IMAGON STUDIES 11







IMAGON STUDIES 11






映画史を、
編集 モンタージュがもたらした20世紀の視覚的アミューズメントの形式を、
映画史からいったんはなれて
美術史の一側面からとらえなおすための
ささやかなラフスケッチ















■ 新コラージュ学に向けて <2>
    〜クレメント・グリーンバーグ『コラージュ』を読む






▲「さて、さっそくなんだけど、グリーンバーグっていう人はいわゆる美術批評家であって作家ではない。」
●「批評家っていう存在がわたし分かんないのよね。作家っていうのは、わかるんだけども、わたしが疑問に思うのは批評が必要なのかどうかってことなのよ。」
▲「作品つくって、発表してみんなが喜んだり怒ったりしてたらそれだけで済むってこと?」
●「っていうか批評っていうのがそもそもわからん。感想だったらわかるけど、」
▲「じゃあ評論ってのもわからない?」
●「そうね。なにかをこちら側がアクトしたらそれを享受した他者には多分なにかを言って欲しいという次元っていうのはあるとは思うんだけどね・・・それだけでいいじゃん、ていうこと。」
▲「あれ?そのシャツどうしたの?買ったの?え?いつ?いつ?どこで?・・とか。」
●「っていうのは反応でしょ。」
▲「そう。反射であり反応ではあるんだけど、それ以上を求めることが・・」
●「いいシャツだけど、まあそんなに似合っているとは言えないわね〜、
とか、ね。そういうことをいちいち言うっていうこと。それは感想につながる。」
▲「そうね。瞬時の反射反応はあって即座に感想に直結するんだけど、その感想すらも言わない、発話しない場合って多々あってね。感想を内面化したうえでしか物がいえないっていう。知覚→反射→反応→感想→評論→批評っていうヒエラルキー自体が問題なのかな。」
●「さっそく話ズレるけど、テレビに出てくる評論家って、別に本読んだら誰でも知れることでしょ?といいたくなる時もある。」
▲「あたりまえだけど、外に放たれない言説それ自体だけでは自律的な展開、というか交換ができなくて、いったん他者にあけわたさないと機能しない。コミュケーションてそういうことだよな。けど、メディアとかジャーナリズムと合体している言説は、純粋なコミュニケーションのためにあるものではない。時にコミュニケーションを疎外させるものでもある。」
●「そう分離の戦略ね。テレビの画面を家族全員で見させることによって、家族全員を黙らせる、ひいては家族の各々を分離させるというのは非常に大きな20世紀的現象だった。って、それは21世紀にゲームとネットに取ってかわったんだけどね、その分離現象は。」
▲「低俗(キッチュ)なものって逆にアカデミックなものに憧れたりする、というかアカデミズムにわざと囲われて、低俗=絶対善として保証されきゃいけないところがある。ま、逆も言えるんだけど、そこからはみ出す形でいい仕事している人はいっぱいいるよ。」





