読書ノート16 『戦争と万博』 椹木野衣

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前回の岡本太郎『神秘日本』をより多角的に捉えるための書物とも言える。この書においては、70年大阪万博の目玉と言える「太陽の塔」の制作主体である岡本太郎がたんなる前衛美術家に吸収される作家ではなくむしろ当時の前衛グループと結果的に対立してしまう存在になってしまった、という視座を与えてくれる。以下は男女の会話形式による感想であるが、本書を逸脱してさまざまなトピックとともに記述される。


🟢2025年の万博って現在時の進捗状況がどうなってんだか知らないんだけど、何か色々決まってきてんのかね?

🟠こないだ市ヶ谷のメトロ南北線の駅構内で万博のポスター見かけたけど。シンボルマークとして選定されたあの目玉が分裂生成?しているやつね。そういうPRの動きはちらほらあるんだろだけど、内実はわからないよ。金や利権が動き回っているだけなのかも。

🟢岡本太郎の特集展示だけど、2022年2月22日にオープンする大阪中之島美術館で決まってるよ。(7月23日〜)

🟠そうなんだ!東京でもぜひやって欲しいな。前前から、言っているんだけどね、なかなかやらない。

🟢南青山に妻の岡本とし子さんが館長をつとめる太郎のアトリエを改造した記念館があって、川崎には岡本太郎生誕地?の記念館があって、渋谷駅の京王井の頭線と東横結ぶ連絡通路に巨大な「明日の神話」があって少数だけどいつでも見れるっちゃ見れるし、やらんでもええかな、みたいな。それはそうと椹木野衣って、どんな人だか知ってる?

🟠詳しくは知らないわ、けど、2000年代以降の美大生が必ず通過する評論、批評系のディスクールだという感じがするわね。

🟢今ではそうかもしれないね。オレが若い頃はどちらかといえば音楽の人、とくにクラブミュージックの人だったしな。

🟠入口がそっち系だったもんで、ちょい面食らうところはある。ってこと?

🟢そうそう、なんと言っても『シミュレーショニズム〜ハウス•ミュージックと盗用芸術』っていう画期的な本が発売されて、これは京都で買っちゃいかんとなってわざわざ東京に行って渋谷の現在のLOFTが入っているビルの一階ワンフロア全部が当時WAVEだったのかな、そこで808STATEのOPTICALというMVを集めたVHSカセットと一緒に買った覚えがある。装丁もめちゃくちゃ良くてね。カッケ〜、ジャケ買い!みたいな(笑)。1991年の話。

🟠えらい前だね、その辺りのことは知らないわ。

🟢まあ知らなくていいけど。サブカルレトロ史っぽい話するのもなんだけど、ダンスホールレゲエというダンスステップ用に作られたレゲエミュージックがあって京都のRUB A DUBというバーなんだかクラブなんだかよくわからないところがあってそこにたまに行って遊んでたんだけど、同時期にクラブコンテナというクラブが京都の四条縄手にできて、そこで初めて大音響のハウスに触れてけっこう衝撃を受けた。もうめちゃめちゃクール、無機的でね。場がひんやりしてて、誰も話してなくて、ひたすら距離置いてミニマムに踊ってるだけ。みたいな。

🟠私の頃はもうクラブは衰退期でクラブからカフェへ、という流れだったな。

🟢そうかもしれないね。日本のクラブカルチャーは短命だったのかも。しかしそれ以前に桑原茂一がラジオの大阪FMだか大阪802だかで音楽番組やってて、そこでハウスをけっこうかけてて、エアチェックとかはしてなかったけど、へえ、こんな音楽があるんや、という素朴な感想は持ってたな。クラブとか行き出したのはそのあと。

🟠で、そのハウスとかいう音楽とシミュレーショニズムって関係あるんだとは思うけど、どういうことが書かれてあったの?

