俳優の終わり、三浦春馬の死

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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京王井の頭線の渋谷駅から山手線への連絡通路には岡本太郎の巨大絵画「明日の神話」があり、その脇を通りぬけると天井から床に延びる四角支柱にはめ込まれた宣材用のテレビモニターがおよそ10機ほどある。そこで三浦春馬が出ているPR映像をたまたま見かけたのはいつだったか。アパレルメーカー(あえてブランドとはいうまい)のPaul Smithsのものであり、時間にしてわずか1分ほどの映像がリピート再生されていた。足早にその脇を急ぐ人々。

 

 

 

リドリー・スコットの長女ジョーダン・スコットがディレクションしたというその演出映像は純粋かつ通俗的に「かっこいい」あるいは「かっこつけた」もので(おそらく)ロンドンの下町のパブやレストランを背景に三浦春馬がメーカーの服を着ながら街場を闊歩徘徊したり店でくつろいだりしている光景をワンカット2、3秒で矢継ぎ早にモンタージュしたものであった。

 

 

 

 

手振れのグラついたカメラワークを瞬足的にモンタージュするものはさして珍しいものではなかったが、起用されていた三浦春馬その人があまりにも男前だったのでしっかりと記憶に刻み込まれていた。

 

 

 

近年の邦画なら岩井俊二の映画のモンタージュに近く、もっと体裁良く言えばアンリ=カルティエブレッソンの写真に見られる「逃げ去るイマージュ」を動画化したものといえば良いか。いずれにしてももはやステレオタイプといえばそうなのだが、それを超える身体動作の魅力があったということだろう。

 

 

 

三浦春馬が出ている映像はこのPR映像一本しか見たことなく、映画もテレビドラマも1秒たりともみたことがない。

 

 

 

18日午後に届けられた自死(自殺?…いずれにせよ同じことだ)の初発ニュースの事後ニュースをちらちら見ているかぎり、やはりそうとうの人気俳優だったことは確かで、死に至るエピデミック、コロナ禍の時期に加えて東京の殺人的な高温多湿の梅雨期にすんなりと(半ば自然法則に則って)自死を遂行した、というどこか附に落ちる感があるといえばあった。

 

 

 

いきなり飛躍して言うが、三浦春馬自死、これを持って「俳優の時代の終わり」としたい。(田宮二郎自死川口浩自死などを参照しつつ相対的に考察する気はないが)。俳優とは手前の中ではとっくの昔に、いや、最初の最初から「終わっている」概念なのだが、(良くも悪くも)無意味かつ無生産的(無-モダニズム的)に虚飾に彩られた芸能人の虚像の崩壊をもたらした実在像をあえて全面肯定したいと思う。

 

 

 

しかし、彼はなぜクローゼットという場所を選んだのか?そこには彼の普段着があったのか?あるとすればどういうものだったか?それとも空っぽだったのか?気になるところだ。

 

 

 

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