Deleuze 『CINEMA 2』 1






この世界に対する信、そして信と諸−映画との関わりあい。『シネマ1&2』においてドゥルーズが最終的に強調したのは、「映画を信じること」と「この世界を信じること」にはいかなる断層もない、ということだ。




ドゥルーズは哲学者だったので、前述した「この世界」に関するさまざまなテキストを残している。「この世界で生きることとは果たしてどういうことなのか?」「この世界で生きることをいかにして信じることができようか?」・・・そして「この世界」を実にさまざまな方法で探求したが、しかし探求しおえなさを悟性(悟り)として認知したときに、「映画」という20世紀に幅を利かせたメディアに注目せざるをえなかったのだろう。ドゥルーズにとっては、「映画を語れない哲学者は、すでにして20世紀の哲学者ではないのでは?」とでも捉えられようアポリアが待っていた。逆から見れば、しかし、20世紀の映画監督は、哲学など学ぶ必要など、さらさらなかったのだ。篠田正浩エイゼンシュテインから何を学んだのか、篠田正浩の映画(『乾いた花』とか)を見ても、それはついに明らかにされない。このめまいのするような非対称性、断絶。




そして、今世紀に入って、動画というフォームが映画の縮小形式(あるいは映画の形式を縮約したもの)が跋扈することになる。ヒア、ゼア、&エヴリホエア。つまりはいたるところで。だが、注意しなければならない。映画がより身近になったのではない。映画の形式が「より身近なもの」になったのだ。これら両者の断層が強調されはじめたのである。投下され、一般化され、共有されたのは、映画ではない。映画の形式なのだ。ゆえに、よりタイムリーな問いとしては、・・・映画を問う前に、映画の形式をあらためて問う、という時期にさしかかっている、これではないだろうか?




内容と形式の二元論はあまりにも粗末だが、この二元性の内部でもがいている限り、内容の飽和点を飽和点としてみなすことはできないだろう。コンピュータ・テクノロジーが計算する物語マーケティングの算術的組織化と、流行歌のマーケティングはどこか通じている。だが、3分のポップソングに注入されるリリック/ナラティヴの方が気軽に消費できることは確実だろう。こうなればPOSシステム(made in U・S・A)と同じなのかもしれない。物語の市場は、市場の物語でもある。・・・物が売れない、だから物語を売れ、物語を売らない限り、物は売れないだろう。物語がないって?だから、さんざんこう言ってるだろ?もっとうまいこと嘘をつけ、と。でないと、路頭に迷っちまうぞ。どうする?・・・さて、こういうことで頭を悩ますのが、現代的な文化人なのだろう、か。




たしかに100円の板チョコくらいの小画面サイズで見る「映画的動画/動画的映画」は、−擬似−映画体験としては有効だが、めまぐるしい速度生活のなかで、いっそうの忘却に晒されるという運命を背負わされている。(裏返せば、デジカメでバシャバシャ写真をとっていても、何の印象も残らないのと同じだ)。質的にも、モンタージュの切れ味が悪く、フレームも動きが条件によって阻止されたりもし、端的にノイジーである。





文明開化、大正モダン、モボ、モガ、小津の時代、黒澤の時代、裕次郎の時代、・・・機械文明の全面的な投下、三種の神器の1つであったテレビジョン・・・自家用車に乗り、映画館に行き、遊園地に行き、キャッフェでパフェを食べるのがヒップだ、という価値観。(こういうことは現代でも続いている。世界の終わりまで、果ての果てまで続くだろう。資本主義が続行する限り。・・これがクールであり、デジタルであり最新モードだ。という情報を与えればいいだけなのだから。)・・・そして、家族ロマンス、終身雇用、高度経済成長・・・全共闘ポストモダン。ポストポストポスト・・・





「もう二度と映画は見ないよ。」と『シネマ』を書き終えたばかりのドゥルーズは周囲に漏らしていたそうだが、ここにはある種の「映画を観ることに関わる受苦(パッション)」・・・シネフィリー(映画狂)とは対極にあるそれ、を積極的に引き受けるというある種の倫理的衝迫があったのではないだろうか。そして、わたしにはこの倫理的衝迫が明らかにない。今日はここまで。