美術ノート 3


■ タマラ・ド・レンピッカ展  Bunkamura the musiam





嫌味な言い方になるが、おそらくは海野弘なんかが持ち上げるような文脈で大衆に玩弄されているのだろう、タマラ・ド・レンピッカの画業の、ほぼ全貌を観覧できる展覧会に行った。宣伝材料として大々的に展開されている、『緑の服の女』(1930・・・(ゴダールが生まれた年だ!)・・・ちなみにこの絵は画集によっては『手袋をはめた女』とクレジットされている)の怜悧にして強靭な視線や、タマラ自身がプロのカメラマンに撮らせたグレタ・ロヴィーサ・グスタフソン(グレタ・ガルボ1905年9月18日 - 1990年4月15日)顔負けの美しい肖像写真、そして「本能に生きた伝説の画家」「美しき挑発」というキャプションに魅せられて、固唾を飲んで、足を運んだ人も多いだろう。




さて、通りいっぺんの事を言うが、タマラの肖像画で描かれている女性像に込められているメッセージを一言で言えば「自立した女」である。彼女のタブローにおいては、「たをやめぶり」的な女らしさや、朗らかさが殆ど捨象されており、主に、アール・デコ風の表象を経た、モータリゼーションを中心とした機械文明を母体に持つ、(「モード」というよりも)ハイ・ファッション・モダニズム宮川淳の言葉を借りれば様式概念としてのモダニズム)に近い都市文明を生きるパワフルで魅力的な女性が描かれている。




とりあえず、全体の60%は占めるだろう、そんなハイ・ファッショナブルな女性を描いた絵画のディテイル、とりわけ、その眼と、手に注目してみよう。まず、特徴的なのは、前述したジェンダー化された(発生論的にではなく、社会的に性化された)イデオロギーから逃れたホモ・サピエンスの「ホモネス」(同一性)を貫徹する「力」を描くにあたって、鑑賞者を威圧するような人物の視線(目)の表象が極力避けられていることである。




タマラの描く女性の視線は、それが対面的であっても視線がわずかに、あるいは大胆にズラされている。そして、(現在の写真技術で言う)アイ・キャッチ(いわゆる眼光の輝き)をヴィヴィッドに導入したり、極端な二重瞼、三白眼という、<(少し古い言葉だが)「目力」がもたらす「視線」>の表象をそれ自体として脱構築させるメディウム(物理的組成)の再現が選択されていること、しかし、彼女が選択したというよりも、彼女の実存そのものの表象でもあるだろう、これらの汎用的な配慮に注目しておきたい。




この肖像たちのポーズに「私を見よ、かつ見るな」という二律背反の性質の表象作用を読み取ることもできるだろう、しかし、より平易に言ってこれらの表象は「私を見て欲しい、しかし、私を見ることによって、私はあなたを突き放すことになるだろう。」という(至極ありふれていはいるが)「距離化の運動」を定着させたものなのではないだろうか。(ここに「見たい。だが、直視してはいけない。」という<装置としての>ポルノグラフィの特性を逆手にとったタマラの(あるいは女性社会において一般化している)戦略が垣間見える、と言えばひどく凡俗な言い方になるだろうが。)




次に技法について。彼女の筆触を残さない手法はフォト・リアリズム的な要素を垣間みさせるが、そういったリアリティ(主に肌の肌理を実現させている)を、極度に洗練した濃淡のグラデーションで組織することによって、画におけるハイライトの定点を無効化している。




全体的に両脚の隙間にできあがる影が特徴的で、フォト・リアリズムを具現化したものとして大方を占めるのだが、とりわけ『母と子』(1931)で、乳房を支えている左手(うっすらと血管が浮き上がっている)が最も、リアリスティック/フォトグラフィックに描かれていたように思えた。



