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みなさま、こんばんは。今日は、「最近のYOU TUBE上で惚れた女 ベスト3」を書いておこうと思いましたが、やめておきます。(本当は書きたくてうずうずしています。笑)




メールをいただいたのですが、「とうとう、ノガミさんは気が狂ったのですか?!」との驚きメールです。いや、それは誇張しすぎです。「なぜ、文体を変えるのですか?または変えることができるのですか?不思議でなりません。ノガミさんの頭の中はまるでわかりません。」ということです。メールをくださった人は若い人です。東京におられるのか・・・それはわかりません。長い間このウェブログを読んでくだすっていて、おそらく将来は哲学とか、いや・・・わかりません。なにかを目指しているという気配だけはあります。




最近の、この「です、ます」調はパクリです(笑)。先日ここで書いたもので「奥村昭夫 追悼」という文章がありましたが、奥村氏が翻訳したゴダールの講義録『ゴダール映画史1&2』がこういった文体なのです。・・・だからこれは話し口調です。・・・私は話すように書くのです。・・いろいろ試してみるのは面白いことです・・ひと昔前は書くこととは帳簿をつけることがメインでした。「どこそこの村は年貢をこれだけ納めた。」という管理簿です。読み書きを習うというのは特権階級のもので、それは数字を計算するということに大いに関係ありました。江戸時代は、日本人の80パーセントは文盲だったでしょう。ちがいます。生活に文は必要なかったので「盲」ではないのです。





私にはなぜ時枝誠記ソシュールを批判したのかよくわかります。言語構成説にたいする言語過程説の絶対的な優位のことを私は言っています。その根本的な命題は・・・たとえば「犬」とある人が発音し、ある人が聞いたとして、その「犬」は無数にあります。「ある人は犬A」で、「ある人は犬B」なのです。それぞれがちがうのです。脚本上の「犬」という単語が問題になるのは、その書かれた「犬」がどのような「犬」なのか、明示されていないためです。「シーン15 タケオ、犬に向かって笑っている」と書かれているとすると、それだけでは実際に撮られる映像の100分の一しか示していることになりません。記述は100くらい可能です。いやもっと可能です。しかし、記述言語と撮影映像の関係を構築するのは、映像をよりよく管理するためでしょうか?・・・私が推測するに時枝が言語を「構成ではなく過程」に関係づけるのは・・・つまり、すっとばして結論づけますと、・・・・時枝は映画のことを考えていた、そして映画を肯定していたのだと思います。




しかし、世の中は言語構成説の優位で成り立っています。それは文書を提出するということが日常茶飯に行われているからです。構成された言語の体系が世の中を構成しているのです。そして、それ以外の過程的な言語は・・・インターネットの中にたくさんあります。言語の生成変化は、過程そのものでしょうか?・・・・それに、お互いの利益とは関係ない場面ではあまり会話の構成は気にされません。取引の現場では、会話は有機的に構成されなければなりません。・・・・ところでソシュールを日本にもってきたのは神保格(じんぼうかく)という人です。ヨーロッパ留学を終えたこの人が帰国後に学術誌かなにかに発表して、いや、ちがいます・・・講演を行ったのです。大正13年のことです。もっと広く知れ渡ったのは、昭和3年です。小林英夫という人がソシュールの遺著となった『一般言語学講義』を翻訳したのです。そして・・・形容詞が人々にとって楽な何かであるのは「形」と「容器」に関係あります。それは形の形のための何かなのです。中身を問うということがなされないのです。女の子同士の会話を聞いてますと・・・だいたい会話の70パーセントが「かわいい」によって成り立っています。成り立っているというよりも・・・・礼儀作法なのでしょうか?ちがいます。強迫観念に過ぎません。しかし、人の欠点をあげつらうよりも、誉めるべきところを誉めるということが成されています。男の子は、逆です。あまりお互いを「かっこいい」と誉めあうことはありません。いずれにしても・・・形容詞の濫用はわたしをうんざりさせます。やめてほしいです。





複数文体採用は多重人格となんの関係もありません。どちらかといえば人格の崩壊と関係あります。いずれにしても、「固有の自我=単一の文体」の問題に関しては私は興味がありません。私は、そしてわれわれは、レーモン・クノーの『文体練習』以降の時代を生きているのですから!!・・・そんなわけで今日はこのくらいにしておきます。おなかがすいたので「くら寿司」に行ってきます。