追悼 大島渚


■追悼 大島渚



大島渚が死んだ。ということを聞いて、とたん、大方の大島作品を見ていたからか、走馬灯のように、それらの断片的記憶が、ぐるぐると頭の中を周回した。異口同音に語られているだろう(阿部定事件を題材にとった)『愛のコリーダ』における「性のタブーに挑戦する型破りな監督」、という見方がざっとみた訃報ニュースのコメントでは支配的だ。だが、一方で「性と経済」のぬきさしならない関係を独自に追及した監督として、その根源的態度を捉えることなしには片手落ちというものだろう。性と経済がついに同値のものとなる、という地平があるということを彼から、彼の映画から教わった。



ジャーナリズムが扱えない、そこから零れ落ちるような題材を大島はあえて選択していた。「善悪の葛藤」を背景に、階級および資本(利益)のからくりを見事に描いた『鳩を売る少年』(ちなみにこのタイトルは制作・配給会社の松竹によって、『愛と希望の街』といういかにも一般受けしそうなタイトルに改変されて上映された)のシナリオの卓抜さ。沖縄を舞台にしたセミ・ドキュメンタル『夏の妹』にフィーチャーされた武満徹のセンチな音楽。『日本春歌考』の冒頭の白黒の日本国旗、だらしない大学教授があぐらをかいて拍をつけながら生徒の前で酔っ払いながら歌う春歌。延々とディスカッションが続くスタンダップ政治劇『日本の夜と霧』、『太陽の墓場』の桑野みゆき、松竹ヌーヴェル・バーグの代表作『白昼の通り魔』のクローズアップ・フレーミングの斬新さ。などなど。あとは『絞死刑』。だれが、絞死刑の現場を再現するという、奇異なアイデアを実現しえただろうか。




「敗者は映像を持たない」と彼は看破した。階級関係への注視と、イデオロギー闘争と芸術的実験精神とが矛盾しない、するものではないしすべきではない、ということを彼は追及して止まなかった。そういう意味で純然たる近代主義者であった。



「敗者は映像を持たない」、だとすれば、勝者は何を持つのだろうか?ここに「性」と「経済」の二文字を彼は克明に浮き上がらせ、それらの掴みがたい構造を愚直なまでに追求しようとした。



あるいはこうも問えるだろう。「悪人は映像しか持たない。だとすれば善人は何を持つのだろうか」と。彼は言語に全腹の信頼を置いた。篠田正浩よりも、中平康よりも、増村保造よりも。彼は善人だった。彼には善人という足枷があった。