●「グリーンバーグはあまり知られていないよね。私聞いたことなかったわ。日本で美術批評っていうと、椹木野衣さんとかね。」
▲「ああ、同志社で美学やってた人ね。って制度的な言い方(笑)。そう、そもそも美術批評家なんてカテゴリーがあるのかどうかってことだよね。」
●「批評っていう行為の意味はわかるんだけどね。なんか偉そうな立場から偉そうなこと言うっていう・・・」
▲「そりゃあ、ひどいな(笑)。確かに偉そうでないとできないっていうことはあるかもな。けど批評家の起こりってのも歴史的に形成されてきたことで。」
●「日本だったらやはり小林秀雄ってことになるのかしら?」
▲「ま、とりあえず一番ポュピュラリティを得たのは小林だったんだじゃないかな。・・グリーンバーグっていう人は・・一番大きなポイントは彼は批評家、評論家であると同時に第二次大戦後のアメリカの抽象表現主義のシーンをオーバーグラウンドにどっと持ち上げた人、キーパーソンだということだよ。ジャクソン・ポロックグリーンバーグがいなければ出てこれなかったんじゃないかな。ついでにいうと芸術におけるヨーロッパ中心性をアメリカにどっと移行させた人。それだけ影響力があったと言われている。」
●「戦後のアメリカでおきた抽象表現主義っていうのは一応メイド・イン・アメリカの美術で、そもそもはヨーロッパ的な正統美術に対するアンチテーゼだったのでしょ?」
▲「そうともいえるかもね。だけどポロックにしてもロスコにしてもクーニングにしてもそもそもは非アメリカ人なんだよね。純アメリカのニューヨークっ子はバーネット・ニューマンくらいだった、ってドリー・アシュトンが『ニューヨーク・スクール』で指摘していたな。」
●「そうそう、そのニューヨーク・スクールっていう言い方もよくわからないのよ。」
▲「まあニューヨークに集まってきた作家の集まりをたんにそういうジャーナリスティックな呼称で呼んだだけだと思うよ、アメリカていうのは地域に根ざした呼称とか好きなんですよ。ヒップホップにおけるウェッサイとかね。」
●「地域主義が前提にあるのかもしれないけど、抽象表現主義とかブラック・マウンテン・カレッジとかニューヨーク・スクールとかそのへんはね。ヨーロッパ美術だけを追っかけてるよりかはけっこう面白い。」
▲「有名どころでロバート・ラウシェンバーグジョン・ケージなんかも参加していたブラック・マウンテン・カレッジは、ちょっと時期がズレるとは思うんだけど。・・・まあ、なんていうかな。ヨーロッパ的な垂直的な歴史軸があって、それは主に原始キリスト教美術に始まるキリスト教美術の正当性、教会建築や宗教絵画なんかも含めての正当性が一般的に投下されていて、美術なんかもそのフィールド内で正統/異端というカテゴリーができあがって、その枠内で盛り上がっていたと思うんだよね。」
●「異端のグノーシス主義の美術とか黒魔術とか、果てはマルキ・ド・サドの小説まで。」
▲「そうそう、そんで第二次大戦が簡潔にいってヨーロッパの敗北、あるいは負の功績だったとすれば、必然的にアメリカの勝利という流れが出てくる。」
●「第一次大戦期のヨーロッパ及びソビエトのアヴァンギャルディズムが第二次大戦後のアメリカのアヴァンギャルドに接続されてゆく、という流れ?」
▲「そうかもしれないね。まあともあれ、グリーンバーグはもともとリトアニア系のポーランドユダヤ人で、第一次大戦期から継承されている社会主義革命,要するにトロッキーの革命主義にかぶれていた。」
●「ひらたくいえば革命志向というか、狭義のモダニズムとしての前衛美術と社会革命が緊密に結びあっていた時代、、まあロシア・アヴァンギャルドのことだけど、そういう時代を身体的に血肉化していった人なんだとは思うよ。でないとあれほど前衛をボトムアップするというか、社会的にジェネレイトしていく志向性は持てないと思うんだな。」
▲「ポロックアルコール中毒だったり、ニューマンがアナキストだったりっていうストレンジャー(周縁者/異質者)的な側面とウマがあったのかもしれないね。」
●「あと、ガートルード・スタインていうパトロンね。彼女の功績は絶大。欧米のブルジョアてすごい勉強してんだなって思うな。スタインがいなければピカソマティスもブラックもいなかった!っていうのは大げさだけど、美術商以前にアリス・B・トクラスの自伝は書くわ、詩集は出すわで知的な才女だったことは確か。」





