『まじめが肝心』はオスカー・ワイルドの風習喜劇、読んだことないけど その2







この3月4月はおかっぱ状態が続き、しかし、だらしなく伸び切っていることに気づいた昨日、近所駅近のprogress(日本語では、なんと「進歩する」だ!・・ちなみに画家のピカビアにちなんだピカビアという超洒落た美容院はなんと不幸なことに「kofuku hair」に改名されていた)という美容院で再びおかっぱにしてきた。今日は5月の21日。6月も、7月もおかっぱなのかもしれない。そこでおかっぱついて、書き記しておきたい。かねてから(おそらく10年以上前から)「おかっぱ研究」を構想し、結果次第で映画化もしてみようかという気分にまで至ったが、ずるずると今日まできてしまった。5月のカンパリソーダが美味しすぎるせいだろうか。



私は、そう言える機会があれば、「おかっぱが好きだ。」と、ことあるごとに言ってきた。今も好きだし、今後も好きだろう。だが、これは誰にでもある「好き嫌い」あるいは趣味の話で、誰もが(しようと思えば)瞬時瞬時に判断できることであり、いかなる場所においてでも発生することだ。しかし、「好き嫌い」とは、それゆえ、コロコロと変わりやすい。ある場所、ある瞬間、ある種の気分に支配されているとき、思わず「いいね」となり「好きだ」となる。それ自体がコロコロと変わってゆくのだ。いつまでも変更可能な「好き嫌い」。これが「好き嫌い」の極意なのかもしれない。




「好き嫌い」とは究極的には「好き嫌い」を常に、解体していゆく運動をともなったものである。それゆえに「好き嫌い」は「普遍性」を嫌う。君は言う。「昔の私と今の私はちがう。」と。こう主張するのはもちろん理にかなったことだ。君が君自身、「ちがうものになりはてた」、という判断をまっとうにしている限りにおいて。




それでも、世間というやつは、時に君に押し付けるだろう。「君は永遠に君であるべきだ。」と。それは「同じであれ」という同一性の強要であり、「同じであってほしい、変わらないでいてほしい」という他者の欲望(俗に言う「願い」)である。




それではその「願い」はどこからやってくるのか?それは他者が勝手に(勝手に、とは、こちらの意志や感性でコントロールできないということ)抱くイメージ(幻想)である。「昔のあいつはどこいった?」「昔のあのコじゃなくなった。」まさに時間(時間がずれ込んで、別の時間を発生させるという時間の連続体)は、変化を生み、変化が時間経過を確認させる。10年一昔。変わってあたりまえ。あれほど、大好きだった村上春樹が・・・あれほど大好きだったパフュームが・・・あれほど大好きだったパピコのオレンジマンゴー味が!・・・などなど。



にもかかわらず、私が「おかっぱ好き」であること、誰がなんと言おうとこれだけは変わらないのである。太陽が西から昇るわけがないように。西の夜空に浮かんだ三日月が切り忘れた爪のように見えないわけがない、ように。