白いものもあるよ。まあつまらんのもあるけど。こういう作品を映画館で見たいんだよなー。ゴダールの「新ドイツ零年」と同時上映でね。欲を言えば。

●へえ、そうなんだ。YouTuberまで追っかけてなかったわ。

▪️自分は1997年にネッカチーフという結婚の祝い金をごそっとつぎ込んで撮ったビデオ作品で、上で述べたような音声と映像の切断と再構築をこころみたシーンを取り入れた映画を作った。なぜか京都学生映画祭のある部門に選出され、上映されたりもしたんだけど、どちらかと言えば客を怒らすだけだったね。多分。笑。あれからずいぶん時が経ち、もうこういうことやらんだろ、と思ってたけど、コロナの時にね、自宅で制作できる小品を試みていたときになぜかやってしまったな。

●自宅映画派というのもそろそろバアっと出てきてもいいのにね。

▪️そうね、もはや芸術運動なんてのは必要ないし、誰もやらないと思うけど、ひっそりと長く受け継がれていくべきものを各自で見出して、勘とタイミングで連携してゆくことは何らかの形で維持していきたいと思うな。そのためにネットとかSNSがあるはずなんだね。

●そうね。あと、同じようなメディアの解体と再構築ってことで言えば、タモリオールナイトニッポンで「つぎはぎニュース」ってのが1980年の12月から1981年の2月までのたったの3ヶ月間だけあってyoutubeに転がっていたのを聞いたけど、はあ、なるほどな、と思ったね。

▪️ニュース音声や天気予報音声をバラバラにして繋ぎ直すというやつね。いわゆる「てにをは」と基本文法は合ってるんだけど、単語部分を入れ替えてあるから、何言ってんだかわからない。そこで笑いを誘うというやつね。しかし日本の深夜ラジオでこういうバロウズカットアップを継承するような動きがあったってことは記憶しておくべきことかもしれないね。

●あと、素材解体ー再構築の作家でいえばマーチン・アーノルドがいるわね。

▪️そうだね、この人もっと古い人なのかと思いきや、だいたい80年代末あたりに活躍していたのね。

●割と古典的な映画から引用してるから一瞬、もっと古い人かな?と思った。

▪️そろそろ終わりにしたいんだけど、

●今までダラダラ話してきたことは、大文字の映画史の中の邪道的な映画小史という感じなんだけど、前衛とか大袈裟に考える必要なく、なんとなく面白いことやっていきたいって言う人の参考になればいいね。

▪️そうだね。邪道でも何でもいいからなるべく気楽に行こう。芸術なんてなんの力にもならない、という開き直りの方を信じつつ。

●そうかもしれないね、では!

 

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(ブルース・コナー)