▲「そうね、このへんでコラージュの話に移っていきたんだけど」
●「ていうかグリーンバーグっていつくらいの人なの?まだ生きてらっしゃるの?」
▲「グリーンバーグは1909年に生まれて1994年に死去した。<コラージュ>は1958年の『Art News』の9月号に発表された、ということは49歳のときに発表されたということになる。」
●「まるまる20世紀を生きた人ってことになるわね。」
▲「そうね。ともかくコラージュって今、一般的に若者とかも知ってて、それはおそらくはスマートフォンタブレットのアプリを使用したSNS上でのコラージュ写真の投稿がわりあい流行しているからなんだ、と思うな。」
●「けどSNSが存在する以前にも、なんとなくコラージュっていう言葉を知っているし、使っているし、コラージュしていた人もいたとは思うな。」
▲「こういっちゃあなんだけど、コラージュっていうのは<通俗性>を確保しているんだよね。そういう意味で大文字の美術には回収されない周縁性を保っているとも思える。」
●「そうそう、そんな高尚な美術批評とか関係なく、もっと民間的に受入れられているもんだし、それでいいんじゃないか?って。」
▲「民間的・・.」
●「自閉症のセラピーなんかで使われるコラージュ療法っていうのもね、箱庭療法と並んで、わりあい知られている。」
▲「そうね。コラージュってポジティヴでポップな印象はあるよな。そのぶん高尚でないというところが可能性でもある。」
●「絵画を集中的に描くという行為は一種の非健康、、病的な状態を受入れるということでもあってそれが近代絵画のイマジネールなならわしとなり、それと直結した近代小説によって補強されることになった。」
▲「画家=病的っていうのはイデオロギーだよ。夏目漱石でも芥川龍之介でも有島武郎でも画家の生態を小説化している人はいっぱいいるけど、わかる。代表的なのが夏目漱石の『草枕』ってことになるのかな。」
●「とかくこの世は生きにくいってことよ。画工にとっちゃ。」
▲「あれはセザンヌがモデルになっていると思うんだな。なんて。」
●「なぜか絵を描く人には悪い人はいないっていう盲信があってね。なんかいい人が多いのよね、絵描きって。ってこれ偏見(笑)」
▲「ともあれ、コラージュっていうのは、あまり高尚な美術の対象になっているわけではなく、どちらかといえば、逃げ道ありありのマージナルアートというか、そういう気軽さとともにある技術だ。・・・っていっても、それだけじゃあ、つまらんのよね。もっと政治的なアクションでもあり、美学的なアクションでもある。」
●「<コラージュ>が書かれたのは1958年、改稿が1959年で、ゴダールの『勝手にしやがれ』の公開が1959年。戦後の復興モダニズムがいったん落ち着いて、そろそろエルヴィスやボガードやロックンロール文化、アメリカの駄菓子文化にも飽きてきたかな、というときに、大衆文化を牽引するのがイギリスのビートルズにバトンタッチしてゆくあたり。まあ、これほど欧米中心的な見方はないんだけど。」
▲「そうね。そりゃあ、アジア圏はアジア圏でいろいろとあったにはちがいない。21世紀になって文化的イニシアチブがじわりじわりとアジア主導型になってきて、もっと複雑怪奇でとらえどころのない感じになってゆくだろうね。それに欧米文化だけ表面的に摂食していても文化的肥満が繰り返されるだけで。」
●「アジアも欧米追随型一色だったら、たんに同一的なものの反復になるからつまんないわね。」





