■映画探究ノート3 エイゼンシュテイン


■映画探究ノート3 エイゼンシュテイン







悲しみ一般はない。すべての悲しみはその具体性を持つ。とエイゼンシュテインは言っている。(「作品の構造について」1939冒頭)。悲しい悲しみはない、ということである。



泣いている人がえんえん1時間つづいているだけの映画は悲しくはない。なぜならば、その悲しみは表現されていないからである。



ところが、多くの人が「なぜ、そんなに泣いているのか、何が悲しいのか?」という問いを持つことになるだろう。



逆に、ある人が1時間笑いつづけているだけの映画があるとして、「なにがそんなにおかしいのか?」という問いを持つことになるだろう。



歴史的に見て、映画はこういった「ひとびとが感情の原因を探ってしまうこと」を利用しまくってきたのである。が、それはそれでいいのだ。



それはさておき、音楽の場合、悲しい旋律が1時間鳴っているだけの曲を聴いたとして、その悲しみを探ることはできるが、それをあまりやらないのではないだろうか。



そのむかし、坂本龍一が自著のなかで言っていたこと。(『坂本龍一 音楽史』)「よく、悲しい音楽はなぜ悲しい音楽なのかと質問されるんですが、それは感情が翻訳しているんですね。」




さて、「感情が翻訳している」となると、それでは、「感情」はどうして作られたのだろうか?



ひとつは「歌詞の悲しさ」と「旋律」の関係があり、「歌詞」にはエイゼンシュテインの言う「悲しみの具体性」が表現されているといえる。




しかし、なにをもって「悲しい曲だ」と認めるかは、個別にちがってくるだろう。とくに幼少期に聴いた歌謡曲では最初に「悲しい曲だ」と感じたものはもう思い出せないのである。




渡辺真知子の「カモメが飛んだ日」などは悲しいと思ったが、久保田早紀の「異邦人」はそれほどでもなかった、という相対的なことかもしれない。




たとえば、わたしはスメタナの「モルダウの流れ」は悲しい旋律で、よくできた旋律だと思うが、なぜ悲しいか、具体的にはわからないのである。




「悲しい」という感情を楽曲に投影していることは認めることができるし、また「悲しみの感情が翻訳した」としても、「悲しみ」の内実がはっきりとは明確にできないのである。




そして、悲しいことだが、スメタナの時代の人がどういうふうに「モルダウの流れ」を聴いて、悲しんでいたのかは不明である。




ここでいったん結論を出しておきたいが、「劇映画の原理とは、感情誘発の原理のことである」。また感情誘発を創造する原理は、歴史的にみて、「歌曲→歌謡曲」の流れ、そして、「小説」の流れに並行して、(または手を組んで)、細かく構造化、再構造化されてきたと言える。




エイゼンシュテインが一気に解決しようとしたのは、この「映像、音響の操作による感情の成立のさせ方」ではないだろうか。「感情誘発の原理」と「モンタージュの原理」をきわめて建築的に一致させたということである。




しかし、エイゼンシュテインには、強引な美学的昇華もあるので、全面的には賛成できない部分も多々ある。




黄金分割の美学的根拠に関しては、まだ理解していない。




ジガ・ヴェルトフとエイゼンシュテインの喧嘩は有名だが、いうまでもなくヴェルトフがリュミエールの肩を持つものとして捉えられる。(映画眼)。エイゼンシュテインは、「映画=スポーツ=エンターテインメント」の始祖でありながらも(映画拳)、一方でそれに反するかのようなことも言っており、そこが興味深いのである。アンヴィバレンス。それだけのことかもしれないが。




「音像」という概念を、エイゼンシュテインの作品構造理論に導入しつつ、岡崎乾二郎の「無関係性-非同期性理論」(『ゴダールの神話』1995所収)でマッシュアップすると、最強の映画理論ができあがる。というのが、わたしの意見である。



が、理論などなくても創作できるというのも、たいした真理である。


                       (2012・8・27)
















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