新・映画ノート 6

◼️  凡作ではないけど、愚作でもない、、『私はマリア・カラス』は未来展望、未来志向的なアーカイヴ映画であるにせよ、後半は恋愛回顧に偏りすぎていて、どうか❓と思う 、やはり音楽に映像がくっつくと、音楽の純粋聴覚性は半減する、、だってマリア・カラスだもん! (以下Twitterより転送)

 

 

 

1⭕️年配層が多すぎて、若者がいなさすぎ…まあ映画館は住宅街メインの土地柄しかたないかもしれないけど、オペラという保守的、因襲的なソーシャルがそもそも若者層を取り込むことをやめちゃってるのかなあ…とかなんとか

 


2⭕️ とはいえ監督のトム・ヴォルフ(ロシア生まれフランス育ち)は若手っぽく、ニューヨークに拠点をうつしたところ、そこでカラスの歌声に魅了されたもよう、、というように実は聴く機会が少ないだけでオペラってまだまだ(ロックやポップスに比べて)相対人口は増えるような気がするな、、クラシックの延長で聴く流れはまあ正統だと思うけど、、

 


3⭕️映画はまあいろいろ賛否あるけど、歌声は何度も聴いていて、フッテージYouTubeにたくさんあるのでたまに見ていた(たしかブレヒト三文オペラでも歌ったと記憶してるんだが、それは登場せず)、、

 

 

 

4 ⭕️ 万葉集にせよ、ギリシャ悲劇にせよやっぱり古代中の古代から(非メロディ的にではあれ)歌うという行為はあって、それはどうしようもなく普遍的なことなんだけど、一方でポップス消費→カラオケ消費→エネルギー消費という回路の消費的一回性(消費的一回性の確率論的結果が(時代)と呼ばれたりするのは否めないけど)があり、次々に歌の肥満性を回避してゆく回路がある、、

 

 

 


5⭕️後期ルネッサンス期のフィレンツェギリシャ悲劇を復活させようという動きがペリー二を主としてあり、それがワーグナーを経由してニーチェヘルダーリンひいてはパゾリーニパゾリーニの王女メディアにカラスは主演、、映画の中でパゾリーニ登場)につながっていくんだと思うけど、そういう系譜でアメリカニューヨーク生まれ育ちのカラスを捉え直す必要はあると思うな、、

 

 


6⭕️まあ、3年かけて世界中の遺物映像を探し、つなぎ合わせていろんな関係者と会ってインタビュー(60時間)してそれもつなぎ合わせて、そりゃあマリア・カラスだからなにをどう繋げても同じような感じになるとは予想できたと思う、、

 

 

 


7⭕️残念なのは封印されていたラブレターから後半恋愛回顧ものに展開していったこと(夫のギリシャの富豪オナシスがケネディ大統領の未亡人ジャクリーンと結婚したっつのは大きな物語だとは思うけど、、まあこれがないとこの映画の売りがなく、オバサン層を取り込めないとわかっていても、ちょっと頼りすぎているなと思ったね、、(もちろん監督は音楽そのものよりもカラスその人に興味あるとも…)

 

 

 

 

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愛しのパゾリーニ監督とカラス様、、、カラス様の映画デビューが「王女メディア」 の主役だったのだ!