『まじめが肝心』はオスカー・ワイルドの風習喜劇、読んだことないけど その4








もちろん、任意の髪型とは、アレンジメント(変奏)の一形式であるが、実のところ、もっと形式的に強力なのは、鬘(カツラ)であり、その表象である。(代入可能→変換可能な物体)。鬘に関しては、16〜17世紀のヨーロッパの貴族社会において見られるように、カールの強度、そしてカールの数(数量)、が階級の明示的道具として利用されていた。(グスタフ・レオンハルト演ずるヨハン・セバスチャン、ストローヴ&ユイレ監督の『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』という、すばらしいモノクローム映画を思い出す)。男性鬘は18世紀ヴェルサイユ宮殿において女性が男性とともに(最新モードとして)カーリングし始めるのに先行していたが、それ以前はいうまでもなく男性優位社会の明示/維持の道具でもあった。音楽、そして権威づけ、音楽の背後に見え隠れする髪型。





また、カラー(首元・・襟ぐりの保護面)もまた、階級の明示/維持の道具としておおいに表象され、第二次大戦中の日本軍の制服においてもヨーロッパ式(ドイツ風)のカラーが採用されていた。戦後のスピン・オフ。ハイカラとは、つまりハイカラーの暗喩であった。ハイカラは優位性の誇示であり、ハイ(高い)カラーのことである。カラーとカールは同根の意味なのか?しかしそこまでは調べていない。




カール、そしてカラー。この音声類似から注目してみると、両者はまず、自然科学的に「目線の固定」にかかわる意味性をともなっていると言える。直立二足歩行システムがなぜ成立するか、言うまでもなくこれは目線の固定にかかわることであり、つまりは、目線の先にあるものに、目線を吸着−固定させる対象を意図的/操作的にもたせる、つまりは「対象をでっちあげる」という仕組みこそが採用されていたのでは?という推論が成り立つ。





自然摂理的に第一に目につくにようになっている髪型、顔、首、そして襟、(つまりは頭部)。「視線情報」だけを析出すると、一次情報の固定性は、二足直立の固定性とかかわりがあることはいうまでもない。相手は何を見せたがっているのか?それに対しては「のるか、そるか」である。「そる」自由はまだまだある。雲がわずかに動き、木漏れ日がわずかに現れる。






今日は、おかっぱについて、ズバっとストレートに書き、切り上げようとしたが、歴史的な流れについて触れた。遠回りこそが近道だ。