2008年前期についてのソフトな会話


2008年前期についてのソフトな会話








・・・そして昼の騒音に聞き入るのだ。
それがまるで永遠の和音であるかのように。
          (カール・クラウス







▼「机をポン、とたたこうとして、たたいた結果、ポンと鳴るのではなく、机をたまたまある形でたたいたからポンと鳴った。つまりポン、とたたこうとしてポン、とたたいたわけじゃないんだ。」
●「そこには意志も計画も介在していないってことかしら。」
▼「反射は意志を遅延させるし、意志は反射を遅延させる。」
●「さて、久しぶりね。」
▼「そうだね、2008年も前半を終えた。光陰矢の如しってことだ。」
●「何やってたの?」
▼「そうだね、もう、ぼくがやっていることはちょこっと図書館で働いてあとはお酒呑んでいることだけなんだ!!と、そう言い切りたいところなんだけど。」
●「映画作りはどこへいったのか?」
▼「映画作りはチグリス・ユーフラテス川あたりを泳いでてもいいんだけどそういうわけにはいかないな。まず、最近の傾向として、映画を多角的に、それこそルネサンス人のように、普遍をめざしつつ、なおかつ新古典主義に依拠しない現代性を体現させつつ定立させるためには、まず、瞬時に制作体制をズラしながらやるしかない、と思われる。」
●「どういうことかしら?」
▼「ううん、正直言ってますます飽き症だってことが判明して、どうしようもないんだ。制作はしているよ。だけどそれがあたりまえになるともう制作している意識なんてなくなってくるんだ。まあ目的なんて考えてないから馬か鹿かのようにやれるんだけど。」
●「最近作曲ソフトによる音楽制作に凝っているって聞いたけど、」
▼「そうなんだ!音楽制作っていうか、サウンドトラックの探求のためのエチュードですよ。映画音楽っていう安易な「映画」と「音楽」の癒着体制批判。それに加えてギターも今まで知らなかった細かいコードをいじくるのが楽しくなってきたな。まあ、映画にとってサウンドトラックとは何か?という命題の追求を、きわめてプラクティカルにやろうとしているだけなんだけどな。」
●「けど、いちばん面白いのは創作料理ならぬ創作リズムって言ってなかった?」
▼「そうなんだ!!7拍のリズムパターンを作るのに凝っている。全然踊れないし、ぎこちない盛り上がり方しかできないやつ。ハンガリーの農民の雨乞い歌なんかを集めたディスクがあって、4月頃よく聴いていたんだけど、体が楽器になっているわけね。体が楽器っていういとまず手拍子なんだけど、太ももとかお腹とかもたたいていて、ペチッっていう音が鳴っている。すごく素朴で土着的なんだけど、つよく思うのはまず手と指先なわけ。音がまず手と指先に還元されて、身体を刺激しにかかる。だからポンってたたこうとする意志に先行するのは、ここをこういうふうにたたくとこういう音がなるっていう認識以前の習慣、それと気付かない習慣なんだ。それに影響されてか、自分のしゃっくりとかムニャムニャ声を録音したりしてるな。」
●「晩年の熊谷守一(画家)もへんなリズムをつくるのに凝っていたってだれかに聞いたわ。」
▼「そうそう、あの人はまずもって科学と数学の人だっていう気がするな。」
●「芸術家ってある時期になったら量子力学的還元に走るのかしら。鷲掴み的に諸芸術の形式を把握しつつ、ある程度作品を生産しおえたらミクロなものに向かう他ない。」
▼「そうね、とくに映画のおおざっぱさ加減、第七芸術だなんて、非常に暴力的な定義だと思うけど、それを探求するにはやはりミクロなものとのつきあいなしにはありえないとは思うんだな。そういう意味で耳と疑似耳、つまりi-podという疑似耳とリアルな耳をわけて考えなくちゃならんし、それをしないかぎり、はやりのJ POPを中心にした和音音楽漬けになりがちで、ますます耳と頭が弱ってくる。音楽ってまず聞かなくても、街歩いていたら鳴っているし、店入ったら鳴っているし、まあ意志とは無関係に勝手に耳に飛びこんでくるじゃない。その無関係性にいら立ってか、そこでだいたいi-podが用意されるわけね。そこには疎外論的聴取、つまりリアルなノイズを遮断して、フェイバリットな居心地のいい環境を想像的に瞬時瞬時につくってやるっていうネガティブな動機がすごく働いている、そのネガティブな動機って音楽のミクロロジーを遮蔽することに対応していると思うんだよ。ぼくは3日聞きだめして、2週間はぜんぜん聞かなくてすむっていう感じにはなってきた。あとは自作の曲をつくりながら聞く。i-podにも飽きてきたな。」
●「音楽づくりが映画づくりにどう活かされるのかが問題ね」
▼「最終的には音楽そのものを脚本にするのが面白いと思うんだけど。」
●「音と色彩の関係ってとくに画家のカンディンスキーが取り組んでいたと思うけど、色彩は色彩であって画面ではない、それはどう処理するの。」
▼「恣意的に細かいシステムをつくればいいんだ。そんなこと参照項目なしに手前のお味噌でやればいいんだよ。確率微分方程式とか群論とかちゃんとマスターしてシステム構築してもいいんだけど、ちょっと時間がかかるかな。で、規則性の面白さは、規則が共有されることにあるし、ひるがえって規則が破られることにある。しかし、カンディンスキーと言えば、東京芸大美術館でバウハウスデッサウ展やっているね、行ったかい?」
●「もちろん!超よかったわ!」
▼「ぼくもKNOLLのトートバッグを買っちゃったくらいには良かったな。14年前にセゾン美術館がやって以来なんだけど、規模は今回の方が大きいんだって。」
●「あれは贅沢な経験だったわ。映画もやっていたし、へんな回転装置とか、作品以前のエチュード的物体がたくさんあって、それを見るのが楽しかったな」
▼「ラスロ・モホイ=ナジの作った『光の戯れ 黒・白・灰』(1930)、あれは変てこだったね。幾何学的な衣裳が凝っていた。でも、音楽のつけかたとかノーマルすぎるんだな。トーキー初期って感じが拭えない。」
●「映画も神経質なまでの懲りようが全開しているけど、立体作品のエチュードとか設計図とかでも神経質なまでに丁寧に描いているのね、方眼用紙のひとこまひとこまをきれいに塗りつぶすとか、そういう作業からはじまっている。ファクシミリの用紙とか葉書にプリントする企業ロゴみたいなものもね。いや、当時ファクシミリっていう単語があったっていうのは驚きだったな。あとはヘル
ベルト・バイヤーのタイポグラフィーによるチューリンゲン州の緊急紙幣(1923)。おそらく恐慌とかで今まで等価交換できた紙幣が一夜にして不換紙幣紙幣となった時のためのものよね。そのデザインを有限会社バウハウスに申請していたというのは面白いね。」
▼「けど、一発目に展示してあるのがウィリアム・モリスの食器、なんでやねん?」
●「モリスもちょっとだけバウハウスに関与していたんだって。」
▼「そうだっけ?」
