Deleuze 『CINEMA 2』 2







昨日の記述「重★ものではないもの★要」のなかで「映画は断じて言語ではない。」と、少々意気込んで書きつけたことは記憶にあたらしい。(なんといっても、それは昨日のことだから!)



「映画は断じて言語ではない。」これは、以前から今なおもって強烈に意識していることだ。なんどでも繰り返そう。「映画は断じて言語ではない。」



20代のだいたいを映画館で映写技師をしながら映画作品を作っていたが、とくに27歳(結婚する前)までは、集中的に映画を観ていた。1年365日あるが、一時期は365本以上観ていたのではないか、と回想される。だからといってわたしはシネフィリー(映画狂)ではなかった。むしろ映画狂(某映画批評家S・H経由の)のファナティックな心性に対し、攻撃することをやめなかった。映画仲間を失う?そんなことはおかまいなしだ。



おおくの映画ファンはナイーヴである。自分をある種の欠如態として捉えることをやめず(なぜ、お前は今のお前で満たされないのか?!)、欠如の埋め合わせをするように、その映画に、主人公に自己投影する。「かっこよさ」「かわいらしさ」「うつくしさ」などの形容名詞(形容とは形を容れるものであって形そのものではない)こそが、映画そのものに先行するかぎり、映画はついに知性体(知的生命体)であることをあらかじめ放棄することになる。「オレ、馬鹿だから。わたし、頭悪いから。いいんだ、それで。」そう、そのままで、いいだろう。君は君のままでいるがよい。誰の意見をも聞かずに生きるがよい。だが、君の四畳半の世界観を押しつけることだけはやめてほしい。もっと上手に狂ってくれ。





映画は断じて言語ではない。



映画から「観念的パロール(思考の果実としての)」を採用することは映画にとって忌み嫌われている。(ガレル、ゴダールに勝るアンゲロプス、タルコフスキーの人気によって確証される)。そして、映画に出現する言語はいたって「平明な日常会話」であるべきだ、われわれの日常(←なんというクリッシェ!)の延長であるべきだ。というある種のオピニオンによって支配される。



21世紀の映画は、20世紀内に映画が、テレビジョンがどこまでも必要としたあの「人間」をいかにして更新してゆくのだろうか。そして彼ら彼女らが展開する「日常」と呼ばれる表象を映画それ自体が解体してゆく過程にこそ見出される、という意見をいかにして確証してゆくのだろうか。



解体しつくされたときに消滅する「人間のイメージ」、その果てに出現する「ポスト人間」。20世紀映画が求め、求められた人間がイメージと化し、イメージと化した人間が、さらなるイメージとへとどこまでも操作されることを良しとしてきたあのイメージ人間(ニーチェがいうなれば畜群)たちに囲い込まれた映画=饗宴というイメージ。





さて、次のドゥルーズの発言は、この書物のなかではもっとも過激である。
ページ262を読んでみよう。(強調は筆者)




・・・こうして現代の映画は、三つの観点から、思考と新しい関係を結ぶ。イメージの間に挿入されるある外部のために、イメージの全体と全体を消滅させること。自由間接的な言説とヴィジョンのために、映画の全体としての内的モノローグを消滅させること。この世界への信頼だけをわれわれに委ねる断絶のために、人間と世界の統一性を消滅させること。

映画は人間を必要としてきた。だが、人間は必ずしも映画を観ることを必要とはしていない。この非対称性から映画と人間の関係を組みかえてゆくこと。ドゥルーズは、この書物のなかで、時に映画が人間を飼いならしてゆくことに対して、多大な苛立ちを吐露してゆく。彼は1981年に画家フランシス・ベーコン論『感覚の論理学』を記した。その4年後に書かれたのが『シネマ』である。