■映画探究ノート 2



■ 映画探究ノート2    コンセプト・イデア 






コンセプトとは、概念であり、概念とは表象である。イデアとは観念であり、観念とは非−表象である。コンセプトとイデアは相互介入的である。手始めに、この2つから考察してみよう。もちろん、作品としての映画それ自体は表象に、つまり概念に帰属性を持つ。そして作品以前の映画制作過程は映画生産者の諸−観念とともにある。イデアとともに。





コンセプトとはその語源があらわすように「妊娠する」「胚胎する」「何かを内側に宿す」という生産的なニュアンスに富んでいる。ニーチェを敷衍していうと「別の価値付けされた2つの対象を等価に置いたうえで導き出された対象」が「コンセプト=概念」である。それはメタフォリカルにいえば、男と女が性交したのちに、妊娠という生産的原初に至るということでもある。妊婦の腹、あの表象こそが、有史以前から発生していた宇宙論的コンセプトの初発なのだ。人間界の、動物界の卵の生成と懐妊。雄性と雌性の等価的価値は、ひとつの子供の出現を待つ「コンセプト=概念=妊娠」によって確約されると言える。






映画作家は映画を作る。芸術家は作品を作る。夫と妻が子供をつくるように。






そして、画家や詩人、小説家、単独の音楽家のケースに顕著なのだが、芸術家がたった1人であり、1人が1つのものを制作する場合でも、当然ながらそれもまた作品である。ありとあらゆる価値付けの領野のなかで、芸術家は析出する。2つのものや3つのものや4つのものを、ありとあらゆる諸現実の諸領野から析出し、想像し、抽象し、具体化し、現実化する過程を持つ。1人は夫と妻を同時に兼ね備え、二重化、三重化された知覚から認識を拡大させ、ついに1人を複数に諸分割する契機をも創出する。1人の芸術家はこう考える。数学者ブラウアーの「two-onenessの理論」が捉えたように、1つのものを2つのものに分割することに、または2つのものを1つのものとみなすことによって、・・・そればかりか、1つが1つであることの条件として必ず1つを2つとして捉えなければならない、という諸分割/諸連結の使命によって、作品の能産的無限がひとつの作品それ自身に胚胎されるだろう、と。





いっさいの同一性の拒否?そうかもしれない。ここにはカント以降の「物」のステイタス、つまり「物」が単一に自律してあるのでなく、「物」の背後には必ず「物自体」がある、というデュアリティを問題にする態度が付随しているのだ。(ラジオ番組『菊池成孔の粋な夜電波』第57回における菊池成孔の発言によると、ジャズ・ピアニストのジョージ・ラッセルも1オクターヴを二つに分裂するものとして捉えていたということだ・・一体全体何が起こっているのだろうか?)。





コンセプト胚胎の段階では、所与として数があるのではない。数は任意であり、選択された対象は表象界において可視化される物体数を析出する。そのリストアップ(平面的羅列)は作品=子供の条件である。そうして1つの作品によって作者が見出される。次に1つの作品の子供としての作者が再びあらわれる。






平日のオフィス・・・またはどこかのミーティングルーム・・・とある人物が「コンセプトは?・・・コンセプトは、どういったものでしょう?」と問い続ける。なぜだろうか?なぜ、コンセプトが必要なのだろうか?どういった要請があったのだろうか?もちろん、察しのとおり、社会的、経済的安全弁としてコンセプトは自らのうちに、社会的な機能性を認めている。一般的にそれがコンセプトだとさえ思われている。ゆえにコンセプトは、その概念的価値を貶められ、イデオロギー的になっているとも言える。真のコンセプトとは、つまり、「能動的に孕ます」ということは、苛烈なイデアから生産した強度の「概念」であって、イデオロギーが先行するものではない。だからイデオロギー的にコンセプトを求める者はつねにイデオロギー的ジェネラル・コンセプトを求めているに過ぎない。そして、この場合、イデアとは何なのか?イデアがコンセプトにいかなる関与の仕方をしているのか?もちろん、イデオロギー的ジェネラル・コンセプトによって隅に追いやられているのは、イデアであって、イデオロギーではない。





イデア。一気にプラトンの時代に遡ってみよう。紀元前375年のギリシャである。おしなべて『国家』の第十章はプラトンに先行するルクレティウスエピクロスとともに「映像論」としても読めるもので、とりわけ『国家』は、20世紀の諸映画が、その制作手段として「国家」というフレームを抱え持っていた、という意味では「映画論」「芸術論」に近傍するものとして読解できる。





それはともかく、まず躊躇せずに言っておきたい。テクストの『国家』とはプラトンによって夢見られた「ファンタジー=国家」の反映であり、「ファンタジー=国家」をうまく機能させ、完全なオーダーとして永続させるための諸理念の表象なのである。それ自体がイデアルな何かであり、「国家」なるコンセプトにイデアを最初に胚胎させたのがプラトンなのだ。プラトンは諸表象に適合性を与える。詩と文学を天秤にかけ、表象的適合性、つまり国家創設にとっての「相応しさ」を計測する。(あまりにも有名な詩人追放論)。





ところでプラトンの諸説(創作的対話)はアレゴリカルであり、一種の寓話である。三角形のイデアと実際の三角形はちがう。なぜなら・・・職人のつくった寝椅子と、絵に描かれた寝椅子はちがう。現実とその模倣はちがう・・模倣を映像化したものともちがう・・・なぜなら・・・このなぜなら・・・に対し、完璧な論理的整合を目的化したうえでプラトンは思惟したのではない。ここでは「the ideal」、つまり多くの寝椅子一般のなかでも、もっとも理想的な寝椅子があるという、その真の寝椅子と、一方の「 the so-called actual」、現実にそのまま見出される寝椅子として一般化可能な諸−寝椅子とを分けて考えた、ということだけを押さえておきたい。






イデア」もまた歴史的に発展を遂げてきたといわねばならない。今日の日本においては明治初期に「イデア」を日本語に訳す作業を経たものが流通している。「イデア」をまずは仏教の領野に還元したのは西周であり、この時点で彼がプラトンまで遡ったうえで「イデア」に「観念」という訳語を与えたということが中沢新一の『芸術人類学』所収「日本哲学にとって観念とは何か」から伺える。古代ギリシャ時代における「イデア」は日本語の「観念」というよりも「理想」や「理念」、「目的」に近いニュアンスがあり、それらの意味は、日本語における慣用句の「観念する=諦めて悟る」や、「観念的=具体的、現実的、合理的でない」というネガティヴな意味合いとは相反する、むしろポジティヴな意味合いがあったと思われる。しかし、ここでは「観念=イデア」とは、もともと視覚性をともなった作用だということを確認しておくにとどめておく。(イデアはエイドス・・形相という語から派生しているという説もある)。映像にかんする観念。ここではすでに視覚的に視覚を考察する機能をそのうちに認めねばらならない。または音にかんする観念。それは音に対する思考の視覚化をともなっていたほうがよりよいイデアを持つことできる、とみなさなければならない。(ところで「観音」というのは英語で何と訳されているのだろうか?)