映画ノート 10




■ ジェームズ・キャメロン 『ターミネーター』 その2






すべてのアメリカ・アクション映画は「オレ」を表現している。アメリカ・アクション映画に描かれているのは「ワタシ」ではなく「オレ」であり、「オレ」は「オレ」として自己完結することによって「オレ」でありつづける。アメリカ・アクション映画史には数々の「オレ」が出現するが、それとはまた別の「オレ」によってすぐに乗り越えられる。数々の「オレ」(すなわちオレたち)は、ひとつの首尾一貫したパワーゲームの歴史とともにあり、「一体全体、誰が一番強いのか?」という単純明快な問いとともにある。「一体全体、誰が一番強いのか?」「もちろん、オレだ。」この問いと答えがアメリカ・アクション映画で表現されているすべてであり、その都度の「オレ=勝者の確定」によってアメリカ・アクション映画史がそのつど閉じられる。





ところで「オレ」とは何か。それは「主体=私」の強さの表現であり、強さの拡張であり、領土化である。「拡張と領土化」、これがすなわち「オレの世界」である。人は「オレ」と言うとき、思わず、自己拡張している。その現場では「オレ」と言うことによって、その主張を周囲に訴えかけ、力を誇示する。これが「オレ」によって、周囲を領土化する第一段階である。「オレ」が導入された現場では、「オレ」以外の者はすべて「オマエ」になり、対立化に拍車がかかり、そして戦いが始まる。『ターミネーター』に限らず、「オレの世界」はアメリカ・アクション映画に必須である。





注意しなけらばならないのは、アメリカ人は主語をひとつしかもっていない、ということだ。それは「I」と表記され、「アイ」と発音されるが、もっと注意しなければならないのは、(アメリカ映画を語る)日本人が使う日本語には「I」に対応する主語がたくさんあるということである。「わたし、あたし、ぼく、わい、わて、おいら、おいどん、その他の私にあたる方言、そしてオレ」など、主語にあてられる表記が多様である。そのうえ、書き文字においては「ひらがな、カタカナ、漢字」の選択が可能である。(だからといって日本映画が多様であり、かつ繊細である、と、言いたいわけではない。)






2011年9月11日、イスラム・アルカーイダによるワールドトレードセンターへのテロによって大文字の「I」(オレ=アメリカがアメリカとして規定される同一性)が爆撃にあった。大文字の「I」(オレ)が崩壊したのだ。(しかも二つの「I」(オレ)が崩壊した)。アメリカ合衆国の国家的シンボルであり、また、アメリカ資本主義の強固な身体的表象でもある「ビルディング」すなわち「I」が崩壊し、その「I」は21世紀にはいり、「i」にとって変わられ、世界中を座巻した。「i」とは言うまでもなく「imac」「ibook」「ipad」「 iphone」「itunes」「imovie」などの「i」である。これらの「i」の時代は、「I」をより排除する方向にあるのだろうか。アメリカ人は「ビル=I=オレ」が崩壊したあと、その粉々になった瓦礫を集めて「i」を無数に作り、世界中にバラまく術を心得ていた、と言えるのだろうか。「i」は、よりこじんまりとした「オレ」に成り下がり、箱庭的な「オレ」に縮減された「i」であるのだろうか。・・・そうではない。21世紀に入って「I」(オレ)と「i」(より小さなオレちゃま)が対立の時代に入ったのではない。事態はより不明瞭になったのだ。そして、より不明瞭な「i」がたくさん集まり、肥大化して、ますます手に負えない強力な「I」(「i」の無数集合としての怪物的「I」)がそのうち到来するにちがいない。






さて、最近わりと信頼のおける人から聞いた話だが、「脚本の自動生成ソフト」なるものがあり、現行のハリウッドでは、もうあたりまえのように使われているらしい。その便利なソフトを使って撮られた世界初の映画が、他ならぬ『ターミネーター』だと言うのだ。この情報はまだ完全には未検証だが、調査した結果、「dramatica」というソフトに該当するのではないかと思われる。北野武がハリウッドに赴いて、(おそらく『JM』1995(ウィリアム・ギブスン原作『記憶屋ジョニィ』)の現場の時だと思うが)実際そのソフトを試したところ、驚愕したらしい、ということはwww上のソースで知ることができた。しかし、「脚本=物語の自動生成」といっても単純なことではないだろうか。それは簡潔に言うと、「主人公がいかにして困難を乗り越えるか」という一文に還元できる。この一文に含まれる「主人公」「困難」「乗り越え」は次のように言い換えることができる。それは「神」「神の敵」「奇跡」である。ゆえに「主人公(神)、困難(神の敵)、乗り越え(奇跡)」この三つの観念さえあれば、物語映画ができる、ということであり、ハリウッドがいまだに映画史の「創世記」を遮二無二わがものにしようとしているのは、「主人公=神」という観念を捨てられないからである。





ターミネーター』においてターミネーター演じるアーノルド・シュワルツネッガーは、リンダ・ハミルトン演じるサラ・コナーに困難を与える者(神の敵)であり、サラは困難を乗り越えるべき(奇跡を起こすべき)他者(神)であった。ゆえに、『ターミネーター』の主人公はサラ・コナーであるというのが僕の見解だ。この話の骨格に、無数のCGやら特殊メイク、カーアクション、爆薬の爆破、機銃掃射などがわんさかと取り巻いているのだ。






「サラ・コナーなる名前を持つ人物だけを殺せ」この根拠を欠いた命令(無意味な形式を発動させる始点)のインプットにおいて、物語のフレーム(枠組み)が作られる。自動脚本ソフトはここで、どう作動したのだろうか?・・・冒頭30分ほど、しつこく焚かれる紋切り型のスモーク(不穏→殺人の暗示)。終盤、モーテルでの性交(紋切り型の非−形式としての肉体の復権)、そしてラスト、サラ・コナーによるテープレコーダーへの吹き込み(あたかも自動脚本ソフトに入力するようなデータ入力)。





たしかに、この紋切り型のアメリカ・アクション映画で、作動したのは「オレ=I」であった。しかし、「オレ=I」は「サイボーグ=ターミネーター」ではない。無数の機銃掃射でもない。それらをあらかじめ制御する自動脚本生成ソフト=dramaticaなのである。そういう冷酷無比な時代が始まったのが、1984年なのだ。(了)