▲「うん、まあだからこそ、いま、グリーンバーグを読みなおす意義っていうのはあると思うな。読みなおすだけじゃなくて、彼の問うたエマニュエル・カントの哲学をも射程に入れた絶対的モダニズムをなんらかの行為に変換してゆくってことだ。ってまあ、結論は先に出すとして、順を追って読んで行こう。」
●「ほい。」
▲「まず<コラージュ>は非常に短いテクストだということ。他のも比較的短いけど、『グリーンバーグ批評選集』(藤枝晃雄編訳 勁草書房 2005)のなかには有名な「アヴァンギャルドキッチュ」や「モダニズムの絵画」と並んで15のテクストが所収されていて、そのうちのひとつ。82ページから註も含めての101ページまでだから19ページ。」
●「ほう。」
▲「あんまり時間ないんだけど、まあせっかくだから順を追って説明していこう。」
●「はい。」
▲「文章はわかりやすそうで、わかりにくい。晦渋ではないんだけど平明でもない。コンデンス(濃縮)されている概念連結とか飛躍もあって、そこがわかりにくい。しかし、おそらく全体が短いから読まれやすいだろう、という作戦はあったんだと思うな。」
●「ほあ〜い。」
▲「まず、グリーンバーグは<コラージュ>の最初、モダニズムキュビズムを関連させつつ両者の関係を強調している。いちおう、彼は絵画モダニズムの源泉をエドゥアール・マネに求めているんだけど、ここではキュビズムが大きく取り上げられている。」
●「そりゃそうでしょ。ピカソよね。おそらく。」
▲「そうね。キュビズムの初発がピカソの『アヴィニョンの娘』っていうのは一般的に了解されているね。そんで、グリーンバーグが注目しているのは1907年から1914年までのパブロ・ピカソジョルジュ・ブラックの作品なんだけど、そのどちらが先にコラージュを試みたかはわからない。としている。なんかこの喋りかた眠くなるな。もっと突っ込んでくれよ。」
●「ほわ〜〜〜。ねむ〜〜〜。そうね。私も予習して読んだから、私からも話すわ。で、ピカソとブラックも最初の動機を明らかにしていない、としてるんだけど、ここ重要ね。」
▲「そう、コラージュする動機が不明だった、ということは注目してもいいかもね。」
●「ところで、グリーンバーグが評価して、オーバーグラウンドに出てきたポロックのドリッピング絵画はオールオーヴァー、いわば画面全体に行き渡る色彩や線の生き生きした身体性であったりする。これとコラージュ評価は関係あるのかしら?」





▲「どうだろね。たしかに『ラヴェンダー・ミスト』をはじめとするオールオーヴァーな絵画は、言い換えると<構成がどうの>とか<色彩の配置がどうの>という問いは事後的には出てくるにせよ、それは最初の知覚のインパクトとは切断されていると思うんだな。」
●「ピカソ&ブラックのコラージュって、現代文化としてのコラージュがやはり参照しているように見えて、それはどういうことかというと、まず余白設定して、配置的な完成でフィギュール(図像)やテクスト(文字)を扱っているんだけど、結局対象の相互間の隙間が問題になっているように思える、という意味で、最初の知覚の一撃を全体化してゆくという傾向を身体的にもたらす。」
▲「という意味でポロックのドリッピング絵画とコラージュっていうのは、全体性への問いというカテゴリーに帰着させることはいったんできるだろうね。」
●「<コラージュ>というテクストには、セザンヌにちょっと触れているんだけど、詳しくは触れていないんだよね。」
▲「もうひとつ。これはあまりコラージュとはいえないんだけど、まあグリーンバーグがあげているってことで参考まで。」★
●「ジョルジュ・ブラックの1911年の『ギターを持つ男』という作品。絵の中の絵(画中画)つまり、二重化されたメタ絵画としてこの絵を捉えていて、それは描かれている内容があるにも関わらず、それは描かれることによってのみ可能だという逆説的なことを言っている。具体的には、実際には画布の左上に房と鋲が描かれているんだけど、それがあまりにも目立たないといっている。」
●「そう。あまりにも目立たないから、目立たないことによって目立っているっていう逆説的表象っていうことね。」
▲「あの子すっごい可愛いけど、性格控えめ。余計に可愛く見える。とかそういうこともあるもんね。」
●「はっはっは。そうね。正確には控えめに描いているんだけど、<絵画そのものには作用していない>ものとして、指摘している。」
▲「大事なのは、その控えめさがイリュージョン(終生グリーンバーグが嫌った絵画におけるイリュージョン・・幻想性)を存在させることなしに、それを暗示(アリュージョン)しているということ。」
●「アリュージョンに留めてたらいいのかっていう。」
▲「そこは微妙なところ。」
●「これも超重要なことだけど、1911年の時点で、グリーンバーグは、キュビズムにおけるセザンヌ的な問題を見出している。」
▲「具体的にはピカソとブラックが共同作業しているうちにセザンヌが取り組んでいた平面性への懐疑にグリーンバーグはきわめてフォーマリスティックにぶちあたるんだよね。」
●「具体的には、どの作品なのかは<コラージュ>には書いてないんだけど、ベタ塗りしてもよさそうな同一的なフィールド(カラーフィールド 色彩平面)に対する疑いが発生したんだよね。」
▲「セザンヌの悲劇であり、それ以上に勝利だったのは、まったくもって生涯主観的に突っ走っていったところで、<自然の模写>というリアリズムに徹するあまりに、その逆説までつきすすんでいったってところ。」
●「自然のすべての形象は円錐と円柱の組み合わせに還元できる、という有名な発言に顕著なんだけど、この時点で抽象絵画を準備している。」
▲「形の単純化というよりもパターン認識能力。で、具体的なコラージュ作品からは離れていうけど、コラージュを準備したのはカットアウトというかカッティングっていうこと、いわば<切断>のことだけど、これだと思うんだよな。グリーンバーグはこれをいいたんだと思うな。」
●「<キュビズムは、まず眼にうつるすべてのものをファセット・プレインに解体しようとしていた>(ページ84)、という記述があるんだけど、これね。切り子の切り、つまり切断ってことよ。」