🟢ここでその話するとマジで長くなるから、控えとくけど、椹木野衣という人はのちに「REMIX」という主にテクノやクラブミュージックを取り上げた雑誌を立ち上げた人でもあり、相当音楽よりの人ということだったんだけど、いつの間にか美術一本槍の人になっちゃった。

🟠なるほど。

🟢ただ一つ言えるのは、高校の美術の授業では出てこない現代美術系の絵画作品(特に覚えているのはなぜか、ジャスパー•ジョーンズとマーク•ロスコ)とハウスミュージックの楽曲を<サンプリング><引用><カットアップ><再編集ーREMIX>などなどの概念架橋で並列的に論じてあったのがものすごく新鮮だった。ただ文庫化されて増ページ(増補足)になってて出た当時も知ってたけど、その頃はもう完全に醒めていたって感じかな。そういうことよくあるよね。

🟠そうね、タイミング一つで乗ったり、反ったりする。

🟢今回は『戦争と万博』を通読したわけだからそちらの方を先に語って行きたい。

🟠まず、この書は通俗的な万博紹介本では全くない。ありがちだけど昭和のカタログ見直して万博レトロを楽しみましょう。という本では決してない。

🟢だからといって硬質な美術評論ではないし、社会学的観点から眺め直したEXPO`70というわけでもない。

🟠そうね、前半は浅田孝というEXPO`70のコアメンバーの裏幕というか裏番という参謀本部長というか、ようするに表舞台には立って出てこない人だけど、ものすごく重要な人物、について言及してある。

🟢浅田孝は浅田彰の伯父に当たる人で、建築プロパーに留まる人ではなく、むしろ建築プロパーであると同時に建築一般を取り囲む外部性にものすごく敏感だった人だよね。

🟠まず著者がいうには現今で使用されている<環境>という概念を使い出したのがまずもって浅田孝だったということ。

🟢これには少々驚いたけど、浅田孝生前唯一の著作『環境開発論』(1969)の時代はまだ<環境>という概念はマイナーだった。

🟠今やもう幼少の頃からうんざりするくらい聞かされているよね、環境。

🟢地球温暖化エコロジーという文脈で必ず◯◯の環境がどうのこうの、とか言うんだよね。

🟠そうね、いつだったか環境博というのもあって、<環境にいい=絶対善>という自動律が形成された時代を今は通過しているわけね。

🟢この書では瀧口修造も大きく取り上げられているんだけど、瀧口が主導していた「実験工房」グループを60年代に引き継いだ「エンバイラメントの会」でも1966年に展覧会のタイトルとして、「空間から環境へ」をあげている。

🟠『環境開発論』の3年前だよね。

🟢「実験工房」はむしろ50年代が実績の宝庫としてあったんだけど、インターメディア性、脱ジャンル性という今では当たり前になっていることを国内ではもっとも早い段階で実現させていた。いつだったか岡崎乾二郎の特集展示が清澄白河の現代美術館であって、2階のスペースでは他でもない<実験工房>の特集展示が行われていたね。宣伝もあまりしてなかったし、地味な印象を受けたんだけど、とっても貴重な機会だったと思う。

🟠当時は写真はモノクロで、印刷物もモノクロだから、60年代のポップさの影に隠れているというか会場自体が地味なもんだったね。山口勝弘のあの「ヴィトリーヌ」はエレガントな三次元オブジェだけど、そのとき初めて本物見て感動したな。しかし、作品で印象に残っているのはそれだけで、確かシェーンベルクの「月に憑かれたピアノ」の日本初演時のコンサートパンフレットとか、そういう資料的価値のあるものが多かったような気がする。

🟢著者の椹木野衣はEXPO‘70のアートディレクションはむしろ<実験工房=エンバイラメントの会>グループが牽引すべきだった、的なことを微妙に言ってたけど、<環境>という精神はまずは浅田孝によって完全理論的に引き継がれた、と言っていいのかな。

🟠同時代的に具体グループやネオダダなんかがあったけど、そういった土着の前衛主義は万博には巻き込まれずにすみ、元実験工房組のメンバーおよび関係者が巻き込まれていったことは確かよね。

