■ 震災一年後のデモンストレーション
・・・さて、デモどうでしたか?私は、時間に待ちあわず、沿道からワー、ギャーと応援していました。で、感想を少しばかり。このブログのどこかに書きましたが<建国記念日2・11反天デモ>もそうであったように、デモそれ自体にはイデオロギーがありません。ありとあらゆるイデオロギーに先行する純粋表象こそが重要だからです。これを再び強く感じました。デモは、しかし、(それゆえに)美しいです。
地震はたしかに崇高(人知を超えた出来事。というくらいのニュアンスで、崇高)でしたが、悲劇と表裏一体の崇高、という意味でクリストのランドスケープアートとはまったくちがうものです。
「がんばろう日本」のスローガンは実に醜悪な全体主義化の温床です。(絆、とか●●でつながろう、とかも、もうゲロをはいてもはいてもはきたりないほど醜悪です)。なぜなら「がんばろう日本」はそれに対して文句のつけようがない「政治的正当性」(ポリティカリー・コレクト)をロックしているからであり、被災者自体もそのスローガンに反対できない(コメントできない)からです。(言い返すことができない・・・という非対称性が、すべての差別感情の温床になるのです。そして阪神大震災のときには「がんばろう日本」なんていう愚かなキャンペーンは皆無だったことは強調しておいたほうがいいでしょう)。このスローガンは国民を「束にする」(ファシズムというのは原義的に「束ねる」という意味)かっこうのものであり、そこに留意しない限り、「国民/非国民」の腑分け(正当性判断)それ自体が無意味なものになってしまうのです。
もうひとつ。私は震災が起こってコンビ二の義損金箱に1000円入れただけのふつつか者ですが、1年たった今、「これだけ集まりました!」という公示がなされています。その公示意思はまっとうなことです。でも、より重要なのは、その額面がこれから、どのように使われるのか。または既に義捐金を使っているのなら、その内訳(決算)はどうなっているのかを公示したほうがよりよい(というのは、また必ずなんらかの災害が起こるから)し、一方で寄付した者はそれを知る権利も義務もあるのです。キャベツを200円で買って、それがなぜ200円なのかは知ろうともしないし、知らなくてもよいことです。なぜなら食べたキャベツは直接自分の利益になるからです。だが、義援金2000円は、直接的な利益にはなりません。しかし、義援金は私的なものではなく、公的なものです。「義」というニュアンスだけで、済まされるものではない。(ああ、義理人情・・・)これはどこか「日本的美学=日本的浪漫主義」と通じていると思います。義援金とキャベツはまったくちがうのです。そして、人々はキャベツの確実性を信じるのです。