▲「ファセットプレイン、つまり<切り子状の面>っていうのは、三次元的には彫刻的な物理であって、それを二次元で描くことは必然的に、平面的であることとと立体的であることの矛盾をかかえるということになるのよね。」
●「いまとなっては、もう日常的、あたりまえのことだけどその矛盾にたいし、ピカソ&ブラックとグリーンバーグは非常に自覚的であった。と。」
▲「それまでの絵画は、線遠近法とか空気遠近法とか明暗法とかによってイリュージョンを発生させることに無心していたとして、」
●「ファセットプレインの導入による解体によって、新しい次元が切り開けた。これは余談になるけど、バッキー・フラー(バックミンスター・フラー)のジオテックドームというエコロジー建築も、よくみりゃファセットプレインだし、テクノユニットのクラフトワークのジャケットなんかでも人物像をファセットプレイン化したものが使用されていた。まあ今となっては一般的。コム・デ・ギャルソンの2016年のSSコレクションにもファセットブレインが採用されていたものがあったな。ランウェイの写真で見たけど。」
▲「像の粒子化というのは点描画で有名なスーラがまず自覚的にとりくんだんだけど、次に出てくるのがキュビズムのファセットプレインということになるのかな。」
●「そう、そのあいだにドカっと横たわっているのが、セザンヌなのよね。セザンヌの扱いにくさ、つまり、特異な天分はそこにもあってね。」
▲「ともあれ、セザンヌのキュービックな筆触も、つづいてあらわれる切り子状展開による立体化表現の明暗のつけかたも、ある種の合理的方法、いいかえると近代的な方法なんだと思うよ。物事を分子化していくことって、ある任意の平面を点の集まりで捉える(点描・・ドットの集合)か、平面を一気に切断した、カット面として捉えるか(ファセットプレインの集合)の違いで、点の省略といううことを考えるとファセットプレインを採用するほうが面をより大きく取れる。ということになる。」
▲「これも重要だけど、グリーンバーグは絵画の自律性を平面性、フラットネスに求めるんだけど、ファセットプレインを採用することによって、逆説的に二次元性、平面性が強調される、と言っていること。」
●「そりゃ、そうよね。わかりやすい。」
▲「映画にしても、3Dだと余計にスクリーンの平面性が強調されるんだろうか。」
●「どうかね、それは考えてもいいことね。映画の自律性を求めるならキネティカル、つまり映像も音響も含めて<動くこと>なんだと思うけど、それを余計に強調させるには、ずっと止まっている映像を流すということになるのかもね。」
▲「あと重要なのは、グリーンバーグは「リテラルネス(文字通り)」ということを言うんだよね。
●「ほう、」
▲「文字通りということは<文字通り見せる>ということで、一個のリンゴだったら一個のリンゴとして見せることであって、リンゴっぽさでも、リンゴ的な何かでもない、ということね。」
●「けど、そこからリンゴ1個の単独性というかリンゴAとリンゴBの個性というか単独性というか、そういうものを見出していくということでもある。」
▲「奥様方がスーパーマーケットの果物売り場で一生懸命果物を手に取って、あれでもない、これでもない。とやっている。あの仕草、行為が個物の個性を認めるということ。」
●「そうかな。あたしそれやったことないけど、どれでもいっしょじゃねー?っって。(笑)」
▲「それは眼球の退廃に繋がるんだよ。」
●「じゃあグリーンバーグがいうリテラルネス(文字通り)は、そういう個物のとりかえしのきかない個性を問題にしていた、ということね。これ!っという判断でしょ。結局。ワタシ、この人選びます!彼です!彼が彼氏です!みたいな。」
▲「そうね。誰でもいい、なんでもいいという世界は、<すべての人>でもないし、<すべてのモノ>でもないんだね。このイデアルな差異から出発すると、個物が個物であることは、差異を認めるということの基本に立ち返るということになる。」
●「な〜る!」
▲「ちょっと、いいかな。ここで分類しておくと、

