「映画とモダニズム」についてのソフトな会話♪ その6

その6








▼「前回は、映画批評家でもなんでもないぼくが、小林秀雄のマイナーなテキストを引きながら映画批評に向き合うべき倫理的態度がいかなるべきであるかをちょっとだけ確認したつもりなんだけど、どうなんだろね?一本の作品と向き合うときって、映画を美学的な対象で見てしまうときと、娯楽的な対象で見てしまうときと、文学的な対象で見てしまうときと・・それらがごっちゃになっていたり・・やたらと観念的であったり・・・なかなか小林秀雄が言うようにはセンセーション―感覚の対象だけには収まりきらない図式があって、むしろその分裂した知覚体制を前提したほうがいいっていう気がしないでもない・・、これは容易に一般化できるわけではないけど、見る態度Aと見る態度Bが、共存しながらも背反するという過酷な非連続性の混在系。そして複数の態度がついに一致しないという不可逆性をセンセーション―その都度画面が与えている感覚が吸収しているっていうことになるのかな?」


●「というよりも、自動的にその都度の悟性に従いながら、見ているところをピックアップしているって感じ、同じ映画を見ていても、観客がある瞬間に何を見ているのかってのは本来的にはバラバラで、瞬時の感覚作用ってのはそのバラバラさ加減をある一点の場所に纏め上げさせる効果なんじゃないかしら。前回の繰り返しになるけど、一本の映画を見る前に、その映画の企画意図とかがやっぱりあるわけでしょ?で、その企画意図にのっとった形でプレゼンされると、その作品が一定のイマジナリーなレベルで予め調整される。その基準はなんら形式的な判断に準拠したものじゃなくて、むしろそれに背反するようにある種の理念・・伝統とか国民国家を強化してゆくものだと思うんだけど。しかし、現実的にはそんな都合のいい見方が行われているわけじゃない。にもかかわらず、理念やメッセージを離れてある感覚作用を感覚作用として認知せざるをえない。そして、その感覚作用が通常<出来事>と言われているものとどう関わっているのか。」


▼「以前パニック映画の話がでたでしょ?あれから考えたんだけど、パニックっていうのは崇高の効果でしょ?これは柄谷行人がよく言っていたことだけど、崇高っていうのはそもそもたんなる科学的な事象であるにもかかわらず、その事象から距離を置いて眺められるがゆえに、崇高として機能するっていうこと。で、パニック映画の売り方っていうのは、あらかじめ「これは崇高なんですよ」っていうプレゼンをすでに先取りして、内面化しているわけじゃない。で、へえ、どんなにすごいパニックなんだろうかって見に行って、それなりに巨大ハリケーンとか、大火災をさっさと消費できるわけじゃない。・・・しかしこれは小説的な映画でもあてはあまるわけ。」


●「そうね。古くはアリストテレスの『詩学』で触れられていたように、古代ギリシア時代の悲劇の効果っていうのは、集団の想像力の及びうる範囲で「劇」の輪郭を構成し、カタストロフィーによって観客の精神を浄化してやるっていう極めて集団儀式的なものだった。」


▼「そう。浄化作用と崇高ってのはわりと一致する。サーっと何かがひいてゆく感じかな。で、恋人たちのドロドロとか、やっぱり自分とは無関係なレベルにあるからそれを崇高の対象として見れるんだろし、消費できちゃう。演劇モデルの映画ってこういう崇高や浄化作用の期待とは裏腹な関係にある対象−内容への徹底的な無関心性とかかわっているのかもね。関心がないから安心して見に行ける。小説は一人で読んで一人で内面化したり、その内面化自体を繰り返し消費するわけだけど、映画はあたかも集団で消費できるかのような<みんなといっしょ>感が強化されている。だから<感覚作用−出来事>という捉え方も、集団的な無関心性に論理的に裏打ちされた共通感覚作用なのだとも言えるのかな?」


●「まあ、ハリケーンと恋人たちのドロドロが同一レベルの崇高にあるかどうかはともかく、無関心性っていうのは、個的にも集団的にも機能しているのかもね。どうにもこうにも現実的にうまくいっていないカップルが積極的にドロドロの恋愛映画を見に行かないものね。無関心性を裏側で誘発−開発するために、うまくいかないカップル、つまり、作為的に現状の退屈さから徹底的に距離化した文化人類学的なドラマが生産されたりする。そしてその再生産が、逆説的にうまくいくカップルをうまく生産する。「わたしたちあんなドロドロで悲惨じゃなくてよかたわねっ」て感じよね。・・・でもアルチュセール主義者の君にしてみれば、それはイデオロギーだってことになるんでしょ?」


