コンバット、ミリタリー、コンバット

■ コンバット、ミリタリー、コンバット


1 ミリタリー



ミリタリー、とは通常「軍事」のことを指す。例えばミリタリーファッションとは、軍事に関わる兵站自衛隊の服装を、一様にカジュアライズし、「日頃から着用可能なもの」として、ある程度都市コード化されたものである。軍事の文化化(カルチュアライズ)、ということで言えば、パフュームの『GAME』というアルバムが出たあたりからAKB48の将校的衣裳(2011年あたりの)、それ以前に『エヴァンゲリオン』などが軍事と消費文化の商用結合に連携していた。



1980年初頭、ポストモダン前夜、あるいは最中、小学生の間で大流行した『機動戦士ガンダム』においては「地球防衛」という大義ストーリーテリングの上で中心的な命題として機能していたが、ミリタリーファッションなるものは、疑似軍事空間的な所産であることには疑いない。ミリタリーファッションは、ミリタリーのミミクリーに過ぎない、という意味で、実際の実務的軍事からは切断されている。(せいぜいのところ、ちょっと士気を高めるだけのことだろう)。それが着こなされる主体の場所においては、「敵の存在=軍事の条件」が欠如している。だが、そうであるがゆえに、彼は、彼女は安心して着用できるのだ。ファッションと軽薄。ミリタリーのコスチュームプレイは、「使い道のない否定性」(バタイユ)ですらない。カーゴパンツのサイドポケットに何も入っていないって?それは使っていない証拠だよ。君。コンドームくらい入れとけよ。ファッションで。



いつでも、どこでも、というコンビニ文化の続行。いつでもどこでも見れるネット環境は、ありとあらゆる「力の抑止」に役立っている。暴動の回避。軍事の回避。力がもたらす世界の回避。指先が撫でる画面は指先が撫でる女の肌よりも愛されているって?そりぁ空しいね。真のマテリアリズムが死んだときには、もう贈与文化は消滅しているだろう。伊勢丹も、三越も、この世から消え去っているだろう。



ところで、日本の政治家、および宇宙開発機構は、「防衛」の大義のもとで、宇宙機構法を水面下で書き換えた。約半年前、今年の6月のことだ。これで、宇宙の軍事利用に日本も加担できるようになったわけか。米ソの冷戦構造が「007シリーズ」を生んだとは思うが、これからは宇宙規模の冷戦構造か。まあしばらくは宇宙ロマンもので隠蔽工作するんだろうな。(『宇宙兄弟』とか)。敵がないという敵、仮想敵がモジュールとして組み替えられるしかないという、敵。





以下参考まで

http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2002Y_Q2A620C1PP8000/

http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65811647.html
(ページ中段あたり)   

                         (12月15日)







2 ミリタリーからコンバットへ




戦争に抗する別の戦争を欲すること。」「戦争なしで戦争を行うこと。」これは言わずと知れた哲学ユニット、ドゥルーズ=ガタリジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ)がその大著『ミル・プラトー』(1980)内でマニフェストした言葉だ。




大文字の戦争には明白な敵がいる。クリスマスイヴの前に、君にもし恋敵がいるとするならば、それはなんとしてでも彼に、彼女に勝たねばならない。緻密なインテリジェンスを総動員して、ありとあらゆる情報を駆使し、作戦を綿密に立て、慎重に検討し、勝利するための諸細胞、筋肉のひとつひとつを組織しなければならない。ストラテジー、タクティクス、ロジスティックスを総動員して、勝利するのだ。あるいは敗北するのだ。そう、勝利しても、敗北しても後味は甘く、官能的なのだから。なぜって君は徹底的にやったのだから。時間はある。時間はない?イエス・キリストの誕生日だって?そんなこと関係ない。





