『映画とシュルレアリズム』





アド・キルーの『映画とシュルレアリズム』(1963)。神田の矢口書店で旧版がでていたのでもとめる。フィルムアート社から出ている新版では削除されている、その紹介文に吉田喜重(1933〜)がこんなコメントを寄せている。

映画には古典はなりたたないというのが、私の奇妙な、それでいて根強い「偏見」のひとつのなのだが、それというのも数多くあるブッキッシュな映画理論や映画史的な展開の著作は、無味乾燥な場合がほとんどであり、そのなかに解説されている映画の古典を見る機会にめぐまれても、私達を裏切ることの方がはるかに多いのだ。


吉田喜重はベラ・バラージュ(1884〜1949)の映画理論(代表的なのは『視覚的人間』(1922)などのことを言っているのだろうか?それとも篠田正浩(1931〜)を前にしたエイゼンシュタイン(1898〜1948)の映画理論のことを言っているのだろうか?判然としないところだが、映画理論がいともたやすく、映画体験そのものに裏切られるという言い方に含まれるのは、理論を前提しなくとも、映画は作られうるし、経験されうるという暗黙の共通了解を強化することをよしとする、この前提にもならない前提を無媒介に社会化することと同等であろう。


ロゴスはロゴスであり、映像は映像である。映像のロゴス(言語による思考)が映像の曖昧さ、とらえがたさ、うつろいやすさに回収されることをア・プリオリに前提するならば、ロゴスもまた、その一切が歴史を通過しないうつろいやすさに回収されることをも前提にされるべきだろう。この発言には氏が映像を我知らず、特権化している態度を(氏以外によっても、何度となく繰り返されている態度を)感じてしまう。吉田喜重は続けてこのように言う。

言葉による強靭な論理に支えられているのではなく、映画作家と観客とのあいだに介在する非常にあやふやな映像を武器にする限り、映画が確固としたひとつの評価を獲得するのは困難なことだと思う。フィルムのなかにすでに映画があるのではなく、それを見る人間のなかで、初めてそれは創造されるのだ。そして観客をとりまく状況に反映されやすい映画は、逆に言葉による定型化されたコミュニケーションを拒否し、観客自身を自由に解放することになる。


この発言にも奇妙な「逃げ」が見られる。まず「映像=あやふや」「言葉=強靭」はどのような根拠で言っているのだろうか?そして「映像=あやふや」なのだとすれば、なぜその「映像」と「あやふや」の関係性、論理的な成り立ちを少しでも考察しようとすることをよしとしないのだろうか?シュールレアリストたちが作った映画の可能性はもっと別のところにある。