■ memo 「 映画史/世界史」から





●16〜17世紀オランダ
天体望遠鏡(ハンス・リッペルスハイによる)と、顕微鏡(サハリアス・ヤンセンによる)の発明。(芸術への連続性はフェルメールなどによって確認される)。大航海時代→情報量の肥大・加速(現在のインターネット文化へと照応する)。百科全書的理性の幕開け。


<テクノロジーによるインパクト/エフェクト>
物=現象界(自然)は、科学の対象となる。→ 科学を数学的合理論で裏付け、それをさらに哲学的証明において裏付ける試みがなされる。→イギリス経験論(ヒューム)と大陸合理論(デカルトニュートン)の分裂。


●18世紀ドイツ
経験論と合理論の分裂を再統合するエマニュエル・カント。物と物自体の分裂。主体と客体の遊離。


●19世紀日本
国学者本居宣長が「もののあはれ」を源氏物語に見出し、概念化。物とその派生物である情緒(フィーリング)が別様に取り扱われる。また「あはれを理解できるものは粋、理解できないものは野暮」という美学的選別感を形成してゆく。同じようにイギリスでは「センチメント」を理解できるものは貴族的、理解できないものは大衆的という選別がなされてゆく。日本とイギリスは島国であることに注意。

情緒(あはれ、センチメント)の強調は、現在の文化的状況をも形成するファクター。しかし、いかなる大衆もそれらを感知−理解できるものになり、低級文化を形成。ハイアート、ハイカルチャーはもっとちがうところを目指す。

●20世紀アメリカ・ロシア
第二次大戦は「歴史的出来事」の経験として残る。戦後は世界史の世界的共有が始まる。
第二次大戦開戦は「結果」だとして、そこにいきつくまでの過程は「物自体」的。この戦前の起因(機縁)としての「物自体」がクリアに認知できなくなってきているので、再度考察する必要あり。(たとえば地震は出来事だが、何が地震を起こさせたか?となると、「物自体」が原因だとは限らない・・・むしろ構造的因果論によって解明すべき)。


映画は現象界からはみだすべきものとして「物自体的」であり、そういう意味で「特殊」だったが、それもまた現象界にすぐに回収されるというサーキットが続いている。この円環を「真の物自体的映画」によって切断する必要がある。(カントの「物自体」の概念は東洋的には「アビ・ダルマ」に近い・・・これも重要)


●21世紀
量子論量子力学が数学によって証明されても、かならずしも芸術への昇華が起こりにくいのが現在。