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可能は、引っ越したが、ポプラ社だったか、そういった会社から郵送物が送られてきて、大家さんがたいへん困っている。また他の郵送物もあるということだ。可能は大家さんに連絡すべきだろう。私が予断することではない。




ところで、彼は書いているのか?書いていないというなら、彼は俗物に過ぎなかった、ということになる。それはそれでいっこうにかまわないが。




私は可能を一回殴ったことがある。彼はそのとき酒乱だったのだ。酒乱は24で卒業すべきである。




アルチュセールの自伝『未来は長く続く』と、市田良彦の『アルチュセール 連結の哲学』を読み直しているが、とても有意義である。映画のことには一切触れていないが、ここは編集論として読める、あるいは視覚論として読める、という箇所がある。あと、エピクロスに関する読解は気になる。




アルチュセールエピクロス読解については高橋悠治が少量ながら言及していた。




ピアノのコンサートにも行きたいが、ジャズのチケットを予約してしまった。




学閥内のセクトや、生存競争にはまったく関心がない。





本を妄信しているわけではない。過度の読書好きには警戒すべきである。





ただ「考える前提」や「考える素材」というものがあり、それを無視して独我論にはまるよりは、参照すべきものを参照したほうがよいという程度である。人間と対話するより本と対話している時間のほうが長いとは思うが、この原因を述べるとなると、まとまった考えを提示しなければならない。





前からずっと確定していることだが、蓮実重彦の映画についての文章(詩学・記憶装置・誘惑エクリ)は面白くない。文章は上手いとは思うが、『ゴダール・マネ・フーコー』も目障りなので捨ててしまった。





浅田彰のほうが遥かに面白い。





柄谷行人の『探究2』はいまだに面白いと感ずる。





柄谷行人の『隠喩としての建築』も面白いが、『探究2』の方が面白い。





浅田彰に関しては最初はポケット文庫的な松本小雪のヌード写真集の解説文で知った。好みが似ているのかもしれないが、そういうことはしかたがないだろう。





蓮実と東大で同期だった落合仁司の数理神学関係の本は面白いと思うが、わたしは集合論にそこまで拘泥していない。神の存立の位相を自前で構想しているオリジナルな態度が面白いのだ。落合仁司は主席で東大を卒業したらしい。だが、わたしには関係ないことだ。わたしは大学はいやになって中退した。実習先の職員と口論したのだ。その日に辞めることを決意した。





東浩紀には関心がないが、理由がわからない。






のらくろ』の作者である田河水泡村山知義が推進していたMAVOという前衛芸術運動にも参加していたし、写真も残っている。彼の書いた『滑稽の構造』はなかなか面白い。笑いの論理的発生の分類化を試みている。






『滑稽の構造』は山口昌男の対談集で知った。






人にそそのかされてフェイス・ブックとツイッターのアカウントを取ったが、一文字も書いていない。はてなだけで十分である。






少女マンガの吹き出しの研究も含めて「吹き出し論」をまとめてみようと思っている、というよりも、現在制作中の映画において、必須要素なのだが、少女マンガはまったく詳しくはない。初期の竹宮恵子くらいしか、読んだことはない。そして少女マンガの起源は手塚治にあるという意見には納得できるものがあるが、手塚治に関しても、そんなに興味があるわけではない。






また旧作の短編の予告編を作ってしまったが、近いうちにアップするだろう。短編の予告編というのも、どうか、と思うが、別にたいした問題ではない。







見たい映画よりも見たくない映画の方が圧倒的に多い。見たい映画はYOU TUBEにアップされていて、それを見て確認することになるが、footageなので、全体が判明しない。







古典を徹底的に見直すべきである。「1920年代にすべてが出揃っている」というのが、私のとりあえずの予想見解である。






ハンス・リヒターの『金で買える夢』は7話のオムニバスで、そのなかのデュシャン・バージョンでケージが音楽を担当していことが確認できたのでよかった。






ケージ生誕100年は去年だと勘違いしていた。どうも今年らしい。







埼玉県立美術館がデュシャンの「ロト・レリーフ」を持っているが、私は見ていない。







井土紀州は個人的に応援しているが、今回の長編はどうなのだろうか。むかし『百年の絶唱』のヴィデオをもらったが、「これを上映すべきだ」とみなみ会館の佐藤さんにわたしてしまい、それは返却してもらっていないので、見直す機会がない。