●「関与というか第一次大戦前にバウハウスの前進となったドイツ工作連盟がモリスの影響下にあったのよ。芸術と産業との結合、だからバウハウスにおいては体裁は造形学校なんだけど教える人は先生とか教授とかではなく、親方(マイスター)っていう呼ばれ方をしていた。先生!じゃなく親方!」
▼「ゲーテに『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』ていう小説あるけど、ヴィルヘルム親方の修行時代のことなんだね。それにしても芸術と商品と生活の一体化って、ちょっとまえまでは資本主義の周辺だったんだろうけど、今やあたりまえになってきているような気がするな。」
●「生活の美学化よね。日本人がやっと建築をたんなる構造物以上の建築として認知してきた。」
▼「まあ、狭い部屋に洋服ダンス置くよりも、突張り棒でなんとかなるっていうセンスの方が支配的なのかな。ゴミ捨てるのもお金かかる時代だしね。」
●「今やファッショナブルな現代仏壇なんてのもあって、故人の好きだった音楽を仏壇からながせるようになっていたりする。浅草の一画に旧来的な仏壇街があるんだけど、閑古鳥鳴いているし。」
▼「そりゃ、面白いね。死んでも生きても現世に未練たらたらなのが人間の業だもの。しかし、批判するわけじゃないけど最近の空間偏向性ってモリスからも影響されていた柳宗悦民芸運動が現代的な形で復活しているだけなんじゃないか。ようは仏壇なんて死ぬ前に自分でデザインするっていうのが、最終的にはモダンだということかな。ローテックロープライス、でもハイアート。」
●「それはそうと表参道のナイキビル見た?」
▼「ああ、246号線沿い、表参道というよりも外苑前かな。」
●「あれ、いいよね。まだ工事中だけど。」
▼「ぼくもちょっとびっくりしたな。うおっ、ジャコメッティビルかって思った。」
●「そうそう、あんなに美形なビルはない、シェイプで言えば銀座のエルメスソニービルよりもはるかにセンスいい。」
▼「コム・デ・ギャルソン本店もそうだけどファサード自体に逆円錐を使っているでしょ。どうしてかキレイに見えるよね。個人的には浮力とは言えない<反重力性>の表現だと捉えているんだけど。」
●「ナイキビルはジャコメッティの彫刻を線形処理して、胸部から頭部にかけてややヴォリュームをつけた感じ。ヴォリュームが上部にあるから見ててすごく不安定なんだけど、そこがまたいい。際どいバランスで立っている。コルビュジエの弟子筋でもあった前川國男の建築にもよく使われていた、例えば京都市の岡崎にある京都会館とか、東京でいえば上野公園入り口にある文化会館のバルコニーに面している、あれなんていうのかな、飛び降り防止の壁っていうか、それも台形を逆転した格好になっていて、なぜか外形がシュッとしてひきしまっているように見える。
しかし、ナイキビルはその逆台形をビルディングの躯体そのままに使ってしまったようなところがあって、妙な批評的緊張感を見るものに与えていると思われるんだな。」
▼「それはそうと3ヶ月前くらいにオープンした赤坂サカスには行った?」
●「まあバーで呑んだくらいだけど、行ったな。ファサードに隣接しているコート・ダ・ジュールならぬコート・ダ・ルージュっていうバーがあるんだけどあの建物のガラス張りの波形歪曲面が素晴らしい。波形平板を両手で持って非対称にグニャって曲げた感じ。黒川紀章の遺作である新国立美術館も波形曲面を強調しているけど、コート・ダ・ルージュの方がナイキビルと同じで上部にヴォリュームがあるように見える。まあ、AKASAKA を逆から読むとAKASAKAだけど SAKASも逆から読むとSAKASってことだよ!!」
●「ニャ〜。」
▼「しかしもうすぐG8洞爺湖サミットが始まるね。もう始まっているのか?」
●「東京でも駅構内その他での過剰警備がやたら目につく。なんであんなに警備するんだろうか。」
▼「テレビのコメンテーターがいや〜、現代は物騒ですからね。仕方ないですよね〜なんて言ってたけど、そんな現代にしたのはあんたらでしょって言いたい。」
●「いちおうグローバルな環境保全のための会議って建前をプロモートしまくっているんだけど、あの過剰警備はぜんぜん不自然だな。警備なんていらない、なくても成立するってのが真のエコロジーなんじゃないのか。」
▼「逆にテロを煽っているとしか思えない。まあ国家は最初から犯罪や犯罪者、無法者や違法者を必要としているんだけど。」
●「デモ行ったって言ってなかった?」
▼「そうそう、G8関係じゃなくて、反紀元節のデモ、2月11日だからだいぶ前だな。」
●「あなたデモなんて柄じゃないのに。」
▼「デモってたんなる表象だからね。デモには表象という目的しかない。われわれはデモっている!っていう表象があらゆるイデオロギーに先行してるから。」
●「で?」
▼「事前に水道橋の会館で集会があってその時から外で右翼ががなりたてている。集会が終わって、さあ、歩くかって外に出るんだけど、玄関に機動隊がうじょうじょいてね、われわれを丁寧厳重に取り囲んでくれるわけ。で、その集会なんだけど、最近世田谷区の小学校では国語以外に日本語という科目ができた、これはちょっと民族主義的にすぎるんじゃないか、とかそんな勉強会のついでに、G8関係のスクラップ記事をまとめた資料なんかを配布してくれてね、ようするにG8なんて一部のお金持ちの延命政策会議なんだから、うさんくさいものなんだ、なんて反G8の啓蒙もはじめてくれた。」
●「エコファシズムのにおいがぷんぷんするね。エコはビジネスです。介護も半ばビジネスです。要するにファシズムはビジネスですって言い切れない圧力があるのかな。」
▼「ブッシュが京都議定書に調印しないのはおかしいと思うけど、二酸化酸素の排出規制なんて言ってもあまり実感わかないなあ。そんなことより人害の方も大きいだろうしね。東京での鬱病やら神経症のクリニックの貼り紙の多さは大阪の比ではないと思うな。それに加えてやはり都内は水がまずいし。ぼくがこっちに出てきたころは杉並の和泉あたりに住んでいたんだけど、今と比べると水はまずかった。」
●「今はどこだっけ。」
▼「調布市つつじケ丘。もう3年目になるけどここは素晴らしい。調布市内では一番空気がきれいなところで、水も比較的おいしい。ウグイスも6月頭まで鳴いているしね。となりの仙川は通りも洒落ていて、人気のあるところだけど、一方で駅横に安藤忠雄ストリートみたいなのがあるにもかかわらず、家賃高くてテナント空きっぱなし、みたいなところ。そういう空虚が実体化されているところがちょっと田舎もんの町だな、という気がする。音大のスノッブも多いしね。」
●「桐朋学園ね、作曲家の高橋悠治と女優の大竹しのぶが通っていたところ」
▼「そうそう、高橋悠治は中退で、桐朋のことをゴンブロヴィッチの小説に出てきそうな連中がなんやらかんやらと、貶しているけど、二人の靴音がこのあたりで響いていたのかって思うとちょっといい話ではある、それにしても京王線でなぜ人口の多い仙川に急行が止まらないか知ってる?」
