開かれ、官能。


舌先を転がる味。
舌先を突き刺す味。
舌先をもてあそぶ味。
舌先に馴染む味。
舌先から遠のく味。
舌先に回帰する味。
舌先に愛撫される味。
味に愛撫される舌先。




エロティシズムの全貌は、なにも、何も生気=性器の諸輪郭に還元されることではない。それは最終中心化地点(なぜ、それは局部と呼ばれ、なぜ、テレビ局は局であって、場ではないのだろうか?)なのかもしれないが、一種の性の臨界を破るものとして、機能する。性=エロティシズムとは、そもそもからして、反−クリティカルな所産だったのかもしれない。セックスしながらその行為を自己批評できないのはそのためである(・・・なんだって、てめえの性行為を批評してんだ!わっはっは、興ざめだよ、これじゃ、というアイロニーが激しく機能するだけだろう)。・・・たしかに、むろん、セックスとは入り口と出口が一緒になっているような行為なのかもしれない。ゆえにセックスクリティックにその出口だけを求めることはすべからく失敗するだろう。セックスと哲学は相性が悪い。だから官能は裏切らない。なので絶望も裏切らない。そのアンフラマンス。ホモ・ナチュラ。愛の新世界。





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人類の舌先をめぐる、長い、長い実験は、まだつづいている。三連休が四連休になり、四連休が五連休になるように。ロラン・バルトが参照した、フーリエ、そして、ロヨラ、サド。とりわけフーリエにとって、味、および味がもたらす官能とは社会主義ファランジュのファンクションとして、その機能を備えている。が、残念ながら詳細な記述はない。そして、人類の空腹観念が待っているのは、どんな食事か?ということだ。だが、人類の舌先が待っているのは、どんな味か?ということである。味界におけるグーテンベルグ。味の複製技術に関する言説の発見しがたさ。