■ ジガ・ヴェルトフ集団+JLG 『ウラジミールとローザ』
2013年1月12日から25日まで、KINOHAUSの2階、オーディトリウム渋谷で「逆襲のジガ・ヴェルトフ集団+JLG」が開催されている。さっそく初日の『ウラジミールとローザ』を見てきたので、感想を述べておきたい。『ウラジミールとローザ』は、フランス・ドイツの合作、主にドイツのテレビ局テレ=ブールからの依頼で撮影された。1970年のことである。ウラジミールとは、歴史上の人物、ウラジミール・レーニン(レーニンの筆名)からのウラジミールで、ローザもまた歴史上の女性革命家ローザ・ルクセンブルグからのローザである。なお、ローザの本名はカール・ローザであり、カールはこれまた歴史上の人物カール・マルクスからとられたものであり、合成ネームである。
この映画の素材となったのは、ひとつの事件である。1968年8月。ベトナム反戦運動が最高潮に達したアメリカで、「シカゴ7」なる事件が起きた。シカゴ民主党大会での暴動を企てたため、7名が逮捕されたのだ。彼らの主要メンバーはアメリカにおける黒人公民権運動を進めていたブラックパンサー党の党員である。『ウラジミールとローザ』の脚本にあたるものは、「シカゴ7」に関する裁判「シカゴ8」、その裁判記録である。「シカゴ8」は事件の2ヵ月後、10月から始まった。映画に断続的にあらわれるのは、この「シカゴ8」の模擬裁判風のスタジオセットであり、その周囲に、黒板に書かれた文字を多用しながら、「帝国主義的映画/修正主義的映画/戦闘的映画」それら三者のイデオロギー的考察がすすめられ、戦闘的映画集団、すなわちジガ・ヴェルトフ集団のプラクティス、視聴覚の組織的展望が語られることになる。
キャストは果敢に動き回っていて、機関銃のようにひっきりなしに話している。エネルギッシュにして、コミカル。パワフルにしてスラップスティック。そう、ここでは「椅子に腰掛けてゆっくりと話す」などというブルジョア的表象が徹底的に回避されているのだ。(「表現は常に危機的である」中平卓馬)。あるいはまた、<ディズニー―帝国主義的―アニメ>に(断じて同化するのではなく)三次元化して対抗するような、そんな爆発的行動様式を採用することによって、われわれの奥底に眠っている<本源的活気>を呼び覚まそうとしているのである。もちろん、映画はそのむかし、活動写真と呼ばれた。(20世紀末に柄谷行人と話したとき、「戦後あたりまでは映画のことを活写、活写、と呼んでてねー。」と言っていた)。
そんなスラップスティックな劇中、何度も画面に登場し深く印象づけられるのは、判事役エルネスト・アドルフ・ヒムラー演ずるエルネスト・メンツァーの容貌である。彼は、彼だけが始終、裁判官の椅子に鎮座しているが、彼もまた機関銃のようにひっきりなしに話す。勤務上の椅子鎮座は形式上のものでしかないが、すねたように口をいがませ、かと思うと両手を差し出し、ジェスチャーをフル回転させ、発話を進める。そのジェスチャーは、しかしながら戦闘的ジェスチャーを囲繞―領土化しようとする帝国主義的ジェスチャーであり、声とイマージュ(フォニマージュ・・安井豊作)の合致による視聴覚的イデオロギーのファルス化に連続するものだ。(実際の裁判では、ブラックパンサー党のボビー・シールが裁判官に向けて、「ブタ」「ファシストの犬」などと口撃したため、ギャグ・ボール(猿轡)の使用が強制させられた。あげく、法廷侮蔑罪で懲役四年の刑が課せられることになる。この「法廷侮蔑罪」のくだりは映画のなかでも特権的に描かれている。)
模擬裁判中、ホットにその言説を展開するエルネスト・メンツァーを外部から果敢に批判していくような画面構成、そこで制作者でありながらもメインキャストをつとめるゴダールとゴランが登場する。彼らがウラジミールとローザを演じる道化であり、ダムから放流される水のように、ひっきりなしに話す。そして異化効果。ブレヒト風の小芝居が挿入されたかと思うと、テニスコートでの試合を阻止するように拡声器を使ってブルジョア・イデオロギーを批判したり、最終的にはCBSのテレビ局のスタジオに潜り込んでディスカッションをしかけたりする。(ここでのゴダール=道化は、17年後に、『右側に気をつけろ』1987で白痴役を演ずるムッシュー・ゴダールに到達するだろう)。
最後に音楽のことを。曲名は不明だが、当時のロックミュージシャンの曲だろう。しかし、ここでもまた、ゴダール特有の「断片化」が採用されている。ベースの低音とスネアドラム、バスドラムを強調した振幅のはげしい楽曲で、流れとその切断によって、映像を一瞬宙吊りにして、再び映像への注視を高めるような効果を狙っている。また、映画内には「カントリー・ジョー・マクドナルド嬢」なる駄洒落のような名前も登場し、1969年のウッドストックでの反米・反ナム戦の体制を受けてのことだと推察する。
なぜ音楽を、そのフレーズを切断し、断片化するのか。たしかに一般的な「破壊の美学」として解決することもできるだろう。90年代より続行しているダブやカットアップ&リミックスという方法論上のイズムとして回収することもたやすいだろう。しかし、視聴覚的現実生活がすでに散漫な断片化の集積でしかないような現在、それを「美学」や「方法論」として捉えることは、擬似モダニズムを再退行/再捏造させることにしかならないだろう。散漫な断片化は要するに断片ではない。フェードを伴った断片はもはや断片ではない。映像と音響のカッティング。クロッシング、アンクロッシング。ここに明確な政治的分析を導入することはできまいか。