以下はTwitterよりの転送。だいたい2019年6月あたりに記述。
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イングランド・イズ・マイン
マーク・ギル
2018
渋谷シネ・クイント
◼️イングランド イズ マイン 〜モリッシー、始まりの物語 @渋谷シネ・クイント ムーア殺人事件はマンチェスターで実際起こった事件で、サファー・リトル・チルドレンという名曲の歌詞素材になっているんだけど、その曲が結局鳴らず、ミート・イズ・マーダーっぽいリフをマー役が弾く、
◼️のは納得できずで、かえってイライラ、、スミス前身バンドといっていいのか、ノースリーブスがラッシュホーム・ラフィアンズの原型曲をやっていたのにはイライラはしないが、特に感激もしない、、ロングショット完全抜きの閉塞感表現は意図見えすぎて逆に白ける、、よかったのはモリッシーのガーフレ
◼️関係のバリエーションで、リディア・ランチ風の女子が良かった、、女装嗜好、ニューヨーク・ドールズファンクラブ会長表現が皆無だったのは残念といえば残念、、次はどこかでいつかあるだろうマザコン映画祭で見てみたい、、あと、映画見てて顔が痒くなるのはなぜか?それはホコリが原因?
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山戸有希
2016
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◼️ストリーミング配信で 溺れるナイフ。監督は山戸有希。もっと観念的な映画かと思いきやわかりやすい青春ドラマ。あいみょんブームの前に撮られた作品だが、主演の女子があいみょんぽい反時代的な顔。(目が離れている)。
◼️コウ君は主人公で、前半の動きがとても軽やか。神の使いなので白装束みたいな私服が多く、「じゃ」と「やんけ」を語尾にもってくる関西弁が心地よい。この田舎の土地に残る、という腹のくくり方が清々しい。
◼️結局、田舎から東京に出て成功したいだけのナツミはさまざまなシャーマニックな呪いにかかっている。(ペディキュアを塗るという都会的な行為を田舎でもやるので)。が、立ち直れないほどの深傷を負うこともなく、恋愛で逡巡しながらも仕事をこなす。
◼️映画がどうしても開放感へ向かう。盛り上げ効果音楽多すぎで、逆に効果を弱くしている。が、演出的にはコウの開放的な動きの連続で見せきってしまうため、この先あるだろうアリストテレス的カタルシスを避け、ベルクソン的エラン・ヴィタルを突き進む。
◼️そのクライマックスが火まつりの踊りだが、配分的に長い。カット数も多く、緩急づけもなされているが、緩で導入されるバッティングセンターのシーンが秀逸のフィックスショット。
◼️あと椿の花の用い方はうまい。落ちぶれてもなお、足元飾る椿かな、、、これはナツミのペディキュアに対応されていて、またそのためにウキグモの神を祟る結果となり、なりすましレイプ犯との再開を呼びつけてしまう。
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火まつり 柳町光男監督 80年代 をなんとなく思い出すが、劇中、 the mods の激しい雨が をバックに竹の子族の真似みたいに若者が和歌山の片田舎で踊るシーンがあるが、溺れるナイフでは 吉幾三の オラは東京へ行くだ がカラオケスナックで熱唱される。
◼️もっとあれこれ書きたいところだが、日本映画女流監督では、西川美和よりも河瀬直美(ともに全部は見てないけど)よりも相対的にはいい監督だと思いました。原作の溺れるナイフ作者のジォージ朝倉って男性なんですか?女性なんですか?調べればすぐわかるんだろけど。
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けど、物語っつってもどうせフィクション、虚構、作り話、なんだから 極端に作っていいと思うんだがね、極端な不幸、絶望、悲惨、の設定が甘けりゃ、逆の多幸感、全能感、絶対的肯定の描写もヌルくなるのよね。溺れるナイフは(おそらく)監督の自己投影の部分が強くて、作り話に委ねきれてないっつう
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フィッツカルド
1982