光沢の複数性によって、求心的な光-知覚の作用を絵画そのものから排除する方向に向かわせ、フレーム内に散在するロー・キーでもハイ・キーでもない相対的に複数化された光沢が、突如として、ブラックホールにシュッと吸い込まれるような異様な緊張感を孕んでいると思われる、と言えば大げさだろうか。しかし、だからこそ、彼女の絵を好むものは、ベタっとした平面性に回収されるわけでもなく、立体性として安易に知覚されるのでもない絵が持つ、そんな不思議な感覚に魅了されるのだろう。(ここに平面がもたらすリズミカルな「音楽性」を聴き取ることができる、と言えばさらに大げさだろうか。)




挑発的ではあるが、やや逃げ腰の女、つまりは自意識過剰の産物であろう複雑化されたジェンダーを体現している女。こういった女たちが近代の都市社会のどこかでてらてらしたシルクの手袋に包まれた左手の小指をわずかに立てつつ、視線を虚空に舞わせながらこちらを見るともなく見る。いや、見ているのは虚空ではない、目の前にいるあなたでもない、見るのでもなく、見ないでもない。もちろん誘惑しているのではない、しかし、していないともいえない、という決定不能性の砂漠において生きるしかない女たち。そして、ブラックホールに突如として吸い込まれることによって、かろうじて「逃げ去る女」(プルースト)に<成る>女たち。




そんなタマラのモティーフを実現させた絵画のなかでも、ひときわ美しいのが『シュジー・ソリドールの肖像』(1933)だ。この絵は、女性解放運動のシンボルでもあり、キャバレーの人気歌手でもあったレズビアンを描いたもので、その脇にはタマラに送った自身のポートレートも展示されていた。・・・タマラ自身が告白しているように、彼女にはレズビアン的な傾向があったと言ってもいいだろう。幼少期に生みの父親が行方不明になり、「父の不在」を同一的に埋め合わせるためか、二十歳過ぎの個展では「レンピッカ」ではなく、「レンピッキ」という男性名で署名したりもした。かと思えば「私が絵を描き続けるには夫以外の男性を常に必要とした」と公言する。彼女には決定不能的な「ジェンダートラブル」が終生つきまっとっていた、と言ってもいいだろう。





1898年にポーランドで生まれ、1980年にメキシコでその生涯を閉じたタマラの画業で注目すべき時期はいくつかあるが、特に、ソ連ナチス・ドイツポーランドを侵攻した1939年、いわゆる戦況下あたりの画業には注目しておいた方がいいかもしれない。その時、彼女は重度の鬱病をわずらい、絵画制作のモティベーションを、宗教や信仰心に変えていったあげく、終戦直前あたりにはニューヨークで慈善活動に没頭するに至るのだ。それまでの時期は、都市(パリ)のアーバニズムに彩られた環境下で、スポンサー付きの絵や、『ヴォーグ』などのファッション雑誌の表紙絵など、低俗ではあっても、他者の欲望(ラカン・・「欲望とは他者の欲望である」)を満身に引き受けたような仕事において大衆を惹き付けていた。(そういった奔放さ、下品さがピカソやブラックの反発を買っていたという)。しかしながら、戦時下の恐慌の中、闘病のなかで描かれた『逃亡』(1940)や『移民の母』(1936)では、レ・ザネ・フォル(狂乱の時代)に描かれた絵画では見られない「真摯さ」が見いだせるだろう。そして、それらを発表したことによってタマラは画壇から一様に無視されるようになるのだ。




時代遅れになったアール・デコ、そしてモダンな都市文明から見放された後、彼女は肖像画を見捨てて、風景画、静物画、そして抽象画に作風を以降するようになる。その移行のきっかけに、戦争という大きな「切断」があったにせよ、完全に世間から忘られれた中でもなお、画を描き続けた強固な意志には感嘆せずにはいられない。




なお、レンピッカ展においても、先述したルノワール展と同様、タブローの下に色のついたボードがあてがわれていたスペースがあった。画家が指定したわけではないだろう、美術館サイドのコマーシャル的、かつ主観的な「ありがた迷惑的な配慮」は良識ある画家、鑑賞者にあっては、全面的に批判すべきだろう。(2010-3-25)