追悼 梅本洋一



■ 追悼 梅本洋一





どういうわけか、まずは手前ごとを書いておきたい。まったく売れず、それ以上に売りに出してもいず、なので、まったくの無名で、作ることだけが好きで、上映するのが面倒でかなわない、どうにかしてくれ、人づき合いも最小限で、スタッフも集まらず、というかろくに集めてもいず、だいたいの役者とは齟齬をきたし、だいたいの映画人とも、話したその日にいやになって二度と会わない。そういう時期がつづき、ながらくの孤立がついに現実的な問題となっている。不遇中の不遇だ。それをなかばに選んでいるのだからたちが悪い。映画による収入なんてまったくない。なのに映画というものに過剰なまでに固執している。滑稽なほどに。撮っても地獄、撮らないではもっと地獄、だから撮ったほうがいい。安楽な道などない。不幸こそが神だ。覚悟だけがいる。





20代の頭から京都で映画をつくりはじめ、並行して、季刊誌『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』を読んでいた。24か25かの頃、紙面の告知で、なかなか見れないゴダール作品が上映されることを知り、当時つくっていた映画で、カメラを回してくれていた西原多朱を誘って御茶ノ水アテネ・フランセ文化センターへと京都から向かった。誌面の告知ではゴダールの『女は女である』が上映される予定だったが、急遽変更して、『東風』が上映されると当日発表された。『東風』のことを「トンプー」と読んでいた。というのも、YMO矢野顕子の曲にも『東風』があり、それは「ton-poo」なのだから「トンプー」なのだろう、と。・・・司会者が出てきて、「さあ、これから、あの「トーフー」が上映されますが、・・・」とアナウンスした。美声すぎるといってもいいほどのバリトンで。・・・そうか、「トーフー」だったのか。




上映後、『カイエ』の執筆者だった安井さんから、「これから雑誌の編集ミーティングがあるからのぞかないか、」と告げられ、われわれはアテネ・フランセの一角の教室に入り椅子についた。編集長の梅本洋一がいて、他、何名かいて、諸般諸事のことがらが話し合われていた。キョトン、とするほかなかった。つね日頃は語学の勉強のために使われていたのだろうその教室が、妙にピンと張りつめていたのをぼんやりと思い出す。




その美声の持ち主が先日3月12日に死んだ。『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』の編集長だった梅本洋一が死んだ。当時、批評家柄谷行人の偏執的な読者だったので、必然、安井豊(現 安井豊作)のテクストが面白いと感興していたが、その他、稲川方人樋口泰人梅本洋一の巻頭文を含めたテクスト(とくに覚えているのは、セルジュ・ダネイの『不屈の精神』に関するもの)から多くのことを吸収できた。(ちなみに梅本洋一のテクストを最初に読んだのはフリッツ・ラング論だった<『夜想』特集:亡命者たちのハリウッド>所収)また、これは特筆すべきだと思うが、『カイエ』は、余白の多い贅沢なレイアウトで、紙質も他のどんな雑誌よりもよかった。





「カイエの一介の読者の、せめてもの弔いだ。」と思い、酒を飲みながらキーを叩いた。・・・梅本洋一、一面識もない人だったが、妙に悔やまれる。無念、合掌。