●「知らなーい」
▼「京王線の社長令嬢が白百合女子大学の受験で落とされたからなんだって。落とされたっていうかたんに頭が悪い。地元の人はみんな知っているよ。」
●「イケズ!」
▼「で、デモの話に戻るけど、靖国神社まで歩いている途上に街宣車がどんどん攻勢をしかけてくるわけ、その中には高校出たてくらいの若いレディース右翼もいてね、街宣車の窓から身を乗り出して、顔から火が出んばかりの勢いで何か叫んでいるわけ、そういう狂騒ノイズが1時間ばかりつづくと、さすがに気がおかしなってくるよ。」
●「へえ、道路で出す音の大きさって何デジベルまでって決まってるんでしょ。」
▼「そうそう、永田町や平河町で右翼が街宣やっている時は警察が計測機でよく計っているよ。ウニーウニーってグラフで出てくるやつね。ま、音響物理の政治学ってこういうリアリティに触れないとなかなか身近なものとして捉えられないとは思う」
●「サイキックTVジェネシス・P・オリッジやバロウズも音は殺人兵器になりうると言っていた。」
▼「一方で、沿道のひとたちは呑気にもわれわれの写真を携帯カメラやなんやでばしばしとっているんだよ。ぼくもその物見遊山者をデモ隊の中からビデオで撮っていたんだけど。」
●「しかし、紀元節ってどういうことなの?」
▼「神武節ともいうけど、初代の天皇である神武天皇の生誕を起源=紀元にした暦のことだろうね。でも、これはちょっと疑ってもいいことなんだ。」
●「え?どういうこと?」
▼「もう約10年前のことだけど、高澤秀次という人が『評伝中上健次』という本を出したわけ」
●「へええ。中上健次は『日輪の翼』を書いているしね。天皇制の大いなる探求者でもあった。」
▼「そうそう、それでとある中上フリークに連れられて、奈良県御坊市で行われたその出版記念講演会&打ち上げに行ったわけ。四方田夫妻なんかも来ててね。京都の部落解放同盟のえらいさんか誰かが来てて「柄谷と浅田はなんちゃらかんちゃらっ」て愚痴っぽいことを言っていたのを覚えてるな。それはともかく会場の開放会館だったか、その入り口にプリクラのマシンがあって、それが水平社のシンボルマーク、あの茨の冠を二重化したマークと一緒に写りましょうっていう物珍しいやつで、そのわきに神武天皇を祀る小さな神社があったわけよ。」
●「水平社マーク入りのプリクラって東京には確実にない。で?」
▼「で、ぼくが広辞苑の巻末で記憶していた神武天皇の生誕年と確実に違うわけ。講演が終わって、散歩ついでに土地の人に聞いてみたんだけど、神武を祀ってある神社は奈良にはけっこうあって、年号は一致していない、って言うんだよ。」
●「つまり、虚構の人物ってこと?」
▼「そう、ほんとうは神武なんて存在しない、神武を最初に捏造したのは平安朝だ、とも言っていたな。」
●「へえええええ、しかし、2008年の東京では、神武暦をめぐってあれだけの抗争がある。不思議なものね」
▼「まあ、2月11日は右翼が年中通して一番盛りあがれる日だって知り合いは言っていたよ。実際都外ナンバーの街宣車も多かったし、いろんなところから集まってきたんだろうな。」
●「左翼陣営の方はどういう構成だったの?」
▼「6割は女性かな、若いものもちらほらって感じ。老若はわりとバランスとれていたように思う。一方、右翼は若すぎるって感じ。いや、若いものしか表に出れないのか。あと、集会でレクチャーしていたのはすべて女性。反天デモは歴史的に女性が維持してきたんじゃないか。」
●「それは驚きね。」
▼「あっ、ぼくばっかり喋っているね。失礼。最近のトピックは何ですか?」
●「そうね、渋谷にロクシタンカフェ第一号店ができたことくらいかしら。」
▼「ロクシタンって何?」
●「プロヴァンスコンセプトってここ20年くらいずっと流行の一つになっているとは思うんだけど。まあロクシタンプロヴァンスの調香師がつくった香水専門店ってとこかな。」
▼「へえ、どこがいいのかな。」
●「まあ、これもエコブームの流れでプロモートしてるんじゃなかろうか。けど、けっこうセンスがいいのは確かで、なおかつすべての化粧品パッケージには点字が刻印されている、つまりPCもおさえているってことよね。1回だけカフェに行ったけどボーイっつーか、厨房にいたのが超男前なんだわ!これが。」
▼「へえ、ま、日本人、というか芸術家のプロヴァンスコンプレックスっていうのは面白いね。セザンヌプロヴァンス生まれでパリに出てきてまた戻った。ゴッホは最終的にヴァンスで死んだんだっけ。晩年のマティスもヴァンス。ゴダールは南仏の光は私には強すぎるって言ってたけど。」
●「私なんかマルセルパニョル監督の『マルセルのお城』とかそのへんのユルユルお子様ヴァンス映画が好きなんだけど。まあ80年代のサザビーとかアフタヌーンティー、あのへんがヴィレッジグリーンのコンセプトでやりだしたじゃない。その経緯をちゃんとふんでるのかな、ロクシタンは。」
▼「それにしてもキンクスのアルバム『ヴィレッジグリーン・プリザヴェーション・ソサエティ』(1968年11月22日リリース)は早かったって思うな。プリザベーションは「保存」っていう意味。このアルバムコンセプトを日本人は40年遅れで追っかけているって感じがするな。フェアポート・コンベンションも最近になってやっといいかな、とは思うけど。ま、2004年の8月に『ヴィレッジグリーン』の3枚組のデラックスエディションが発売されていて、それにしか入っていないトラックがまたいいのよ。『Rosemary Rose』とか『Lavender Hill』とかほんとにいい。とろけちゃいそう〜。しかしEROSがROSEのアナグラムだったとは!!」
●「当時のレイ・デイヴィスに抱かれたい!って思うな。」
▼「いや、機会があればマジ、おれも抱いてほしい。」
●「プロヴァンスにはOCC地方ってのがあってOCC語っていう方言がある。<L`OCCITANNE>ももちろんこのOCCからきていて、病に伏したニーチェが移動に移動を重ねてたどりついて絶賛した土地なの。ドライ&サンディな土地でなおかつ水水しい。」
▼「あと、ロクシタニー闘争と呼ばれるわりとでかい農民一揆もあったらしい。」
●「へえ、プロヴァンスと農民一揆ですか。資本主義的イメージでは結びつかないけど。」
▼「三里塚闘争とロクシタニー闘争をなんとか並列して映画のネタにしたいところだな。そうすると結びつく。」
●「結び屋ね!」
▼「結ばれ上手は結び上手。全然次元のちがう話だけど、しかし今のぼくほど結ばれ嫌悪はいないよ。気がついたらずっと一人でいるって感じだ。一人でいるのが大好きなんだってますます思ってきた。ネットで他人のウェブログを見ることもすっかりなくなったしね。まあ東京は人が多いし、それだけ人の有り難みがない。だから結局一人がいいってなる。これは危険だけど、そうしないと人の有り難みがなくなる。人の有り難みを前提すると一人になる。有り難みなんてどうでもいいよってなると群れたがる人がマジョリティーになって、つまらなくなる。わかるかな?」
