メモ 標準語の傾向的無意識






標準語の波長と関西弁の波長は端的にちがう。
ご存知の通り、標準語は、発音がフラットで一定してすーっと行くので標準化しやすい。
アナウンサーの音声言語に代表されるように、それは聞いていても、聞き取りやすいし、理解しやすい。
また、アナウンサーの態度(映像)もフラットで一定して、そのレベルでも、標準化されていて、互いにそのスタンダードぶりがシンクロしている。

一方関西弁(や、非標準語)は、標準語のようにスーッとはいかない。
だいたいが「音の山や谷や平地やら」があって、音声の高低が目立ち、うにうにうねうねしていて、それ自体が一定の意味化の作用から逸脱するようにできている。
(芸子さん、舞妓さんはおそらくこの意味の「逸脱」において、客を酔わすことを心得ている。それはもちろん酒=酩酊との相乗効果を高めるためである。)

標準語は伝達上の理解作業を加速させるが、それは国語教育やナショナリズム愛国心にも関係がある。
ひいては、東京一極集中的な感性のバイアスを生んでしまう。「郷に入っては郷に従え」という慣用句があるが、東京に出てきた者は、良かれ悪しかれ標準語を話すことに慣れてしまう。


多様な環境を作るには多様な決め事が必要である。
しかし、そのルールを作る時間をもてないという東京的多忙さというものがあると思われる。
(マス・メディア上のコンテンツではなく)具体的なビジネス・シーンにおいては
東北訛りは許容されるだろうが、
露骨な東北弁は排除される方向にあるだろう。
そしてこの一方的排除は経済成長の方向性、質、量を狭める結果となるだろう。

だが、この傾向は法律による制御(コントロール)にもとづいているのではないし、絶対的な根拠が
あるわけでもない。

東京という巨大な無意識がそうさせているのである。
傾向的無意識。