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◼️ストリーミング配信 ヘルツォークの フィッツカラルド 1982 西ドイツ。クラウス・キンスキーの存在感にまず打たれるが、(とにかく顔のデティールが特異)それはパートナーのクラウディア・カルディナーレの整った端正な顔立ちとの対比からか。
◼️アマゾンの密林地にオペラハウスを建造するための資金づくりとして製氷技術やゴム製造に乗り出す男がクラウス・キンスキーで、取り憑かれたように事をすすめていくのが前半3分の1。(しか見ていない)。こないだ読んだバラードの奇跡の大河(小説)被るところありで、個人的には好みの冒険譚。
◼️画調がすばらしく、とくに室内シーンではカラヴァッジョの絵画とはいいすぎだけど、レンブラントの絵画色調に近い。ようは明暗比のコントラストが物質ディテールの精細さを際立たせており、たとえばクラウディアの着る凝りに凝ったレース編みの生地やレイヤー(重ね着の多層性)はいったいどうなってん
◼️だか?という服の細部へと注視を促す。またアンバー系の色がやや赤みがかっているように見え、暖かさが支配している。
◼️屋外シーンでも画調すばらしく、奥行きのある緑の中、より少ない数の白人とより多いアマゾンの原住民の肌の色の対比がこれまたマネの絵を間接的に想起させる。…カメラワークというか構図づくりもベタにはならず絶妙かつ正確で単純に美しい。
◼️フィッツカラルド つづき1時間ほど見たけど、近代化のベースとなった植民地主義のリアルな描写に見えてくる。一攫千金狙いの山師クラウス・キンスキーがアマゾン未開民族集団を見事に手なづけてゆく…が、一人死んで、一夜にして全員に逃げられる。未開対ヨーロッパの野蛮。しかけるのはヨーロッパだ
◼️フィッツカラルド続き。いつのまにかオペラハウス建築の夢が船体移動の実現化に矮小化されている。が、船体移動成功時に蓄音機からオペラが流れ、なぜか戻ってきたアマゾン原住民は声楽隊として組織され、船上で合唱していたりする。入植者と原住民という構図は守られているが、軋轢はない。
◼️川aと川bの接近地帯でいかにして船体をaからbに移動させるかという計画が全体の主シーンとなっていて、技術−発展の成果を細部に渡って見せているところが物語外的に突出していてたと思える。
◼️ヘルツォークを知る前に、種村季弘の著書でカスパー・ハウザーのものがあって、それと映画カスパー・ハウザーの謎がリンクしたのだったなあ。VHSカセットの時代だ。ずいぶん見たつもりだったけど、まだまだ未見多し
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2012
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◼️これからホーリー・モーターズ観る気力なく、万願寺とうがらしの天ぷらに思いはせる
◼️さすがパリのホームレスはお洒落やのう〜、という皮肉は成立すると思うが、当のパリ人にとってはそんなことは当然すぎる自明なのかもしれない、と、カラックスのホーリー・モーターズを最初40分ほど。
◼️初見だがこんなにも不気味なもの−物自体に迫っているとは。ドニの自在身体こそがマイブリッジ時代の運動連続写真を反復するのに適しているのだと宣告しているかのごとくドニの身体は柔軟剤入り。顔だけが老け込んだイギー・ポップのようでそのチグハグさがまた奇妙にして不気味。またはフリーキー。
■まあカラックスは早くデビューしたくてしたくて仕方がない、というタイプで、それはサント・ヴーブ、ボードレール以降のイデオロギーと化しているんだろけど、実際20代で35mmの長編撮っていて、早熟早熟と言われてたような気がするが、
◼️早熟の労苦というか、その後何したらええのん?というというもがき方の精錬過程で出てきた一本ではあると思う。ただ、HOLY 聖なる という冠はポンヌフでビノシュ演じた半盲目から始まっていて、
◼️「汚れた血」のラヴァンがボウイのモダンラブで疾走するあのシーンのアレンジというか、「おんなじことやってるわ」というシーンもありで、たんに微笑ましくもあるが、もともとあんまり知的じゃないぽい人なんでそれ以上のアレはないが、まー、たんに先日見たヘルツォークの方が素材の刳り方がよかった