音楽ノート 7




■音楽ノート 7   DCPRG 『CATCH22』  その2






地球を宇宙の中心と見なすことと、わたしを世界の中心と見なすことは相似している。だが宇宙の側から見れば、地球は周縁であるかもしれず、ゆえに世界のなかのわたしも周縁的事実にしか過ぎない、ということがすぐさま了解されるだろう。なにもメタフィジカルなこと、ミステリアスなことを言っているのではない。われわれの知覚認識上、300キロ離れた場所にわたしを見出すことはできず、おそらく5メートル先にもわたしをみいだすことはできない。だから、わたしはここにいる。君はそちらにいる。わたしは君にゆっくりと近づいて、君のその美しい腕を指でつねってみる。イテテテ、・・・痛がっているのは君であってわたしではない。わたしはここにいるのだ。みんながアピールしているのは、この永遠普遍の法則にほかならない。みんなは書く。フェイスブックに、はてなダイアリーに、ツイッターに・・・わたしも今まさに書いているが・・(眠い・・眠らせてくれ・・)・ところで、・・・みんなが言いたいことは、「今日は551のブタマンを食べたよ!とても美味しかったよ!」ということではない。そういうことは、今日はどのアクセサリーをつけようか、ルージュの色はどうするか、という皮相な装飾的問題にすぎない。みんながアピールするのは、ただひとつのこと。それは「わたしはここにいる」ということだ。わたしはここにいる、ということに役立つ551のブタマンであり、ディオールのオードトワレである。




君の視線、彼の視線、彼女の視線、あの人の視線が、同じであることは、ついに起こりえない。われわれは<一気に>ちがうものごとを見ているのだし、<一気に>ちがう何かを感じている。この<一気に>という同時多発性が、通信テクノロジー、モバイルテクノロジーによって強調されはじめているのは、すぐれて現代的な特徴なのかもしれない。だが、「ipad?あんな弁当箱のようなものは持つべきじゃないよ・・・」菊地成孔。・・・菊地成孔の全貌は不可解である。全貌をくまなく拡張し、ついに全貌を全貌としてあらわすことのない、そういった全貌としてのみ確認できるものである。







1961年のよく知られたSF小説、それも映画化と同時に書かれたというアーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』のプロローグによると、われわれの脳天や肛門には、1人につき30人の死者が突っ込まれているらしい。誇張ではある。が、ギャグではない。その簡潔にして意味深長な冒頭部を引いておこう。


今この世にいる人間ひとりひとりの背後には、30人の幽霊が立っている。それが生者に対する死者の割合である。時のあけぼの以来、およそ一千億の人間が、地球上に足跡を印した。この数字は興味ぶかい。というのは、奇妙な偶然だが、われわれの属する宇宙、この銀河系に含まれる星の数が、またおよそ一千億だからだ。地上に生をうけた人間ひとりひとりのために、一個ずつ、この宇宙では星が輝いているのである。(伊藤典夫 訳)


さて、こういう計算がなんの役にたつのか、皆目検討がつかない、おそらく何の役にも立たないだろう、しかし計算してみると、現在の日本の人口が約1億2000万人なので、単純掛算で、120000000×30=約36億の死者の上にわれわれ生者の生があるといえる。多いのか?少ないのか?その数自体は意識も、無意識も超えているだろう。30人の幽霊を1人がどうやって意識すればよいのか?無意識は数を要求しない。それが無意識の良いところだ。すべての意識は計算的理性にかかわるときに、虹色の無意識を灰のなかに溶かしてしまう。誰が数値を愛せるのか?




数の整合は美しい。そう言うのは職人の特質だ。一方、数は美しい。そう言わせるのは権力者の擬似美学である。



動物は水平に動く。が、直立二足歩行を課せられたわれわれの毎日は、せわしなく、時に憂鬱だ。それは意識が垂直化するしかないということ、スマートフォンやモバイルフォンをいじる姿勢が、つねにやや下を向いているということにかかわりがある。(この姿勢に関する10時間くらいのドキュメンタリーを誰かに撮ってほしいものだ。岩波科学映画のような。なんでもないことをドキュメントするほうがかえって面白い)。・・・いうまでもなく外界に対する<ホリゾンタル「水平的な視線」>は<バーティカル「垂直的姿勢」>によって獲得される。画家のイーゼルキャメラマンの三脚、オートフォーカス、自動遠近測定装置。そして君の二本の脚はいうもでなくバーティカルメディアである。見るということはこの単純原理に触媒されている。うつむいて携帯をカチカチやりながら、メールを水平的に送り、だが、しつこくメールを打っているとついに、電車に跳ね飛ばされる。ギャグではない。誇張ではあるが。・・・垂直しながら水平すると、必ずクラッシュする、その確率が高まる。・・・いうまでもなく、しかし、インターネットの普及によって、ついに、退屈の美学的価値が逆説的にも見出されることとなった。それは、注意深く観察してみると、ネットを断ち切ったあとにしかやってこない。コミュニケーションを放棄せよ。ディスコミュニケーションを享楽せよ。この瞬間もまた肯定的な視野におさめておこう。さて、どこへ行くか?誰と会うか?何を食べるか?すべてが閉ざされているというのに。すべてが既知のままだというのに。



真の退屈を得るのはむずかしい。アンディ・ウォホールの映画が退屈すぎて難解なのと同じように。そこにしか未知がないのだ。と言わんばかりに。・・・われわれが目にする光景、体感する現実はおおむね「スターバックスの憂鬱」や「居酒屋の熱狂」そして「帰宅後の疲労」、「せわしない明日の準備」「足裏マッサージ」「クリスマス・イヴをどう過ごすか?」などであり、そこにアーサー・C・クラークのいう30人の幽霊が忍び込んでくる確率は、あまりにも少ない。安楽椅子としての人生は、ありとあらゆる死の観念を抹殺しながら、死の意味を漸近的に偽装してゆくだろう。偽装は現実ではない。それは生のアクセサリーにしか過ぎない。ここで追求したいのは、そういったアメリカン・コーヒーではない。むしろ、どぎつい味、反吐を催すようなドクター・ペッパーのポイゾニック・テイスト、資本主義のバッドにしてポップな現実である。



「CATCH22」はもともとベトナム戦争を舞台にしたアメリカの小説だった。映画化されもし、日本では由良君美が熱心に語っていたことがある。(『映画評論』バックナンバー参照のこと)。そして、作家のウィリアム・バロウズ自身が言うには、彼のラッキーナンバーは23だったそうだが、22とはそのひとつ手前、ラックの前のアンラック。安楽の前のunluck、真の混沌のことである。来るべきキャッチ22、逃れるべきキャッチ22。通過すべきキャッチ22。愛すべきキャッチ22。俗っぽくいえば、「パニクっている状況」が「CATCH22的状況」である。ありとあらゆる悪循環に溺れること、脱出不可能、また0に戻ってしまったという地獄、悪夢のような堂々巡りがエンドレスに続くこと、それが「CATCH22的状況」である。・・・エンドレス・クロージング、「終わりなき閉止」としての現在が見るものは<すでに終わってしまった世界>と、<いつまでたっても終わらない世界>が刻一刻と、海面の凪のように干渉しあっている光景である。このテキストもそいういったものになるかもしれない。だから、つづくのだ。眠い・・眠らせてくれ・・・。(つづく)