「2022年からの<真の映画史>」に向けての序説 #7

まだテレビのない時代、映像という概念ではなく、実態を経験するには、映写機による投射に頼るしかなかったのです。これは驚くべきことです。視聴覚教育がなされたのは正確に一体いつごろなのか、調べてみるとすぐにわかるとは思うのですが…なので人々が「映像」を見ようとなれば映写機のあるところに行く必要があったのです。ある大きな会社なり商社なりが政策上の成り行きで映写機の輸入をし始めて、そこには映写機の行商人が用意されていて、学校なり、地域のホールなりに映写機というやつが持ち込まれ、多くの子供なり大人なりが映像という実態を教育レベルで経験したのだと思います。

 

はたして幼児は一体どのようにして「映画を観る」ことを学ぶのでしょうか。いや、そもそも物語というものをどのようにして理解し始めるのでしょうか。多くの幼児は、錯乱の時期をへて、(ありとあらゆる大人が用意した道具立てによって)統一の時期へと至るのですが、物語を理解するには統一的な自己が必要なのでしょうか。それとも統一の必要なしに物語を理解できるのでしょうか。わたしが思うに、子供の動きというのはある時期まではバラバラです。自我が形成されていません……だけど、幼稚園なり、保育園なりに行くようになって集団の中の一部になります。先生と生徒という関係が強固に守備され、絵や映像、音楽、言語、ダンス、体操、集団散歩、お遊戯などを通じてあれこれと叩き込まれます。「〇〇君の描いた絵はこれこれこうで、これは〇〇ちゃんの絵と比べて、これこれこうで……」と、「その他の人とはちがう自分自身として」自我を叩き込まれていきます。それに適合でない子供は、狼少年とか狼少女の扱いを受けて、より周辺的な何者かとして扱われるようになります。

 

ここにまず多様性のなさが、国家制度が用意した多様性のなさが見られるのです。わたし自身、もう覚えていません。わたしが多様な人間であるかどうかはともかく、わたしが物語というものをいかにして理解し始めたのかをもう思い出せないのです。いつだったか…マルチェロ•マストロヤンニとジャック•レモンが出ていた「マカロニ」という映画を誰かと見たのですが、わたしにはさっぱり理解できませんでした。その誰かは「マカロニ」を面白かった、というのです。その誰かは