『まじめが肝心』はオスカー・ワイルドの風習喜劇、読んだことないけど その3












先日、新宿で会ったS君(自称ゲイ)は、新宿駅から数分の「国際劇場」(ゲイ映画、またの名を薔薇映画専門ではない成人映画館)によく通っていた。わたしも2、3回、新宿での夜遊び後の「始発待ち」のために、利用したことがある。数年前、S君とわたしは、まずは、新宿駅徒歩2分の「国際劇場」の中にあるチケット販売機の表示「同性愛者同士の入場お断り」について話しあった。(たしか、この表示については、このウェブログでも過去に記述したことがある)。




さて、S君とはどうやって知り合ったのか?残念ながら、それをここで詳細には記述することはできない。ただひとつだけ、記憶を穿り返せば、京都のクラブ・メトロ(まあちょっとした京都好きの遊び人なら誰でも知っているだろう・・・私も3回ここで映画を上映した。)でのことだ。正確な日付は思い出せない。だが、正確な場所とは、ほかでもない、クラブ・メトロの男性用トイレの中、なのである。cho君、とだけ記しておこう。黒尽くめのタイトなゲイ・ファッション。ディペッシュ・モード経由の?




さて、クラブ・メトロのトイレで何があったのか?それもまた記述することが憚られる。なぜというに、私は(一般的に定義されるような)同性愛者ではないからだ。百歩譲っていっても、男性に対しては「好き」になっても「性的に欲情する」ことはない。同性愛者同士のコミュニティーで、同性愛者に関するディスクールを流通させる、という環境にわたしは、あまり関心を持っていないし、実際、そういうところには埋没したことがない。(伏見憲明×浅田彰の講演会とかは聞きに行ったことはあるけど)。




唐突に断言するが、わたしは「真の男前」が好きなのだ。「真の男前」という観念、その映像、その肉体、筋肉組織、身振り、手つき、足取り、色彩、吐息、生き様、死に様、そのすべて。(・・・「本物の男しか愛せない」と、ヘルムート・バーガーは歌った。『地獄に落ちた勇者ども』ルキノ・ヴィスコンティ・・・)




重要なことは、この世に美しい男性がいて、美しくも、さらにたくましい男性がいて、それに加えて、芸術的にも、哲学的にも、非の打ち所のないような天才的な男性がいるのではないか?と。想像することはとてもいいことだ。これである。(要するにわたしが手前勝手に想像する完璧な男性像をわたし自身が作り上げることが重要なのだ)。年齢性別問わず、至上の価値を設定すること、それを忘れないでいることは、たしかに世俗的な基準を葬りさるほどに、強力な処方箋になる。そういう意味で私は想像力を信じている。「キャラ」なんていうなまぬるい概念は一刻もはやく葬り去るがよい。君の想像力によって、君が殺される、死んでしまうというくらいの君のたゆまぬ想像力をanytime,anyplace いかなる時に、また、いかなる場所においてでもきたえあげるがよい。



20世紀の暮れ方、一時期、京都大学の一角においてオーガナイズされた「ウィークエンド・カフェ」に通っていた頃、オニヅカさん、というゲイの年配の男性の常連客がいた。わたしはオニヅカさんからさまざまな教示を得た。(たしか当時京都産業大学スペイン語の教鞭をとられていた。)そして、ウラジさんというトランス・ジェンダー、あるいはドラッグ・クイーンがいた。(今でも彼/彼女は男性なのか女性なのかわからないし、そういうことは直接聞いていない。)わたしはウラジさんに会う前にウラジさんに手紙を出していたことが、あとでわかった。(なぜって??それはまた別の機会に書こう。気が向けば。)



S君、ゲイ・アイデンティティを問題にしないことはとてもいいことだと思う。n個の性を信じることはさらにいいことだと思う。ひるがえってヘテロアイデンティティが成り立たないこともとてもいいことだと思う。私は。