▼「まあ、主義者ってほどではないけど、カップルの生産、結婚の生産、家族の生産、国家の生産っていうのは、連続しているわけで、国家はその連続の維持―固定化のために、あれこれ必死で国民を繋げようとがんばっているんだよ。言わずもがなNHKのドラマに代表されるようなね。で、そのイデオロギーの再生産のために、映画も一役かっているってこと。もうそろそろネーション・ステイト・テレビドラマなんてなくなってきているだろうと思って、こないだテレビ見てたんだけど、まだやっているね。ネタをあれこれ変えつつ。最近のテレビドラマは自然を自然らしく見せるのに必死だなあっていう印象をもった。で、即断して言うと、例えば1920年代のドイツ映画にしたって、資本経済の破綻で都市生活者が疲れきっているっていう現実があってはじめて、ゲッベルスを筆頭とするナチス・ドイツ宣伝部は山岳映画を撮る、アーノルド・ファンク監督に撮らせるわけじゃない。山岳映画(ファンク映画)っていうのは今でいうワンダーフォーゲルを賞賛する、一見、自然回帰をイデオロギーとして謳っているジャンルなんだけど、実際的には自然回帰してもらっては困るので、自然感覚を映画で楽しんでもらいつつ、都市生活者を都市に縛り付けて、資本の生産力を上げるような仕掛けを内在化している。山−自然が後景にあるだけで、前景は大衆が喜ぶ通俗的な恋愛劇になっててね。中景にあるのが、山登りするっていう肉体主義。ようするにドイツ国民よ!がんばれ!っていうメッセージなの。」


●「今の話は日本にも言えるかもね。けど、一般論として今は階級の二極分化がすすんでいるってことだから、映画も二極分化するってことになるのかしら?」


▼「文化的なレベルでどうこうって話になると、ちょっと先が読めないけどね。今でも二極分化とは言えないまでも十分空中分解しているのかもよ。ウェブで垂れ流される映画が映画として認められうるとは現時点では思わないけど、ネットワークが下部構造を支えつつどんどんセクト化がすすんでいって、内輪もめがあって、そういう状況は相変わらず享楽できる環境があって、なんだかんだ維持される限り、映画Aと映画Bは永遠に一致しない。そしてみんなが個別に映画という概念を信じている限りにおいて、一致しない。しかし、一方で映画の概念が複数に分岐していって、大文字の映画だとみんなが信じ込んでいた悟性がいっそう懐疑に晒されている段階にはきているという気がしないでもない。「映画っちゅうもんは、こうでなきゃならんだろー」っていう人もずいぶん少なくなってきているような気がするな。こないだ見た青山真治監督の『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(2006)でもそうだったし、それ以前にはスティーブン・スピルバーグ監督が『プライベート・ライアン』(1998)を撮ったあたりからそれ、大文字の映画の同一的規定にあらわれる「歪み」を感じたんだけどね。あの抽象的な退屈さ、平板な銃撃戦の垂れ流しがいよいよいよウォホール的な退屈としてあらわれはじめ、映画を享受しようとする身体の抵抗値が退屈という苦痛を刻みながらどんどんエスカレートしてゆく。で、退屈が続くかぎりにおいて画面を見ている主体がいつまでたっても纏まらない感じ。あの茫洋とした表象を大文字の映画っていう概念で説明するべきではないと思ったな。」


●「それは君にとって絶望的なことなの?」


▼「むしろ希望的観測だよ。ここから新たな悟性、知性、感性を実践的にプログラムしなきゃならんだろう。でもぼくは大文字の映画をつくった人とその作品、日本映画で言えば、たとえば溝口健二監督であれ、川島雄三監督であれ、羽仁進監督であれ、批判的に肯定しながらでも、受け継ぐべきものはたくさんあるとは思うな。大文字の映画を全面的かつ前衛的なポーズで批判したところで、映画っていう概念をますます単一的に固定してしまうだけなんだよ。」


●「まあ、作品をリストアップして検証していくのがいいわよ。」


▼「そうだね。」


●「ちょっと話がずれるけれど、今までの君の話の流れだと、ようするに批判の方法を批判していかなきゃダメってことでしょ?だったら美学というジャンルに即して言えばグリーンバーグっていう人がいるわね。」


▼「ハンバーグだったら知っているけど・・・グリーン・ハンバーグ、青汁みたいなものか?」


●「そうじゃなくって。」


▼「わかってるよ。ジャクソン・ポロックを最初に擁護した人だったっけ?」


●「それはともかく、彼がいっているのは、カントこそが最初のモダニストであるってこと。」


▼「カントか・・・ぼくの超苦手なカント。」


●「1960年に発表された『モダニズム絵画』、これ読んだ?」


▼「読んでない。」


●「じゃあ、これ貸してあげるから来週までに読んでらっしゃい。」


▼「は〜い。」