●「一種の背理なんでしょう。」
▼「もちろんデモンストレーションのように群れる力ってのはあるし、都市社会における潜在的資本力は群れることによって醸成されるだろう、けど、絶対的に孤立を守るっていう現実があってはじめて人とのお付き合いがあるっていう状況にはますますなってきているような気がするな。」
●「ネット嫌悪っていうのはそろそろ広汎化しているのかもしれないね。ネット繋いでいる即みんなと群れてるっていう即自存在的、かつ自意識過剰的次元はあると思うな。やっぱり切断、断絶してスカッと距離を置きたいっていうのはあるってことか。現行のプロバイダシステムが変わらない限り、国家=ネットに繋がれているっていう意識は拭えないかもね。」
▼「別に全面否定するわけじゃないけど、たんに2時間ネットやっているよりも屋外に出て、それこそ調布のヴィレッジグリーンに囲まれて2時間お酒を呑んでいる方がはるかに豊かだし、結果的に情報量も多いような気がするな。」
●「出た。アルコール中毒恐怖症。」
▼「いや、もうとっくに中毒だよ。特に3月4月5月はひどかったな。アルが切れたらすぐ呑んでたもんな。ほとんどガソリンみたいなもんですわ。ジャックダニエルをブラックコーヒーで割って、胃が相当荒れるんだけど、これがまたうまい。そばにおいしそうなシュークリームを置いて、それをすごいじろじろ見ながら呑む。そんな時に大昔に買ったドゥルーズの『意味の論理学』(1969)をパラパラ読みかえしていたら「磁器と火山」っていうテクストがあってこれがまた感動的なんだ。スコット・フィッツジェラルドのエッセイ『崩壊』冒頭部からの引用、<もちろん、われわれの生は崩壊のプロセスに他ならない>からはじまって、なぜフィッツジェラルドは冒頭に<もちろん>、とつけるのか、という指摘につづき、過去の断片の形骸化、いわば、磁器のひび割れのような硬直化したものの裂け目こそが、アル中の本質なのだ、そうして酒精ととも新たな断片がつくられるだろう、古い断片は新しい断片としてよみがえるだろう、とか言う。お酒呑むという行為は過去の嫌な思い出やその日の嫌なことを忘れるためにあるんじゃなくて、そういったネガティブな断片の記憶をよりいっそう強化させるためにある。つまりポジティブに言い換えると過去ー歴史にたいして真正面から向き合う一種の天使的な力学が飲酒行為それ自体にともなっているとも言えるんじゃないか。」
●「と、自分に言い聞かせている。」
▼「幸か不幸か強力な天使信仰みたいなものかもしれないね。」
●「メランコリーの意図的な生成道具と言ってもいいんじゃないかしら。ベンヤミンがたしか『ボードレール』の中で言ってたけど近代人っていうのは恒常的破局としてのスプリーン(憂鬱)っていうのが身体的に先読みされていて、それを踏まえて言うと、アルコールはスプリーンを中和化しつつ真のカタストロフの到来をじわじわと先送りさせているってことになるかもしれないね。まあ実際、ドゥルーズもこの本はウィスキーを浴びるほど呑みながら書いたらしいわよ。」
▼「実際アルコールはエフェクトだと思うよ。なんらかの同心円的な効果を狙えることが前提されていて、理性と非理性っていう二元論的認識を超えた絶対的に肯定的な光があらわれる。これは毎回毎回あらわれるんじゃなくて、天候や身体のコンディションに規定されていて、半年に一回くらいしかあらわれない超貴重なヴィジョンなんだ。まあ、なるべく天気のいい日の屋外でいかにもセレモニカルに呑んでいるからかもしれないけどね。自己の断片化、分裂化を促進するのもアルコールだけど、逆説的に同心円的/中観哲学的ヴィジョンに回帰させるっていう超越的同一化の作用もある。」
●「半年に一回だけ自己に戻れるってことかい?」
▼「自己回帰なんて半年に一回でいい。いいフレーズじゃない。」
●「あとはどうなるの?」
▼「身体ってどこまでいってもなにかからの借り物で、それを請け負っているのがたまたま今、ここっていう時空を認識させている何か・・・しかも気付いたときにしか身体はあらわれないしね。背中かゆ!!とか痛!とかそういう瞬間。肉体の声を聞く時には既に肉体の音が鳴っていて、その瞬間にしか肉体はあらわれない。しかしニーチェの説いたアポロンに対するディオニッソスの優位ってのも、ようはアルコール礼賛なわけか?」
●「『この人を見よ』を読めばわかるけどニーチェは「酒は私を泥沼に導く」なんて言ってるよ。水、とくに広場のわき水なんかを自前のコップでくんで飲むというスタイルが好きだったみたい。」
▼「さっきの人害の話に戻るけど、対人性とか人称性とかすごく鬱陶しく思う瞬間って多々ある。」
●「うーん、どういうことかしら。」
▼「たまたま人間は直立して二足で立ったり歩いたりするでしょ。ようするに目と目が同一の平行線をたどるように自然になっている。手首を見ながら話す自由とか耳たぶ見ながら話す自由ってほとんどないんだよ。」
●「そんなこと考えてるの君だけだよ。」
▼「そうかね。ともかく東京の過剰な人ゴミってたんに鬱陶しいでしょ。まあこう言うぼくも鬱陶しがられてるのを踏まえていうと、人称性や人称的な世界とは何か、とか、顔とは何か、あるいは顔を見ないこととは何かっていう問題設定が生活の技術としてあって、「今日は誰とも目をあわさない、しかし、それはどうやって実現できるのだろう?」とかそういう問題に憑かれてしまっている瞬間って断続的にあるんだな。おっさんと目があってしまったー!ひゃー!、とか言って、ほんとに人と目をあわさないって難しいと思うんだ。」
●「東京でもちょっと離れたらひどい田舎が待っていて、やはりこの落差がどうしようもないと思うのよね。千葉の銚子線なんて廃線寸前らしいし。」
▼「話ズレまくるけど、グローバリズムって空港がなかったら唯物論的になりたたない、という意味で反グローバリズムは成田の三里塚闘争に再注目すべきなんだよ。空港建設反対運動のドキュメントをあつかった資料館が建ったらしいけど、今なお、反対運動は続いているって聞くよ。」
●「やはり逆説的に言うと、三里塚闘争の指導者であった大木よねと戸村一作の存在なしには今の東京はありえない、イームズの椅子もバウハウス展もありえないってことかな。」
▼「ちょっと、つっこんで考えてみたいところだね。」
●「人称性のことに関して言うと、最近になって神学をおさらいしようと思っているんだけど、日本の場合、神っていう言い方と神様っていう言い方あるでしょ。神様っていうふうに様をつけたら人称性の表現になるじゃない。英語で言えばMr,GOD になるのかな。これってほんとにおかしいと思うわけね。俗に<あの人はまるで神様のような人だ>って言うでしょ。っていうのはわたしは神ってスピノザ的な意味で観念そのもののことだと思ってるからなんだよ。観念論じゃなくて物質としての観念。」