🟢要はモダニズム近代主義の延長としての現代主義)の実現という意味で言えば、磯崎新を筆頭に、武満徹などの元実験工房のメンバーを含めての反土着の前衛を主軸に人選せざるを得なかったのかな。にしても岡本太朗はどちらかといえば芸術制作上のコンピューティングなんぞには興味ない、という意味では土着よりの前衛だったとは思うんだけどな。それはそれとして、芸術が持つ<機械>に対する憧憬ってあるんだと思うけど、瀧口修造の50年代の<詩的実験>なんかは19世紀の産業革命が持った機械生産のインパクトから20年代デュシャン、イタリア未来派も含めた機械主義的美術を経て戦後の荒んだ日本でどう機械を捉え直すべきか、ということであり、瀧口の本領は<環境>なんかよりもそっちにあったんじゃないか。

🟠どうなんだろ。瀧口修造についてはあまり興味のとっかかりがないしわからない。そういや、若いころの荒川修作がニューヨークに渡るとき、瀧口修造がキャッシュで大金くれた、ということが塚原史の荒川本『荒川修作の軌跡と奇跡』に載ってたことを今思い出したけど。

🟢そうなんだ。あまり口の端に登らない人だけど、本当はめちゃくちゃ重要人物なのかもしれないね。

🟠あと、あまり時間がないので、パーっと語っておくと、糸井貫二、通称ダダカンと名乗るダダイストが万博開催中に太陽の塔に昇って事件を起こしているんだけど、そういうテロルというか、ハプニングというか自己衝動に駆られたパフォーマンスを著者は結構評価しているように見えて、やはりそういった偏奇的事象(ルクレティウスエピクロスのいうクリナメン)をあらかじめ捉えていない、として浅田孝の直線思考を最終的に批判してたりもする。ここはどうかな?

🟢どうかな?と言われても…。椹木野衣はその前にハルマゲドン•チルドレンとしてヤノベケンジ村上隆を取り上げているけど…

🟠要は原爆投下後、敗戦後の日本がまだまだ続いていることへの自覚よね。ダダカンにしてもそういう反省的意識は多分にあった。

🟢そうね、ヤノベ、村上の世代の戦後処理的な想像力の方を評価する上ではダダカンのことも忘れちゃいけないよ、ということなのかな。

🟠赤瀬川原平ハイレッドセンターが行った銀座の一斉掃除運動とかは段々とジェントリフィケーションされてゆく衛生都市(具体的に清掃したのは銀座)への批判をシニカルにパフォーミングしたんだろうけど、著者がどういう繋がりで評価してるのかわからなかったわ。

🟢そう、この著作の構成自体わりかしざっくりと大きな飛躍を含みながら進行していて、漫画評論の石子順造なんか、どうやって万博と結びつけるんだという気もするけど。

🟠ぜったい強引につなげてるところあるよね。戦時中に行った日本の植民地政策の一つとして満州国建設というのがあるけど、甘粕大尉中心に行った文化政策を万博という<進歩イデオロギー>に結びつけて指摘しているところもだいぶ強引感はあった。

🟢元々美術手帖に連載されていたものだから、ワンテーマを持続的に追求するのが難しかったんじゃないの?

🟠2025年の大阪万博開催に向けて、さまざまなアウトラインを張っておく、というかそういう感性を持っておいた方がいいとは思うんだけど。

🟢そうね、それでこの本読んだのかもしれない。

🟠いずれにせよ、帯文に印刷されてあるように<戦争>という切り口で万博を捉え直してみるということ。

🟢万博のもともとは先進国同士で<どの国が一番先進的か>ということを争いつつ、なんとなくそこで勝ち負けを決めちゃうボードゲームみたいなもんだよ。次に商品価値のあるなしをそこで決めてかかって、各国の商社マンが口約束であれ取引の契約を結ぶ、そういう<マーケット=商品棚>としての万博だということね。展示会、見本市、モーターショー、ゲームショー、家電ショーとか色々あるけど、そういう催事を国際的単位で初発に支えてきたのが万博だったんじゃないの?知らんけど。

🟠でた、大阪方言<知らんけど。>。

🟢岡本太郎のある種の<前衛>を支えた<土着性>なんかは先述した「神秘日本」なんかを読めば丸わかりなんだけど、<モダニズム=科学的進化>にそぐわないものとしてあの太陽の塔の呪術的なコンセプトがあったとしたら、それはそれで大したもんやな、という気がする。