1<ペインタリー・イリュージョン>(絵画的幻想)
2<ペインタリー・アブストラクション>(絵画的抽象)
3<ペインタリー・リテラルネス>(絵画的自体性・・そのまま性・・文字通り性)

の3つがあるとして、グリーンバーグは1を攻撃して、2と3の可能性を止揚し、さらに2と3の中間地帯におけるモダニズムをさぐろうとしているんじゃないかな、と思える。

●「そうかな?」
▲「ほんとうは2と3は<抽象と具象>というふうに還元可能なんだけど、いや、そうじゃない、と言っているように思える。」
●「そうかね?」
▲「あらゆる抽象が具象を基礎としているかどうかは別問題で、抽象化されたものがまずあって、それを具象化するということが、デュシャン以後のコンセプチュアルな議論になっていくんだけど、リテラルネスという概念を導入すれば、<これを選んだ>という事実性が突起しちゃうんだよ。小便器(デュシャン)を選んだ、とかキャンベルスープ(ウォホール)を選んだとかね。選んだ事実性の方が絵画そのもののリテラルネスに密着してしまう。それゆえに逆説的にフォーマリズム批評が過度に要求されるはずなんだけどね。」
●「ここからの議論がほんとうはめちゃくちゃ面白いんだけど、コラージュのリテラルネスっていったときに、まず当たり前だよなと思うのは、ありものをそのまま使うというルールなんだな。これはラウシェンバーグの三次元コラージュ(コンバイン)も含めてのことだけど。」
▲「そう、絵筆の放棄つまり、グリーンバーグが言うというところの<イーゼル画の危機>からコラージュが始まっているとすれば、物質のリユースというかリサイクルというか、<使い回し>にこそ力点が置かれているわけでしょう。」
●「しかし<使い回されている>というよりも、過去の文脈を切断している、というか過去にあった内属性から切り離されているものとしてしか見えないようにコラージュが計画されてある、ということね。」
▲「コラージュ作品を見る現在の知覚が必ずその表面が内包している<過去への想像>を要求するものだとすれば、<使い回されている>感の知覚がただしいにせよ、しかし必ずしも、それを主体化させて過去遡行させるものではないよな。」
●「そうね。トリッキーな言い方かもしれないけど、現在の知覚は必ずしも名指された現在の知覚ではない。それゆえに、常に名指される可能性が突起してくる。ドゥルーズを援用していえば<たしかに風景は顔に似ているが、必ずしも「誰それである」、と特定できるわけではない。それゆえに風景は(だれかの顔として)常に美しい>のよね。」
▲「そういうふうに風景を消費するのは、どちらかといえば1のイリュージョナルなイマージュなんだとは思うけどね。」





