美術ノート 9



■ バーネット・ニューマン展   川村記念美術館  その3





ヨーロッパ社会のおいては、キリスト教によるイデオロギーが支配的だった。それはイエス・キリストという絶対神(象徴)に人々が仕え、さらには芸術も、神や神が住まう教会に仕えるべきなにかだというイデオロギーである。一方で、アメリカにはヨーロッパ的な意味での神はいなかった。美術評論家である東野芳明は、アメリカにおける「神の不在」を次のように伝えている。



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ヨーロッパの芸術は、ルネッサンス以来、つまり神の眼を人間が所有しようとして以来、つねに作者という人間と対応してきた。そこには、いつも個性という署名があった。合理的ヒューマニズムという、対象に対応する作者の内部世界があり、作品とはその内部の変遷の航跡にほかならなかった。産業革命以後、芸術が、人間全体の表現であることをやめて、社会から追放されて、小市民社会の一隅に客間の小道具としての位置を与えられてからは、ますます作家は自分の自我の持続だけを信じた。適当に社会と和合する振りをすることで、自分の内部世界の優位性だけを守ったのである。それにたいして、誤解を恐れずにいえば、アメリカは、ぼくには一種の新しい中世社会に思える。ここには、ヨーロッパ的な意味での、自我も個人もない。かつての神にかわるものは、ピープルという名の亡霊のような独裁者であり、「独立宣言」はこの国の唯一の聖書にほかならない。それを支えるものは機械文明と画一主義とデモクラシーの三位一体だ。またこの国には、時間の持続がない。あるものは、いつも、ぶった切った生々しい現在の断面ばかりで、それをいくら積み重ねても、ヨーロッパ的な意味での歴史を構成しない。たとえば、あなたがこの新大陸を横切って自動車旅行をする。サン・フランシスコを発ってニューヨークへ、大砂漠や大草原にまっすぐ一本定規でひいたような道を、あなたのシボレーはまっしぐらにすすむだろう。そのとき、あなたは外の荒涼としたむき出しの大自然と、車のなかの冷房のきいたモダン・ジャズつきの空間とが、まるでなじみ合わないのに奇妙な空虚を感じるだろう。裸であるがままの自然は永遠にねころがっており、車はそれに目もくれず黙々と自分の人工的な空間を走らせる。これは、自然と人間が和合しているヨーロッパや日本では味わえない空虚さである。その車のなかにはただしい意味での時間の持続、生きているという実感がないのだ。あるのは、ただサン・フランシスコという出発点とニューヨークという到着点だけあり、その間を虚無の時間と空間が埋めつくす。あなたはニューヨークに着いて、のびをひとつし、金門橋に似たワシントン橋をちらと見て、ガソリンくさいバーボンをまた飲むだけだ。(『現代美術 ポロック以後』東野芳明1984 p,14)


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アメリカにおける「神」とは「ピープルという名の亡霊」に他ならなかった。それは実体を欠いたなにかであり、名指すことさえできない「物自体」(カント)のようなものだと言ってよい。また、亡霊は、奇妙な空虚感をおびきよせずにはいられない。引用文の後半にみられるように、文字とおり「だだっぴろい土地でのうんざりするほど長い移動」は空虚感をおびきよせる格好のメディウムとなるが、それは身体的な感覚でありながらも、それ以上に観念的な何かなのだと指摘しておいたほうがいいだろう。奥行きを欠いた二次元の世界。ペラペラな紙のようなサイト(光景)こそが、アメリカの観念的なビルド(像)なのだ。




「またこの国には、時間の持続がない。あるものは、いつも、ぶった切った生々しい現在の断面ばかりで、それをいくら積み重ねても、ヨーロッパ的な意味での歴史を構成しない。」・・・アメリカの「イメージ」(映像)を構成するものはなく、あるのは即物的な、かつ純然たる「ビルド」(像)だけなのだろうか・・・




アメリカ的空虚とヨーロッパ的充実はそうやすやすと変換(交換)できないし、空虚がふかぶかと刻まれた身体的受苦性自体に「ヨーロッパ的自我」がすんなりと注入される余地はない。ヨーロッパが「神と(合理的/調和的に)合一する人間」というモデルにおいて教会や学校というイデオロギー的空間装置をつくりえたとすると、一方のアメリカがモデルにしているのは何なのだろうか。それはドル紙幣なのか、自由の女神なのか、マンハッタンの蜃気楼なのか、路上に舞っているニューヨーク・タイムズなのか、ハンバーガーのケチャップなのか。つまり、よく言われるアメリカ的欲望、それも動物的な欲望の代謝物なのだろうか。ここでヒントとなるのは「アメリカ的崇高」と呼ばれるイデオロギーである。アメリカが「アメリカ的崇高」をいつまでたっても欲しつづけているという歴史的事実から反省的に構造化されうる、<「アメリカ的崇高」こそがヨーロッパにおける「神」の役割、代替物としてその機能を担っているという仮説>である。




バーネット・ニューマンは上記したような「アメリカのリアルな姿」に必要以上に敏感になっていたといってよい。猛犬のような鋭い嗅覚で、ニューヨークに終生とじこもって資料を読み込み、仲間たちと討論をかさね、それらから得た充実した諸観念を絵画や彫刻に具体化させてゆくのだ。(2010-10-07 つづく)