■ 奥村昭夫 追悼


■ 奥村昭夫 追悼




昭和40年、1965年に発売されたブルボンの「ホワイトロリータ」についてあれこれ資料探査。お菓子の商標登録や、意匠権とその侵害などについて調べているうちに、ネット上で次のページに入ってしまった。お菓子とは関係ないが、映像のコピーライト(著作権)がらみで迷い込んだ末、でてきたものである。


_____________________________________

http://www.seiryupub.co.jp/cinema/
_____________________________________



まずは黙祷、合掌したい。・・・私は非常にショックである。今は3月11日の午前1時だが、寝るのをやめてこうやって微力ながらの追悼文を書いている次第である。奥村昭夫氏は他ならぬ「ゴダール本」の翻訳者として知られていた。私が20代の頭より決定的に影響を受けた『ゴダール映画史(上下)』が最近文庫化になり、それもハードカヴァー版と変わらず奥村昭夫訳だったので、「ああ、奥村さんが昔撮った映画もいつか見たいものだな。」との思いがよぎったその矢先である。『ゴダール映画史』を読んで、私は「映画の(真の)ヤバさ」を知った。(それは、おそらくパンクロックの100倍はヤバく、ジャズの50倍はヤバいものだ)。「映画とは諸芸術の中でもっともヤバいメディアである。」この大命題を深く植えつけたのがこの書物と、ほかならぬゴダールの映画だった。かつての私の内部は完全に「ゴダールの植民地」となっていた。




奥村氏が逝去されたのは去年だが、私はまったく知らなかった。ちっとも話題にならなかったのだろうか。それほど日本の映画界は貧しいのだろうか。奥村さんの映画については、最初は『GS 2・1/2号 ゴダール特集』(冬樹社)で知った。私は、映画の紹介記事だけを読んで、「あっ、これはいいな」と思った当のシーンや演出を「(その映画を見ずに)真似する」ということをよくやるのだが、先日上映した『磁器と火山』の中にも、そういったシーンがある。他でもない奥村氏の映画『三人でする接吻』についての紹介記事をもとに、想像し、撮影したシーンだ。奥村氏はそれほど、私の無意識に影響を与えていたのだろうか。それもそのはず、奥村氏は国会図書館にごくたまに来ていらした。(正確には、私は3回、その人を見た)。ヴォルテールバルザックの原著などを申し込みされていたが、その容貌、無精髭の残し方やメガネのフレームまでもが(晩年の)ゴダールにそっくりだった。私はややコーフンして「いや、今すごい人が来てるから、仕事にならん」と、そこまで反応/官能していたのだった。





2011年に奥村昭夫氏が逝去。地上で不可視のものとなった。そして、年末には安井豊作氏の批評集が出版。地上で可視化された。これがひとつの大きな転回点となるにちがいない。−−−−−「地上にひとつの場所を。」