だが、佐藤さんには大変お世話になったと感ずる。







安井豊作の『ROCKS OFF』は西部講堂でやらないのだろうか。「裸のラリーズ」のライブを西部で企画していた人がやってほしそうにしてたのだが・・・。その人が昔言っていたが、水谷孝はバンドをやめたあと大型トラックの運転をしているようである。







『トラック野郎』シリーズを見なおしたいとも思う。







『シネ砦炎上する』はまだ読んでいない。というよりも、「映画新聞」に掲載されたものも含めて、過去に80パーセントは読んでいるので、なかなか通読する気になれないのである。







「映画新聞」を読んでいたのは映写室の中でのことだった。







堀潤之のゴダール論をネット上のPDFで読んだが、なかなか興味深かった。日本におけるゴダール論史、ゴダール受容史への総括的な批判となっているのではないか。






平倉圭の『ゴダール的方法』もちゃんと読んで検討すべきである。ジャック・ランシエールには根本的な興味を持てないのだが、とくに理由はなさそうで、ドゥルーズの『シネマ1&2』にも同様の感慨を持つ。






ジガ・ヴェルトフ集団のDVDに黒沢清のテキストが入っているというだけで買う気になれない。彼の文章はいらないのでまけてもらえないだろうか?







『シネマ1』は関西の地下で流出していた和訳を読んだ時点でいまいちだったように思うが、「ガス状知覚」などの造語は面白かった。これを「点火すれば爆発する知覚」だとすれば恐ろしい知覚だ、思わないでもなかったが、そんなことはありえないだろう。






私はイタリアのポルノ・コミック「MONA STREET」を日本語で読みたいと思い、イタリア語ができる人に20000円払って翻訳してもらった。出版して儲けようと考えていたが、マンガのブツは現在アケミちゃん(ひさうちみちおの奥さん)が持っている。







しかし、ゴキジェットでタバコに点火したことはある。吸えば死ぬかもしれないので吸っていないが。







鴇さんに『シネマ 1』の地下流通版をもらったが、鴇さんはいい人だった。元気にされているのか、どうだろう。







90年代中期あたり、「映画新聞」にはパゾリーニに関する連載記事があったが、著者の名前を忘れてしまった。それだけのことだったのかもしれない。







DCPRGの『the report from iron mountain 2』の感想というよりも、「catch 22」についての一定の感想を近いうちにまとめるべきである。







菊池成孔の粋な夜電波」の15パーセントは勉強になるし、85パーセントは気休めになる。昨年の秋にたまたま初めて聴いたし、その存在をまともに受け取った。まだまだにわかファンの域を出ていないと思うが、どうだろうか。







大震災が起きて、ラジオを2台(屋外用と屋内用)購入したので、よく聴いていたのだ。そのときになんだかよくわからないがおもしろいおしゃべりを聴いて、「ああ、この人か!」と思った。小学校のときの『マカロニほうれん荘』以来の衝撃だった。








『スペインの宇宙食』は最初、書店の料理本のコーナーで見かけたが、レシピは載っていなかったので、棚に戻した記憶がある。








ジョージ・ラッセルの『リディアン・クロマティック・コンセプト』は高すぎる。せめて5000円くらいにすべきである。








タミヤのプラモよりも、トミカのミニカーの方が子供に影響を与えているのは自明である。トミカは「テコロジー」というテクノロジーエコロジーの合成語を打ち出しているが、しょせんミニカーの話である。







マカロニほうれん荘』で面白いのは4巻目以降である。1〜3巻はギャグがいまいちである。







『ミス愛子』は面白くない。








わたしは少年ジャンプ、チャンピオン、マガジンの類は好まない。コロコロコミックだけは何冊か購入した。








先日「デンジャラス・爺さん」における吹き出しをはさみで切り取った。多角的に吟味していみた上で、吹き出しの組成を検証しなければならない。








調べたところによると、ブルドーザーの発生元は戦車である。。工事現場もまた戦地のようなものだろうか。









丹生谷貴志が「造成居住区の午後」というテクストを書いていて、私はそれを好んでいた。








むかし、丹生谷貴志が宴席で「安井豊のジョン・レノン時代が懐かしい・・・」と言っていたが、それは髪型の話であり、精神論ではなかったのかもしれない。








『新しい土』は恵比寿にある写真美術館で見て、それからYOU STREAMでの座談会を視聴した。KOMATSUのブルドーザーについて少しだけ言及していたのは、岡崎乾二郎である。