🟠やっぱりパリのソルボンヌで人類学やって、特にマルセル•モースに師事していたところがすごく大きくて、やはり当時は東京よりパリの方が学術的には先進的だったとは思うんだけど。

🟢資本主義のパターンがどうなっていくかヨーロッパから学んだところは大きかったかもね。ある程度進化したら土着に回帰してしまうパターンとかはヨーロッパの方が先だったわけでしょう。

🟠それこそお雇い外国人のモースが大森貝塚発見しなかったらどうなってたんだという…

🟢それこそ民俗学民族学も人類学もパッとしだしたのって70年代あたりからでしょう。それもヨーロッパの考古学的な知が遠因になっていて、日本人には編み出せなかったんじゃない?

🟠明治時代の文明開化の暴力性みたいなものをいまだにひきづっている感はあると思うけどね、それと裏腹に<海外の動向が気になる>現象がずうっと脅迫的に続いているような気がする。<日本人は自発的に海外を気にする>んじゃなくて<君たち日本人は受動的に海外を気にせよ>という命令の負荷がいまだに日本人にかかっている、と言いますか…。

🟢そうかもしれないね。話すっ飛ばしていうと、「別に世界がどうなろうがいいんじゃね?コロナだし、今のうちに楽しんでおこうぜ!」というニヒリズムがますます蔓延するんじゃないだろうか?と真面目に危惧したりもする。

🟠一方で資本主義のことを改めて考え直し、実践に移してゆくという資本主義アレンジもどんどん進んでいくとは思うよ。

🟢個人的なことで申し訳ないけど、ここ一ヶ月ちょい突発的な病気でほとんど家籠っていた(断酒しながら)んだけど、iPadWi-Fi環境とお絵描きアプリと音楽&映画サブスクと数冊の本とタバコとコーヒーと食料があれば一日あっという間に過ぎ去っていて、本当に<時間足りません現象>が増大したという感覚があって、要するに「買い物に行く←モノが欲しい」ということがますます必要無いことになってくるわけ。

🟠どうしても欲しいものだけアマゾンで買えばいい。

🟢そうそう、今回は食料も買いに行けないほど、痛風足がひどくなって、生協がやっているpal-systemというやつを申し込んだけど、そうすると生活コストを下げて行く方向に感性がどんどん進むわけよね。これってどうなんかな。とフト思うんだけど。

🟠だからこうやってブログなりに書くという行為がメタ•ルーティンになっているんじゃないの?

🟢日本国憲法が制定している<国民の最低限の文化的生活>ってまさかこれだったのか?!とも思える。それはそうとpal-systemって生活協同組合だから、つまり株式会社ではないから、儲けなくていいわけよね。投資先であることをあらかじめ否定している<会員の協力協同>な組織なわけだから組合自体の成長もないし、働き手の給料もさして伸びない(?)。要は資本主義が持っている自己成就ロマン、社会成就ロマンなんかは必要としてなくて、ひたすら淡々と生きてゆくにはこれでいいじゃないすか?という開きなおったところがむしろすごくクールに感じられる。

🟠万博=商品棚から世俗に明け渡された市場=商品棚って結局「新種のモノたち」が競争にかけられて売り手と買い手があれこれ画策しながらけっきょっく<頑張る>んだよね。Amazonのタイムセールとか言って…。協同組合のコンセプトってシャルル•フーリエの『四運動の理論』が性風俗までを射程に入れて妄想含みで展開していたりして面白いんだけど、結局<頑張らない>という気がする。これも古典的な意見かもしれないけど。

🟢そうそうpal-systemって玄関先にケースがドーンと即物的に置いてあるんだけど、その中にデリヘル嬢が入ってたらどうしよ?とかいうそこの想像のロマンはある。なんとなくSF的でオレは結構気に入ったな。

🟠今回は椹木野衣「戦争と万博」についての書評会話でしたが、全然関係ないところまで脱線しちゃったので、このあたりで終わります!では!

 

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浅田孝『環境開発論』(1969)

 

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シャルル•フーリエ『四運動の理論』(1808)

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pal-systemのキャラクター「こんせん君」(2004)(かわいい)