▼「うーん、難しいな。僕はまあ簡潔に言えば、現世を突き動かしているものと突き動かされている現世とのわずかなズレだって思うな。ほんとは超越性とかじゃなくてありふれたものだと思うよ。」
●「そっちの方が難しいわよ。」
▼「そうかね。おや?とか、え?とか、はて?とかそういう瞬間あるでしょ。そういう何かをズラされた時にああ、こりゃ神だなって思う時はある。」
●「キャラメルコーンに入っているはずのピーナッツが入ってない!おや?とか?」
▼「うーん、そうじゃないな。いや、そうかもしれないな。でも、確実に言えるのは、<やばい!靴下に穴開いてる!>に、<おや?靴下に穴が開いたかな?>が先行している。話変わるけど最近映画の方は?」
●「そうね、見てないな。あなたは?」
▼「ぼくもまったくに超がつくほど見てないな。正月あたりだったかに『ベティ・ペイジ』っていうボンデージファッションのグラビアアイドルを扱った映画を見たくらいか。」
●「どうだった?」
▼「すごくつまらなかったな。こんなにつまらないものがなぜこの世にあるのかっていうくらいつまらなかった。そのつまらなさがなぜつまらないかを考えているとますますつまらなくなって、この強力なつまらなさは一体なんだろうかって考えていると、ついに冷蔵庫のことを英語でクールなんとかじゃなくて、リフリジェレーターっていうことを思いだしたな。正月の渋谷のスペイン坂で。しかし、もう、ああ、まあ、ああいった旧来的な映画は旧来的な映画としてしか見れないし、絶望するまでもなくぼくには必要ないんだっていうことを再々再々再々再々確認しただけのことだよ。まあこういうのを見てしまうともう映画見るのやーんぴ!ってなるんだな。あっ、あと『回想のウィトゲンシュタイン』のニューヴァージョンを見たな。」
●「出た!岡崎乾二郎。それは私も行ったわよ。」
▼「四月四日四谷で。444のぞろ目。四谷シモンは来てなかったのか?」
●「上映始まってすぐ地震が起きたのよね。けっこうでかかったんじゃない。」
▼「それも震度4だったらすごいな。」
●「『回想』は以前にも見たんでしょ?」
▼「そうそう、いつだったかな、10年くらい前だよ。かんたんな感想を以前やっていたウェブサイト<IMAGON 1>にアップロードしていたと思うんだけど、その時使っていたG4cubeが押し入れの中にあって、チェックしてみればわかるんだけどなー。」
●「今回のはどうだった?」
▼「君はどうだったのよ。」
●「岡崎乾二郎もますますポップ化してきたって思ったわ。」
▼「そうね、初回ヴァージョンよりもポップだったな。つまらない言い方だけど映画的になっていた。」
●「へえ、やはり初回の方が前衛的実験的だってこと?」
▼「最初のシーンが首都高かどこか移動中の車から見たビル群の移動撮影なんだけど、おっ、映画だなって思ったな。あの手応えは初回にはなかったような。全体的に映像、文字、平面グラフィック、オブジェ、引用画像くらいのセリーで成り立っているのは前回と変わらないんだけど色彩感とかオブジェがやたらにポップだった。」
●「前回ではどういう感想文書いたのかしら???????」
▼「覚えているのはコーヒーカップからコーヒーが溢れるシーンなんだけど、そこがやたらにエロティックだったってことを書いたな。」
●「そのシーンはあった?」
▼「いや、あるかと思ってたんだけど、とうとうなかったな。お好み焼きの上を優雅にゆらめく鰹節のショットもカットされていた。」
●「ウィトゲンシュタインのお面を被った人がなにやら暴発的に動き出すシーンがあったんだけど、あれがクライマックスなのかなって感じたわ。」
▼「喧嘩して暴れてるんだか、たんに怒り狂っているんだか、なんだかわからないけど一人ですごい勢いで暴れているところがバサバサと編集されている。」
●「ハ〜ドタイム♪ハ〜ドタイム♪なんとかかんとかノーモアー♪っていう曲が流れるところ。あの曲は矢野顕子がカヴァーしていたのを覚えているわ。」
▼「あのシーンがすごくやはり浮いているんだけど、映画的に自律しているんだよな。あそこだけで感動させる力がある、と言えば誉め過ぎかな。」
●「君の言う前ヴァージョンのコーヒーカップのシーンと対応しているんじゃないかな?」
▼「そうかもしれないね。前回はコーヒーカップのシーンがクライマックスだった。と。」
●「別映画の引用の画面かな。録画世界はなんとかかんとかって言っていた眼鏡のおっさんは誰かしら?」
▼「ウィリアム・バロウズ。前衛SF冒険小説や同性愛小説書いていた人で、あの映像はバロウズのドキュメンタリーから引用したもの。「すべては録画しうる。だが、録画そのものは録画できない」っていう逆説をまさに引用画像を撮影(録画)したものを使って言っているんだね、これもウィトゲンシュタインの『トラクテータス』(論理哲学論考)で触れていた映像(写像)論をパラフレーズしたものだったんじゃないかな。」
●「ああ、バロウズってたしか10年前くらいに死んだ人ね。」
▼「そうそう、同じ日にポルノ映画女優の一条さゆりも昇天してね、新聞にバロウズと隣り合わせに掲載されていてすごいびっくりしたな。一条さゆりって、絵沢萌子なんかとならんでポルノ映画の中では傑作って言われている映画、例えば『○秘色情牝市場』なんかに出演してる重鎮だったんだ。神代辰巳や田中昇の映画にけっこう出ていたんじゃないか。晩年は大阪の釜ヶ崎で日雇い労働者を相手に小さなバーを経営していたらしい。そんじょそこいらにはいない、バロウズ的なハードな世界を生きてきた女優だったんだ。」
●「それはそうと、その引用された映画はそもそも何なの?」
▼「あれは生前のバロウズの私生活を追っかけたドキュメンタリーでギンズバーグなんかも出てきた。バロウズが部屋でシーツを変えるところや、窓際につったって「15分前にはあそこに車が停車してあったが、今はもうない。これこそがカットアップだ」、なんておおまじめな顔で言っていたような。あと、バロウズとブライオン・ガイシン、っていうシュールレアリストの末裔が共作で作った『TOWERS OPEN FIRE』っていう映画があって、4話のオムニバスなんだけど、これは実験劇映画としてはホントに素晴らしいよ。哲学者のドゥルーズとその奥さんであるファニー・ドゥルーズが指摘していたカットアップならぬピックアップっていう概念がある(たしか『ドゥルーズの思想』という本で読める)んだけど、それを体現している唯一の映画だなって思うな。」
●「君もけっこうバロウズには影響受けたって言ってなかったっけ。」
▼「そうね、ドラッグ中毒とか妻の射殺事件とか以前にやはり頭のいい人だと思うし、<サティ→ケージ→デュシャン高橋悠治>的な意味で「認識が創作に先行する(べきである)」っていうエティカを抱えた極めて誠実にして特異な人だったと思うな。そういう意味でビートニクというくくりからは大きくはみ出す人ではある。特に中期、『ノヴァ・エクスプレス』あたりの<言語=ウィルス説>は、それがいかに思考実験的であるにせよ刺激を受けたよ。」
