「2022年からの<真の映画史>」に向けての序説 #9

1人で考えるのは良いことですが、2人で考える、と言うよりも2人で考えを提示しながら別の問いを導き出すことができます。人は理解可能なのっぺりした平野のなかで考えるのではなく、時には他人の意見を使って崖に登ったり、海に飛び込んでみる必要があります。そうしながら鍛えていくべきです。わたしはわたしが第4映画と名付けている「映画のもう一つの方向性」に向かって舵を取るべきなのですが、なかなかうまく行きません。そこには壁がありますし、手助けしてくれる人が見当たりません。繰り返しになりますが…映像の断片が売買できる経済の仕組みを、流行りのブロックチェーン理論やNFT理論なども使いながら考えないと先に進めないのです。これを考えるためには作家や監督よりも、むしろプロデューサーの意見が必要です。映画において一儲けしよう、とか、映画の市場を我々なりの革命的方法で揺るがすべきだ。とか考えている人物が必要です。そして経済学や、法学、美学などの数名の専門家が必要なのです。こういったことを考えていると、時間が足りないと思えてきます。そして「モンタージュにはもう可能性はないんだ、別の何かをしよう。」と言って、絵を描いたりしているのです!

 

いや、それでもモンタージュ<にしか>可能性はない、と自分に言い聞かせながらあれこれと試したりはしているのですが…。そういう時に、他の誰かの意見や問題提起を知ることは何かの役に立ちます。2022年になって、そう1月の3日の晩にずいぶん歳下の青年を自室に招いて、映画や他のあれこれをめぐる話をしました。ミスチルエレカシの時代はどうのこうの…、とか、若者がBARに行かなくなったのは…とか映画以外の話も含めて話しました。私は話す時は関西弁(京都弁)であったり、標準語であったり、その時その場所に応じて何となく無意識に使い分けているのですが、このトークの映像を見直してみると関西弁で話しているということがわかります。そして話しかたの次元においては「リズムではなく拍をつけたがっている」ということがわかります。声質は、あまりいいものとは思えません。関西弁はイントネーションの凹凸があるのですが、標準語はフラットに進んでいきます。それは一見合理的な発音体系だとは思うのですが、息苦しさも感じます。一定の高さで発声を維持しなければならない、といった強制力を感じます。定規で直線を引くのは面倒な時もあるのです。そして「一体全体標準語を喋らなければならないという規則がないにもかかわらず、どうしてみんな標準語を話すのだろう」と時々思ったりもします。

 

 

わたしはわたしが話すことにおいて拍をつけること、つまり、何らかの強弱をつけることをしたがっている、ということがわかりました。……自分で自分が話す映像を見る機会はそう滅多にあるもんじゃありません。テレビに出ている芸能人やらでさえ、自分の出ている番組などは見ないものなのです。しかしわたしは一定の時間を作って見直しました。そこにうつっているわたしは、何というか、わたしが普段思っているわたしではありません。残念ながら「わたし以下」ものでした。……色々と発見があるわけです。なので、自分で自分が話をする姿を客観的にみることは、「こいつは一体誰なんだ…?」と気にかけながら見るのは、大いに役に立つ何かなのです。鏡とは、そういったものです。髪の毛や肌などの自分のひどい部分を発見し、よりマシに見せたりするのに役立ちます。トークの映像、あれは動く鏡であり、鏡よりもより多くの分析材料を提供する有益な何かです。普段わたしが人びとと会って話す時、どういった印象を与えているのかがある程度はわかるのです。(https://youtu.be/INTTkaJStUQ  https://youtu.be/EmShHFahrFQ  https://youtu.be/kV0K_07uw4I  https://youtu.be/UHAQgezBBPQ

 

 

8mm映画を作っていた時代は、そうです、すでにvideoがありました。デッキもありましたし、カメラもありました。videoが出現したのは…我が家においてBetaのvideoデッキが導入されたのは確か高校2年、1987年だったと思います。わたしがBetaのビデオデッキを欲していたのは…ローカルな話ですが…ローリング•ストーンズやら、なんとかの洋楽のビデオの違法の海賊版がBetaでしか販売されていなかったからです。しかも、それはビデオショップでもなく、レコード屋でもなく、何だかよくわからない場所で販売されていました。テレビドラマは少しも録画しようとはせず、MTV的な音楽番組と深夜の映画番組しか録画しませんでした。一方1987年の時点ではvideo cameraはまだまだ普及していませんでした。簡易的な民間用のビデオカメラが普及したのはもっと後のことです。独占禁止的なやり方で発売されていたVHSーCテープと8㎜テープの二種類があって、ようやく小型のものが普及しだしたのは昭和天皇崩御して以降のことだと思います。バブルの全盛期というのは、海外旅行の全盛期でもあり、ちょうどパスポートサイズのハンディカムというやつがSONYから発売され、それで一気に汎用的になったのだと思います。

 

 

24、5の頃だと思いますが、videoがあったにもかかわらず8㎜を作ったのにはいくつかの理由があります。もちろんそれ以前にHi8というvideoで、短編を作っていたのですが、8㎜作品、いわばリュミールの時代から続いているフィルム作品を作るべきだと思ったのです。それは映画というものをより根本的に知るためでもありました。電子の世界ではなく光の世界に対峙するためです。現像、というよりも光が感光板に何かを、今まさにわたしが見ている何かを焼き付けようとする世界です。

 

 

当時は16㎜で作るのが劇場公開のある種の最低基準となっていて、周りの野心家は16㎜で映画を撮りたがっていました。わたしも人にすすめられたりしましたが、「いや、これからはvideoの時代だし、フィルムで作るのがステイタスだと言っても、ここ2、3年のことだよ、それ以降のことは…」とうそぶいていました。videoは、今やもうvideoという言い方は廃れているようですが、どちらかといえば軽蔑されていました。「野上君videoで撮る映画は映画なんかじゃないよ。」とよく言われたもので、何度となく口論していたのを覚えています。わたしは「フィルムであろうが、ビデオであろうが、それが映像でありさえすれば良い。」とよく言い返していたものです。

 

 

そうです。2月の4日の金曜日に8㎜映画を、それを映画と呼んで差し支えないのなら、映画を…上映するのですが、とても貴重なものです。故加藤幹郎氏の弟子筋にあたるのかどうかは知りませんが、…ずいぶん前のことです…京都の映画評論家の方がエルモの映写機パナビジョンSC-18を無償で譲渡してくれて、しかしモーターを回転させるベルトが経年劣化していたので修理に出したもので映写するのです。時代がvideoからHDになり、クラウド上のデータになり、それらを置き換えたUSBスティックやSDカードになったりしている現在ですが、目に見えるものは、そう、映像には違いありません。形式的に考えて、モンタージュ編集を含んだ映像なのですが、そこには絵巻物の系譜があり、紙芝居の系譜があり、パラパラ漫画の系譜があり、プラトンの洞窟の系譜があり、幻灯機の系譜があります。個別に検証するべきです。そしてそこから漏れているもの、ついつい忘れがちなものとして、戦後GHQが日本の教育システムに導入した「視聴覚による教育」、その系譜があるのです。