●「そこは微妙なところで、書き込まれた風景とそうでない風景があるってことよ。たとえば清水寺のあの清水の舞台から飛び降りる場所あるでしょ。あそこの写真なんかは、消費に消費を重ねすぎて、ものすごくウォホール的な冗長性を誇っていて、書き込まれすぎて、もはやイメージがイメージとして持ちこたえることができない像なんだよ。」
▲「そうかもね。だからあの写真を見るとゲップが出るんだよ。とはいえ、あそこから眺めた風景には各人の知覚の固有性を認めなければならない。」


●「たとえば誰かを思い出す、という<回想の形式>というか<回想の明文化>にかんすることで言うと、それが物語の条件になることは絶対条件ではなく、とりあえずの公約的な条件だと思うよ。」
▲「ほんとうはね、それゆえに物語(物語はコラージュと対立する!?)の知覚っていうのは<むかしむかしあるところに>というふうに一応の過去を与えるわけだけど、名指し得ない過去、特定できない過去を持ってくるわけ。」
●「1986年、○○県、○○市、○○町の三丁目で、、、とか言うとね、限定しちゃうわけだから観客を選ぶということになってくる。」
▲「限定したほうがいい場合もあるし、しないほうがいい場合もある。」
●「話が脱線しまっくっているけど、<絵画−コラージュ−リテラルネス−フラットネス>についてまとめておくと、、、、」
▲「とりあえず追って説明しておくと、近代絵画の断層のひとつにセザンヌの絵画がまずあって、後年セザンヌキュビズムを用意した、そしてキュビズムピカソ&ブラックのコラージュ作品を用意した、それで絵画がどんどんファセットプレイン的、ないし三次元的、あくまでも的、になっていくがゆえに逆説的に絵画の平面性が強調されていく、という流れがあって、<と同時に>リテラルネス・・物質の<文字通り性・・この物質は文字とおりこの物質だ。>が保証されてゆく。そして1920年のレ・ザネ・フォル(狂乱の時代)へとヨーロッパは投入してゆく。ジャズの大衆文化の前夜ということでもあるけど、いつのまにか第二次大戦が起こり、戦後にアメリカ抽象表現主義が勃興し、ポロックなんかとともにグリーンバーグも影響力を持ってきた、という流れに沿って、後年<コラージュ>は1958年に書かれて、2015年の今われわれはコラージュの可能性についてあれこれ話しているわけね。」
●「こないだ高松宮殿下の芸術文化賞をとった横尾忠則をはじめ、グラフィックデザイナーの粟津潔、画家の池田満寿夫、それ以前に村山知義なんかも含めて、日本ではコラージュ的なものの一般化、受容化があったんだと思うけど、なんと本格的なコラージュ本ていうのは日本に一冊しかない。」
▲「河本真里という人が書いた『切断の時代』ね。これは驚異的かつ網羅的にコラージュ、及びコラージュをめぐる作品、評論、批評を扱ったもので、パウル・クレーからクルト・シュビッターズ、建築のメルツバウまで幅広い。もちろん、グリーンバーグや彼の愛弟子でもあったロザリンド・クラウスマイケル・フリードなんかも扱っている。」
●「そうそう。この書は「コラージュ作品」の解釈ではなく、もう少し突っ込んで「切断」という抽象化した上で作品を見なおすという観点にアクセントが置かれていて、「コラージュ」のキッチュネス(通俗性)からより遠くに逃れて、ハイアート化しようとする気概を感じる。」
▲「ハイアート化しなくてもいいと思うけど、まあ、今日ここで話したことは個人的には映画を考えるための反射板であって、モンタージュとの兼ね合いでまた捉えなおす必要があるんだけど、この書は参考になりました。」
●「そんなわけで、グリーンバーグのテクストは短いにもかかわらず、ぜんぶは消化できなかったな。総合的コラージュと分析的コラージュのちがいには語れなかった。またの機会にやるかどうかはわからないけど、今日はタイムアウト。ここまで!コラーゲン!」
▲●「ありがとうございましたー。」







クレメント・グリーンバーグ