●「『回想のウィトゲンシュタイン』もあのバロウズのシーンがなければ、ちょっと弛緩していたかもしれないね。」
▼「そうだね。最近音楽はどんなの聞いてるの?」
●「うーん、なんとなく買ったのは昔聞いていたスティーブ・ライヒの『octet』その他2曲入りのやつ。あんまし聞いてないけど。」
▼「美術家のdonald juddに関する興味も手伝ってか、ぼくもなんだかミニマリズムには再注目していて、やはりjuddってのは初期の版画なしには語れない。ライヒは今聞くと何の新しさもないんだけど、耳が耳に回帰するっていう耳の訓育的な媒介装置としてポツン、と生活のそばに存在している、という感じかな。
●「あっ、それわかるな、音楽聴取にありがちな<ノル>という所作ではなく<キク>という所作が前面化されるのよね。しかも聞いていることが居心地いいからね。ライヒって。」
▼「近年はやたらにアーバニックエコロジー的なジジクサイ作品ばかり作っているようで昔のライヒと比べるとかなりつまらなくなった。世代は若干ちがうだろうけどジョン・ゾーンが新しいユニットをやっていて、小規模なアンサンブルでクラシックのフレーズを多様したけっこうアヴァンギャルドな音楽をやっているらしい。ゾーンが指揮者を努めているらしくけっこう面白そうだよ。しかしエレジーっていうアルバムどこいったんだろな。全然売っていない。」
●「ああ、ジャケットにジュネの泥棒日記の冒頭のフレーズがプリントしてあるやつね。徒刑囚の服はバラ色に染まったんだかなんだか、そんなフレーズ。それはそうと渋谷のLOFT前でいついってもそれこそ反復して鳴っているミニマルミュージックもライヒ的なものを感じるな。」
▼「むかしは、あそこにWAVE入っていたんだけどな。それはそうと辻井喬が土曜日の夕刊の読売新聞で連載している『叙情と闘争』は読んでる?」
●「読んでない。」
▼「ぜんぶは読んでないけど、真のブルジョアってのも大変だなって思うよ。池袋の西武が火事になった時のこととか、永田町の議員との付き合いとか、とにかくなんの虚飾もなしにひたすら淡々と書かれているという印象をもつ。べつに回顧するわけじゃないけど、ぼくは80年代の西武文化がほんとに好きだったんだなってひたすら思うな。」
●「君の好きなくるりの新作は?」
▼「ライブ版?あれはすごく良かったよ!前作の『ワルツを踊れ』は今思うと、やはりセンチメンタルに過ぎるんじゃないか。ライブ版は横浜版と京都版の2枚組セットなんだけど、京都版の一曲目にはいっている夜行列車に飛び乗れ〜♪ララライ♪あの曲はいい。2008年のポップスはあれだけでいい。「ウィ〜」って言う酒に酔っぱらっているようなフレーズもあってそこがすごく好き。ウィ〜。プハー!ムニャ〜。プカー!みたいな。あと、くるりって真ん中に<る>があるからかどうかしらないけど、<る>の発音が特徴的だな。<る!>って一応軽快な音を出した上で<る〜u >って巻き舌になって結果、咽喉で<ru>を発声して最終的に<m>か<n>に至るパターン。このパターンはよくあらわれてるな。」
●「なんか、岸田くんってやっぱりダサ可愛かっこいいから好きっていう人は多いみたいね。お肌を白くして頭に外付けハードディスクを設置して膨大な知識をつめこむと浅田彰、にならないか。」
▼「ぼくは身長177あるんだけど、背が低い人をうらやましいと思う傾向があって、それは誰かと言うと<ニーチェ浅田彰岸田繁>なんですわ。」
●「そうなんですか?」
▼「そうなんですわ。背が高いって見栄えは多少いいかもしれないけど、実はぜんぜん合理的ではないし、直立二足歩行人としては効率悪いような気がするな。物理的にフラフラしがちだしね。」
●「リップでサーヴィスすると岸田繁はJpop界におけるニーチェかもしれないね。思想うんぬんじゃなく、やっていることのアティチュードがね。」
▼「アティチュード!?ぼくも暇にまかせてギター弾いたりするけど、くるりの曲ってまず陰影に富んでいてそこがいいんだな。なんて言うと、文学的になっちゃうけど、散文としてのテクスチャー、音の織物っていう次元は維持していると思う。手触りがいい音とかってあるでしょ?」
●「ドゥルッティコラムの新作かな、頭に傘をくっつけて、川べりで釣りをしているおっさんのジャケットにつられて買ったんだけど、『KEEP BREATHING』っていうアルバムがあるの。ドゥルッティコラムって、昔はよく聞いていたけど、あんまし変わってないのが素晴らしいと思ったな。それはやはり音でも音楽でもなくて、音の織物、音の手触りっていう次元を相手にしているからなんだと思うな。」
▼「そう、音Aの次に音Bを時間的に聞いているんだけど、音Aの響きと音Bの響きの交差平面を同時に聞いているっていうか、そんな聞き方ができるんだね。交差平面がいわばテクスチャーとして自律している。くるりにしても『りんご飴』なんて二十歳そこそこでよくあれだけの曲できたなって感服しますもん。」
●「岸田くんの詩って忘却、忘れてしまったことに対する感性ってすごくあるじゃない、あれ?リンゴ飴ってこんな味やっけ?ジンジャーエールってこんな味やっけ?って忘却と記憶のズレをフレージングすると、時間性に厚みが出て面白い。」
▼「この曲も音そのものじゃなくて音の響き、音の響きの交差平面っていうか、その平面の即物性を問題にしている。Jpopをたくさん聞いているわけじゃないし、もはやまったく聞かないけど、すぐれた楽曲って和音からやはりはみ出す要素ってあるでしょ。『ワルツを踊れ』は和音の強さで成り立っていて、ナイーヴに言うと、『ブレーメン』とか、感動的なメロディなんだけど、楽曲としてはいささか陰影に乏しい。ま、しかし、繊細さと野蛮さの同居、軽薄さと過激さの同居って、言葉で言うと簡単だけど、くるりってそれだけにツッコンでいるっていう潔さは感じられるな。売れなきゃいかん!ていうオブセッションがなければもっと多様な音楽やっていけると思うよ。」
●「わたしの統計的経験で言うと、くるりファンってなぜかいい人多いし、面白い人も多い。ただ、幼稚園〜小学校以来和音教育にどっぷり浸っていた現代人だからこそ、聞きうるっていう限界があるにはある。」
▼「そうね、ぼくも5才から10才くらいまで、恥ずかしながらも姉とその他の女の子に囲まれてピアノとエレクトーンやっていたけど、その時点で和音による情操教育から抜けきれないんだな。もっとも単純なスリーコード、CとFとGはなぜ親和性があるかって考えだすと、ほんとは理解不可能なくらい複雑なんだと思うんだけどな。先生はそんなこと教えてくれないしね。」
●「そうそう、そういえば作曲家の高橋悠治が訳したホセ・マサダの『ドローンとメロディ』っていう本を興味本位で目を通したんだけど、わけわかんないの。一言で言えばドローンとメロディは同じなんだってテーゼが展開されているんだろうけど、ドローンっていう概念もマイナー概念だからついていけないとこがあって・・・」
