美術ノート 2

imagon2010-02-25










■ ルノワール展 新国立美術館




気晴らし、あるいは気散じとしてルノワール展へ行った。「ルノワールへの旅」「身体表現」「花と装飾画」「ファッションとロココの伝統」と、4つのチャプターから構成されており、おおむね年代順に展示されていた。特別に感銘を受けたものはなかったが、「花と装飾画」のチャプター内、6点あった静物画の中のうちの2点「青いカップのある静物」(1900年頃)と「イチゴのある静物」(1914)に目を奪われた。僕の思い込みかもしれないが、ルノワール静物画においては人物画よりも対象に焦点が合っている(というよりも焦点が合っているので対象化されうる)。こと人物画においては写真技術で言う「ソフト・フォーカス」に近い、やわらかくぼんやりした感じになっているのだが、静物画はむしろそれらのソフト・フォーカス的絵画に対して、対照化している企図(ディープ・フォーカスというよりもハード・フォーカス)さえあるのではないか、と思わせるほど「個体を描ききる」という意識が向けられているように思われた。そして、この2点だけ、なぜか画格が横長になっているのがとても気になった。市販のキャンバスを加工したのだろうか、独自に作ったのか、縦横比率としては映画のスクリーンサイズの「シネマスコープ」に近い。(横長にする必然性がまったく感じられなかったので、かえって気になったのかもしれない)。




例えばセザンヌ(1839〜1906)が描くリンゴやオレンジの静物画(シネマスコープ・サイズに対するスタンダード・サイズで描かれた静物画)がもたらす印象は、ゾクっとするような遠近感をもたらすのだが、具体的に言うと、(知覚体制としては)非-現実的なテーブルの歪みや、テーブルクロスの皺(かなりその陰影がデフォルメされた)がもたらす効果によるものだろう。




あと、言うもでもなくルノワールの描く人物画は、不安、焦燥、恐怖などのネガティヴな表情要素がなく、こういってよければ多幸的な表情をした人物が多い。ひとことで言えば「不気味に幸福な」人物絵画群である。中でも宣伝材料で複製されまくっている「団扇を持つ若い女」(1879〜1880)は、ジャンヌ・サマリーというコメディ・フランセーズの女優をモデルにしたもので、今で言うファッショングラビアに近いノリで描かれたものなのだろうと推測する。この絵はちょうどパリ万博が行われたあたりに描かれたこともあって、ジャポニズムに対する憧憬が「団扇」という表象を通じて再現されている。「エキゾティックなジャパン」という記号が輸出され、再輸入され、つまりは「交換」が歴史的に連続していて、安定した供給回路が確保されていることを不気味に知らせてくれる。この絵に高尚さなどを求めるのは愚であろう。今の日本の子が海外ブランドを身につけるように、ジャンヌ・サマリーは団扇を持っているだけなのだ。




ジャポニズムへの憧憬、という意味では雑誌「イエローブック」(現行のタウンページの配色そのものだ)の編集・装丁を手がけたオーブリー・ビアズリー(1872〜1898)の方がよりハイセンスに映るし、(穿った見方だが)、ある種のポップアートの先駆けだとも思える。




ルノワール展』、それは、しかし、総体として言えば、田舎者の集まりとしての「パリと東京」が手を組んでこぞって「モダン」(モダニズムではない!)を享楽-消費しているだけなのだ、という最終的なインプレッション(印象)を持たざるを得なかった。




微睡んでいる場合ではない。写楽ビアズリーや華宵やクリムトを持ち上げる以前に、ヨーロッパにおける美術表象における「ジャポニズム」に先駆けて、アイルランド生まれのダンディスト、オスカー・ワイルド(1854〜1990)がパリ万博当初において、「ジャポネスク」を能天気に受け入れていたフランスを揶揄して(多分におちょくって)書いたエッセイ『嘘の衰退』(全集5所収)を踏まえた上でルノワールを早晩、消尽させるしかない。




あと、『団扇を持つ若い女』を含めた人気のある絵、数点には、パステルカラー(ピンク・グリーン・ブルー)の台紙(プレート)の上に絵画が掲げられていたのには、「美術館のバカさ加減をわざわざ露呈している」としか思えなかった。あと、500円で得られる「音声ガイド」のPRにあたって「松坂慶子さんによるガイドで〜すっ」などとラウンジで大声張り上げるのも頼むからやめて欲しい。ルノワールなぞは梅原龍三郎ないし白樺派が「近代絵画」として持ち上げた時点で「近代的/モダン」という商売文句に釣られた輩が、こぞって手垢をつけにいった絵画なのだ。そして現在時になおも、松坂慶子なぞを持ち出してきては、これでは「芸能人と画家は同じです」と言っているようなものではないか。(ほんとに日本の美術館はカッコワルいことするなあ、と思う。)




ルノワールの描く人物はどれもこれも幸福そうに見える。だが、こうやって商売道具に堕しきったルノワールその人の活動を通して、その愛らしい女性たちを再び見直すと、「なんと不幸な女性たちだったろうか」と思えなくもない。・・まあ、そもそあまりパッとしない舞台役者を描いているからかもしれないが・・・(それにしても、3月6日が待ち遠しい。なぜなら、渋谷の某美術館で、タマラ・ド・レンピッカの展覧会が行われるからだ(ちなみにジャン・リュック・ゴダールの『新ドイツ零年』(1991)で彼女の絵画が使われている)。その放埒にして堅強な画業群を見渡せば、ルノワールの女性像なぞは一気に相対化されるだろう。あと、4月6日からのエドゥワール・マネ展も楽しみだ。)2010-2-23