16歳の原節子の声はさすがに若かったが、そんなに関心があるわけではない。女優が「国際政治」に使われたということであろう。








谷崎の『陰影礼賛』のなかには「ハリウッド映画俳優のブロマイド写真」についての言及がある。なぜあんなに「ニッ」と不気味な笑顔を作るのか?と。谷崎は映画会社の宣伝部員だったが、結局彼にとって映画は陰影ではなかったのだろう。








最初にアーノルド・ファンクを知ったのは加藤幹朗のエッセイである「IMAGO」という心理学の雑誌上でのことだった。








「キャンプ」と「ワンダーフォーゲル」を明確に分けて考えるべきである。そもそもの発生からしてちがう。









ブルータスという雑誌は不快である、というよりも、ブルータスを喜んで読んでいる男が嘆かわしい。これは昔も今もかわらない。










菊池成孔大谷能生の『アフロ・ディズニー』は参考になる。エイゼンシュテインの「映画の構造について」についての言及がないが、私が彼らにかわって考えるべきだ。









ジャズ・シンガー』(1927)と『オール・ザット・ジャズ』のDVDのコピーはあるが、まだちゃんと見ていない。トーキー発生時の研究は慎重にやるべきである。









ホワイトロリータは生産中止になったと思われるが確信は持てない。駅前のライフには置いていないし、その他のスーパーにも置いていなかった。










近所のコンビニでお釣りを渡す際に手をねっとりと触れてくる青年がいなくなった。よかったと思う。なかなかの美青年だったが、わたしは女の子の方が好きである。お釣りを渡すときには、手は触れない方がよかろうと思うが、女の子は触れない。決まってその青年だけだった。









わたしにはやるべきことが多すぎる。1日に5つ、6つのアイデアが振り降りてきて、ひどいときには15ほどのアイデアが降臨する。すべてメモにしているが、そういうことを毎日続けていると、想像力それ自体が危険なものに思えてくる。みんな想像力があるのはいいことだと思っているようだが、わたしにとっては危険なものになりつつある。









『グッド・モーニング・ベトナム』と『日曜日はダメよ!』をDVDで見たが、「映画ノート」で書くべきだろう。







サウダージ』は下高井戸シネマに観にいこうと思っている。








先日、帰省した京都のJAZZ BARで『サウダージ』の関係者の方と飲んだことが思い出される。となりには京大シネ研の部長と映写会社の方とミュージシャン風の方がいたが、わたしは店主にそそのかされて、そのテーブルについてしまった。全部だれかの奢りだったが、だれかが判別できない。「サウダージ」とマジックで書かれたボトルキープが出てきて、それを薦められたので、飲んだことは覚えている。映写会社の方(アラタさん?だっけ。いま、思い出した)が石原君を電話で呼び出し、そして石原君はどこかからやってきた。








ちなみに、京大シネ研の部長は浅田彰にそっくりである。








映画制作に金がかかるのは自明であるが、何も映画に限ったことではない。









映画制作から予算という観念をなくすべきである。








製作と制作はちがう概念である。








私は75パーセントの作品を自身のポケットマネーで作っているので、その枠内では好き放題できる。







だが、恒常的に金がないのは自明である。








無駄な贅沢はよからぬことだが、けちけちするのはもっとよくない。








タバコも酒もやめられないのは、しかたがない。
だが、酒を控えて枕を購入すべきである。枕を新調したいのだ。








しかし、映画の未来に関してはわたしがすべて責任を持つつもりである。そのためには時間と金がかかるのは自明である。









才能もいるが、才能というのは結局自分ではよくわからないものなのだ。









謙虚に勉強をつづけるべきで、創作と並行すべきであるが、中途半端に売れてしまうとそういうことをしなくなる人が多い。そういう人を4,5人知っているが、期待はできない。勉強をつづけない人が多すぎるため、そういう人と話していてもあまり面白くないという現象は、昔からあったが、ますますその現象はエスカレートしてゆく。だいたい一般的には、大人になってくると、「老後の心配の話」が多くなってくる。わたしは43だが、老後のことを考える余裕がない。









感じたい人は、だいたい考えたくない人である。










私の映画に対して、わからない、と怒る人は、わからないことに対して傲慢になっている。通常はわからないことにかんしては謙虚になるはずである。









私にとって「わからない」ことは一種の享楽でさえある。










今日はここまでで終わるが、こうやって散発的であれ、まとめて書くといろいろとはっきりすることが確認できてとても良かったと思う。