▼「高橋悠治と言えばジョン・ケージ(1912-1992)のプリペアド・ピアノ聞きなおしたよ。正確には『プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード』(1946-1948)。この曲は、えらいお坊さんなのかな、ヒンズー哲学者のアナンダ・K・クーマラスワミっていう人の著書が作曲のきっかけになったらしい。」
●「あ、たしか悠治が水色のセーター着てるジャケットのやつね。」
▼「そうそう、あれはDENON版のクセナキスと違ってすごく聞きやすいんだけど、ピアノの打楽器性を強調しているのか、ちょっと和音っぽくもありながら、やはり和音から絶望的にはみだしているっていう音の出来事性の連鎖がいいんじゃないかしら。あと、高橋悠治矢野顕子の『BROOCH』で曲提供しているんだけど『はこ』とか傑作メロディだなって思うね。谷川俊太郎の詩の面白さと矢野顕子の天才的なはこに対する感情移入を体現した歌い方とかも手伝って、ほんと笑ってしまう。」
●「そうね、私は『BROOCH』は聞いてないけど、ケージの5曲目の第1インターリュードなんか、ほとんど打楽器としてのピアニズムを追求しているし、音のアレゴリーとして非常にユーモラスな感触はあったな。」
▼「岸田君もギターは打楽器だってどこかで言ってたな。」
●「高橋悠治っぽいこと言うけど、手がなにか、指がなにかってなると、触る、触れるっていう所作以上に、反らせる、叩く、トランプ(連打)する、なじませる、滑らせるとか、実に多様なことやっているっていう感じがする。その多様性において、<脳ー目>の不可知論性に対する、たえまない批判を<手ー耳>がおこなっていると思われる。」
▼「しかし、音楽制作に関して、これは重要だな、と、強調しておきたいのは12音音階、ありていに言うと白鍵と黒鍵を同等、というか等価に扱ったシェーンベルクなんだな。黒=マイナーに対して白=メジャーという二元論、もちろんメジャーコードを基底にした二元論なんだけど、それを解体しないことにはすべての調和は予定調和に過ぎない。そういえばジョン・ケージも若い頃はシェーンベルクの生徒だった。」
●「簡潔、かつ、えらそうににまとめたわね。しかし黒鍵だけで作曲するとなぜかアジアンポップスっぽくになるっていうのがまた不思議なんだけどな。YMOのファイアクラッカーみたいな。」
▼「あと、トルコの民族音楽がよかったな。ズルナという楽器が気になって聞いたんだけど、金属音の震動に持続強度を感じるわけ。この音聞くとすごくやる気でるんだよ。なぜか。」
●「へえ、どんな音なのか想像できないな。」
▼「すごく高いチャルメラの音を想像してもらえればいいかな。あと聞いているかどうかわからないけどストーンズのbrian jonesがモロッコに行って録音したjoujoukaにもズルナが使われていたと思うよ。」 
●「ああ、バロウズの盟友でもあったブライオン・ガイシンがライナーノーツ書いてたやつね。」
▼「そうそう、ズルナの音階は理論上可能な微小音階でなりたっている。半音の2倍の半音、つまり半々音くらいまでは聴取可能なんじゃないか。あと、そうなるとオクターヴっていう概念ももちろん変わってくるよね。」
●「民族楽器か、まだ未踏の地だな。それはそうとモダニズムの思考は最近どうなってる?」
▼「なんの文献的注釈もなしに言うと、最近思うのはモダニズムを定義する場合<衣食住>という概念であり実体である3つの系列こそが<生活を科学の対象にしたモダニズム>という意味で、もっとも平易でわかりやすい、という感じがするな。」
●「衣食住って普遍性なさそうであるもんなー。一週間着回しコーデとか、買いだめとかやはり合理的、近代的な考え方だしね。」
▼「生活が衣食住に三分割、三系列化されることこそが、ある種の合理主義の徹底であり、主要観念であり、大衆の関心事であった。それゆえに衣食住以外の観念を持ち得ることができ、その余白において、ひいては芸術が芸術として自律的に作動しはじめた、って、ちょっといい加減な言い方だけど。まあ、実際は、朝起きてそのへんにころがっている服を手に取って、またこれかいなー。ちょっとやばいなー。なんて言いつつ着てることが多いんだけどね。クラフトワークのメンバーとかは一週間着回しコーデをちゃんと実践してたんじゃないか。ゴダールとかは絶対テキトー。」
●「系列っていうのは数学の概念用語でもあるしね。生活の科学化、数値化っていいうのはその他の領域を規範化しにかかるってことか。『回想のウィトゲンシュタイン』に話を戻すと、あらゆる映画は系列化しうる潜在性を持つんだけどそれが自然にできてしまうがゆえに、おそらくコンピュータの頭脳レベルでできてしまうがゆえに、系列の中にどうやって非−系列的な要素をもちこむかが問題にされなきゃならない、という至上命題を作者は抱えているんじゃなかろうかって思うんだよな。系列は非−系列を前提しているし、逆もまた可だってことだ。」
▼「系列化っていうのはある種の暴力的な抽象化の一端で、系列そのものを知覚することはできないにもかかわらず、画面に映っているXを見ることは系列化の帰結としてのXを見ているってことになる。この話に関係あるかどうかはともかく、撮影することは撮影された場所とそうでない場所を確実に分割してしまうでしょ。この世には撮影された場所のセリーが必ず存在しているし、ゆえに撮影されていない場所のセリーが存在する。ひるがえって撮影スタジオはスタジオ内撮影という同一セリーを保証してしまう。ちょっと前の話かな、今もやってるんだと思うけど、近年の都内におけるカラス大量虐殺の張本人である石原慎太郎が東京で撮影するに際してのロケーションを提供する政策を試みていたでしょ。地方の小都市やなんかでもやっているとは思うんだけど、そこで否応なしに発生するバイアスっていうのは、ロケーションセリーの複雑化、超複雑化ではなく、形骸化、固定化、単一イメージ化であって、その勢いはものすごいと思うんだな。ようするにクリシェがなぜクリシェたりうるのかっていう根拠にもなっている。クリシェに回収される磁場って映画制作が一番強い気がするな。もはや絶対的に新鮮な場所、新しい場所、ひいては新しい映画の方向はないってのを前提にしているわけでもないんだろうけど、空間は時間、それも過去軸にとって変わられるというのが、東京タワーのおかんだか三丁目の夕陽だかなんだか知らないけれど、ここ最近のレトロスペクティヴな姿勢をつくっているように思われるんだよ。ここにはボードレール的な意味でのモデルニテ/モダニズムって絶対的に現れないしむしろ、いくら最新CG技術を使っているにせよ、排除してゆく方向になる。」
●「新しいものを生み出す気力も体力も、想像力も能力もないし、ゆえに、まあしばらくは昭和レトロでいきましょうや、っていうおぞましい共同体的感性の呪縛に文化がさらわれつづけてるっていう構図かな。これもまた強化反復しつづけている。」