第二次大戦における日本に対するアジア諸国は植民地化の矛先だった。マレーシア、フィリピンは日本の敵ではなく、文字とおり、現地の民衆を国家に植え付けるための策だった。植民、コロンとは、領土化の目標財産のことである。あたりを見回してみよう。「あなたの恋人をあなたの領土にすること」。「あなたがあなたの恋人に領土化されること」。一瞬のこと。ヴァギナはペニスによって領土化される。別の見方もできる。女のふくよかな乳房に領土化される君のやせこけた頬(微笑)や、女のたわわな尻や脚に領土化される君の嬉しそうなつややかな頬、そしてキラキラした目と涎(爆笑)。だが、一目瞭然、「セックスよりも接吻が美しい」、と言うのなら、それは領土、非領土の関係をもたないことにあるだろう。




「唇を奪う」それは確かに領土化のことかもしれない。だが、冷静に観察してみると、接吻は非生産的であり、性の非−動物化であり、しかも、性の属領化も非属領化をも含む「性のメビウスの輪」でもある。それは「性の文法」に完璧に属領化されているが、性の脱文法化の始まりにも定位する。指切りげんまんは子供のもの。接吻は大人のもの。タッチ&フォーエバー。約束を守って。約束を破って。




性倒錯の始まりにも接吻はあるのだ。性−文法の多様化、多形倒錯化を語る最初の約束、あるいは儀式としての接吻。キッス・セントリズム?もちろん広汎な意味解釈ではユーロピアンユマニスム、アメリカンピューリタニズムの所産、ともいえるだろう。それは哲学者ジャン・ジャック・ルソーが大のセックス好きであったにも関わらず、大のセックス好きを隠し通した、ということにも関係がある。(←ホントだよ、これ)



君の呼吸を信じる、君の言葉を信じる、君の唾液を信じる。君のハミガキを信じる。君のマスクを信じる。もちろん君がつく嘘も信じる。それが汚い嘘だと信じる。すなわち口を信じる。ロゴスを信じる。口からでまかせ、口は災いのもと。でも、信じる、信じる、信じる。





大文字の革命にも敵がいる。ロシア革命においては、電化というイデアレーニン)を抱えたがゆえに非電化的イデオロギーは敵と見なされた。1968年パリ五月革命。その場所においてはカルチェ・ラタンは国家の標的だったろう。地下のクラブで鳴り響いていたボリス・ヴィアンのワンフレーズさえもが。オープンエアリーのカフェで鳴り響いていたアルチュセールの音読の一節さえもが。・・・ところで君の革命はなんだろうか?ダイエット革命?貯金革命?マリアージュ革命?生き延び革命?ネイルアート革命?フライドポテトSMLサイズどれもこれも150円革命?さては人生を徹底的に無駄に過ごすこと、そこから逃れるための諸革命か?・・・いいじゃないか、無駄だって。無益だって。君の人生はストーリー性0だ。ストーリーゼロ、だが、なんとすがすがしいことか!




世界各地に巣食うblackbloc(ブラックブロックとはアナキストの別名であることは言うまでもない、矢部史郎が言っていた)の標的はグローバル企業であり、先進諸国のグローバルドストアのガラスをメチャクチャに割ったりしている。そしてオリンピック、サミットなどのウルトラグローバルイベントの徹底的阻止、妨害。ファックナイキ。ファックマック。




戦争に抗する別の戦争を欲すること。」君には別の戦争を欲する義務も権利も自由もある。ただし、「スーパーマッケット=主婦の戦場」ではなく、「スーツ姿のサラリーマン=営業戦士」ではなく、結婚デフレに脅える30代女性の「美戦争」ではない、別の戦争だ。そう、それは一切の競争から、あるいは「競争の意味のステージから逃れる」一切の戦争でもある。軍事(ミリタリー)は戦闘(コンバット)を隠蔽し、戦争すらも隠蔽してゆくだろう。隠喩としての戦争、それは1945年すなわち敗戦から始まっている、というのに。軍事から戦闘へ。シナリオの全体主義からシナリオの細胞分裂へ。分裂から分裂へ。もっと分裂へ。2012年から2013年へ。唇から唇へ。ミリタリーからコンバットへ。(12月16日)