勉強会ノート 2




3月7日に映像芸術理論の勉強会「IMAGON STUDIES vol.1」を予定していたのだが、祖母が逝去したため、しばらく帰京していた(享年91歳)。1週間遅れの14日、予定通り、皇居脇の一角で勉強会を行った。

私のファミリーネームのローマ字表記である「NOGAMI」を逆さまにすると「IMAGON」になることは10年以上前から気付いていたのだが、それが、映画を思考するにあたっての重要なアレゴリカルな記号(英語のIMAGE 及びラテン語のIMAGOに対する第三の<名辞―概念>といったところだ)として兆候を見せ始めたのは、2002年あたりに、ウェッブサイト「IMAGON 2」を開始した頃だった。(そして、IMAGOとIMAGEを関係づけたとたん、映画が精神分析のメタファー、つまりはユングフロイトの対立のメタファーに堕してしてしまうのを充分すぎるほど意識している、と言えば蛇足になるだろうか)。

さて、映画というメディウムがその特質において(他の芸術の諸ジャンルよりも)あまりにも雑多でありすぎるために「理論/論理」を嫌うという見解は、おそらくは間違っている。115年の歴史しか持たない、しかし20―21世紀において、なおも強力に影響力を誇っている「映像/音」の広汎的バロッキズムが、われわれのカラフルな世界をそれとして自足させ、肯定してやまない<生>を彩りつづけていることには変わりない。だからこそ、そのようなエンドレス/ボアダムな現状から一歩退きつつも、前線に立って(あるいは前線を見据えて)、来るべき真の「EXー映画」(映画の外部/外部としての映画)を夢見るだけの余白はあるはずだ、と断言しておこう。

ここでは多くを語るまい。ただ、簡潔な方向指示をあえてしておくならば、映画の特質、及び形態を考察するにあたって、<プレシネマ―ポストシネマ>なる概念を超越的に支えもっている「シネマ」という旧来的(あるいは復古的)なイデオロギーを超えて、それがフィクショナル/テンタティヴであっても、「シネマ」を超える論理機構を作動させる「概念」(カントの用語を借りるならば「超越論的概念」trancsendental concept)として「IMAGON」を打ち立てること、これがわれわれに課されている急務なのだ、とだけ言っておこう。私は少しも狂っていない。(2010-3-15)