▼「そうそう現代とは<ポストヒストリカル>な状況なんだっていう暗黙の了解がある限り、かつての高橋悠治がやった音楽の数理化と反数理化や、柄谷行人の『隠喩としての建築』が試みた思考なり実践をどう受け継ぐかっていうのがもっともアクチュアルな問題としてあるんじゃないか。これを通過しない限り、何やってもダメっていう気がするな。世界はスティーブジョブスやビルゲイツっていう釈迦の手のひらで文学的にコロコロ踊らされているっていうかね。」
●「イデオロギーなき闘争なんてありえないし、なんだかんだいって言葉=言語こそがもっともデジタルなメディウムなんだっていう認識において、言葉をマクシマムに酷使してしまえばいい。」
▼「そういえば2008年前期の画期的なことと言えば他でもない高橋悠治の『水牛楽団のできるまで』(1980)を読んだことなんだ。古本屋にもネット上にもないから図書館で借りてきた。通読して思うのは、やはり現在の日本の音楽家、ミュージシャンの中ではまったくもって凄いってことなんだ。くるりの岸田くんもリスペクトするけど、高橋悠治は彼の6、25倍は凄い。」
●「6、25!どういう計算方法なんだ?」
▼「作曲の素晴らしさとかピアノの上手さとかはぼくは素人なんで語るにおちるけど、文章がうっとりするほど上手だし、ぼくも20代の半ばの話だけどナーガルジュナの空論を引用した『音楽のおしえ』っていうタイトルの短編を撮ったくらいで、高橋悠治の文体を映画化することに無心していた時期があったくらいなんだよ。1994年あたりに撮った『すてきな他人』っていう8mm、このタイトルは富岡多恵子の詩から借りてきたもので、映画の中ではパウル・ツェランの詩を読んだりしているんだけど、カメラワークとモンタージュ高橋悠治の文体なんですよ!、で、水牛楽団がやってきた第三世界の闘争歌の収集って、結局、音楽学者の小泉文夫以外、ミュージシャンでは彼一人しか誰もやっていないんじゃないかって思える。演奏する必要がなくなったらそういうことをやる。コンサートホールに飽きたら地方でもどこでも言って、集会で演奏する。このきわめてエッセンシャルな身軽さは、誰にも真似できない、真似しようがないことだったんじゃないか。」
●「水牛楽団三里塚関係の集会やイベントに参加してたんでしょ?」
▼「そうそう。別の本だけど、三里塚をドキュメントした映画作家小川紳介の批判をしている、具体的には農民に対する照明の当て方、あれは警察の尋問と同じやり方なんじゃないかって批判しているんだけど、こういうことをポロっと言うところに、また迫力がある。サティやケージ、クセナキスの演奏がどうのこの、と言うのもいいけど、やはり水牛楽団期の高橋悠治なしには高橋悠治は語れない、という思いがますますするな。音楽家でもない、運動家でもない、私は一個の超単独者でしかない、いや、超単独者ですらない、というフリーズ状態を維持しながら、当時の彼は自然にそういうふうにあったんだと思う。これはほんとに感動的、冷却保存すべき貴重な本だよ。もちろん本だけじゃなくて、高橋悠治は演奏も、例えばバッハのゴールドベルク変奏曲とかやはり、インパクトがあるんだよ。なんというか、変拍子とまではいかないけど、耳にすごくひっかかる弾き方をしていて、なめらかにメロディを追えないようになっている。すごく捻くれてんの。グールドの流麗な演奏にいくぶん引っかき傷つけました、みないな。あれはマジでイノベーショナルな煌めきがあったな。」
●「それはそうと、映画制作の方は続行するのかい?」
▼「まあ、上映を決めてないし、やりたい時にやっているのが現実で、以前にもましてそんなにしゃりかき、じゃないや、しゃかりきにはなってないな。いろいろ声かけて待たせてる人もいるにはいるし、それはそれでたいへん申し訳ないんだけど。まあ、撮りたいものっていうのは直観的にたくさん出てくるし、それをいかにして制作プログラムにあてはめていくかっていう方法論に変化しつつある。今は3本同時進行しているんだけど、このくらいがちょうどいいってなってきた。一本一本線形的にやっていくのはどうも性にあわないな。」
●「あープッチンプリン食べたくなってきたわ!!」
▼「もう、ぼくがやっていることはちょこっと図書館で働いてあとはお酒呑んでいることだけなんだ!!そう言い切りたいところなんだけど、そうはいかない。それよりか腹が痛い。この梅雨時はやはり古傷が身にしみるよね。」
●「わたしは無傷だから大丈夫よ。」
▼「きたない話だけど、もう梅雨時から夏にかけての腹痛っていうかゲリがひどいんですわ。ピーピーピー状態で頭の中は超高速新幹線が往復しまくっているよ。」
●「マジメ話っすか?」
▼「そうなの。0才の時にメッケル休室炎っていうドイツのメッケル博士が発見したという12指腸関係の奇病をわずらっていて、九死に一生を得たんだよ。今はどうかしらないけど、当時は助かる確率が超低かった。で、脇腹に今は直径11センチくらいに立派に育ってくれた傷跡があって、梅雨時にそれがヒクヒクする。ついでに肛門もヒクヒクして超冷や汗もんなんですわ。これが。」
●「ヒッコリーヒップス!」
▼「ピーピーでぐったりして、ベッドの上で、ほんとにタクアンの漬け物を横にしたような状態でジョアン・ジルベルトの『三月の水』を静かな音で聞く。これがまたいいのよ。ああ、ウンコだせてよかったな。生きててよかったなって思える。」
●「にゃー。そういうのってちょっとうらやましいな。」
▼「それでは最後に2つ引用しておこう。まず最初にエイゼンシュテインさん。」



■「視覚的モンタージュの断片にたいして、対位法的に音を利用することだけが、モンタージュを発展させ、完成させる新しい可能性を提供する。音のある映画の最初の実験は、視覚的映像との「不一致」への方向にむけなければならない。こういう方法でやってみることだけが、所期の感動を生み出し、それが時とともに視覚映像と音響映像との新しいオーケストラ的対位法の創造へと導いていくことであろう。」(『エイゼンシュテイン』/レオン・ムシナック p.107 三一書房

●「それでは次にベンヤミンさん(が引用したブレヒトさん)。どうぞ!」

■「次の言葉を見ると、モードが支配階級の特定の関心を偽装としてどのような意味をもっているのかを知ることができる。
「支配者たちは、大きな変化に対しては強い反感を持っている。彼らは、すべてがそのままであってほしいと思っている。でなければ千年も月はいつまでも空にかかり、太陽も沈まないのが一番なのである。そうなれば誰も空腹にならないし、夕食をとる気にもならないだろう。彼らが鉄砲を奪っても、敵は撃ち返してはならない彼らの弾が最初の一発とならねばならないのである。」
ーーーベルトルト・ブレヒト「真実を書く際の5つの困難事」(『パサージュ論 1』ヴァルター・ベンヤミンp.136)




追記
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