近況


数学そのものよりも、「数学と論理学の関係性/無関係性」の方が重要。「ゼロ」と「無限」が概念として処理されたのが20世紀初頭の数学論理学(まあ、平たくいえば数学基礎論・・・ラッセル&ホワイトヘッド)で、「ある/ない」の論理化が明確かつ明快にはじまった。その後、数学自身が数学そのものを定義しにかかるという「ウロボロスの蛇」的な動きになって、それも還元主義的にいえば、「ゼロの再定義」としてメタフォリカルにいいかえることができる。ゼロは超越項であり、超越論項とはなりえない。ここに数学の論理的基礎づけ、その限界があるのだろう。メタレベルとオブジェクトレベルを結ぶパラダイムを作動させた、あの「ゼロ」でもあるが。




以上、現代数学と、現代美術、現代音楽の並行性(その当時、映画は「原始映画」だったわけだが・・・おお、映画の原始時代・・・)に関しては、だいたい20代頭に読んだ『隠喩としての建築』『内省と遡行』(柄谷行人)が入り口だったが、それすら通過していない数式スノッブみたいなのが、増えているようでかなわない。




まあ、誰とはいわんが、数式をむりくり使おうとして、アニメを語りたがる「数学ディレッタント/数学スノッブ」みたいな輩がいるが、最低ラッセル&ホワイトへッドの『プリンシプル/マセマティック』(一般的には数学基礎論あるいは数学原論)、あと遠山啓の「無限論」あるいは「ゼロ論」、カントール集合論あたりをちゃんと目を通しているのかどうか。アニメおたくはアニメおたくにとどまっていたほうがいい、そうすべきだ(おたくのIDパラドックスをおたくはちゃんと定義しておいたほうがいいだろう)という意見はよくわかるし、同意。無理せんとそこにとどまっておけ、そのほうがある意味、世のためだよな。と。まあ、たんなる念慮/燃料。しっかしなー。