映画ノート 16

■ ロジャー・スポティスウッド 『刑事ジョー ママにお手上げ』 1992 その1





テレビ画面に映っているアイドルや女優の衣裳がいい、として、それを真似ようとする女性がいる。それはそれで一向にかまわない。また、映画のワンシーンを見て、あまりにも格好良過ぎて、それを真似しようとする男性がいる。それはそれで一向にかまわない。われわれは真似をすることから出発している。幼少期に、母親の、父親の言葉をコピーすることからわれわれの言語生活がはじまっている。





映画を見たあとに、何が鑑賞者に反映されるのか。それは、各々が持っている感性の法則に従っている。何も反映されない場合もある。『刑事ジョー ママにお手上げ』を見ていて、私はずっと「アメリカ人はなぜ、こうも拳銃が好きなのだろうか。」と、考えていた。ストーリーはだいたいこんなものだろうか、と高を括っていたから、画面をぼんやりと眺めるにとどめて、他のことを考えだしていたのだ。見ながらにして、見ていない。見ていないが、見た。眼はすでに構造化されている。見たのは純粋な眼ではない。構造化された眼によってである。





アメリカ人は拳銃が好きである。」ただ、それだけなら、フェティシズムフロイト的な「拳銃=男根」のメタファー)の表現になるだろう。あるいは趣味志向の。拳銃=フェティッシュ、一理あるだろうが、理由は他にもある。言うまでもなく、アメリカ社会特有の「護身術」のことだ。





身につける物、あるいは身につけないと不安な物がある。日本人に限っていうと、たとえば、昔はお守りであった。正月を迎え、神社に初詣に行き、古いお守りと新しいお守りと取り替える。旧年の無事安泰を今年に引き継ごうとするのだ。なぜなら、古来より、お守りを身につけることは一種の護衛手段であり、それに力があるのだ、と信じられていたからである。現在は、携帯電話だろうか。とにかく持っていないと不安がる人は多い。理由は、いつ何時に連絡が入るからわからないから。財布代わりに使っているから。などなどあるだろう。しかし、察しの通り、お守りは呪術的であり、非合理的である。一方で、携帯電話は合理的であり、科学的である。かつては、時代劇によく出てくる、橋の袂とか、路ばたにある「掲示板」こそが、情報伝達のプラットフォームだったが、お守りそれ自体は、掲示板上でやりとりされる情報からは分離されている。身につける、という意味では、掲示板を背中に担いで歩くわけにはいかない。






アメリカ人は拳銃を身につける。多くのアメリカ映画の中で、多くのアメリカ人が多くの拳銃を身につける。われわれは「あ〜またか、また、でてきたよ。」と、鮮明かつ、深刻に意識できないほどに、拳銃があらわれるのだ。まずは、アメリカでは社会的、法的に拳銃所持が許されているわけだが、「身につけている」という事実性は、なにをさしおいても護衛と攻撃の表現であり、力の表現であろう。19世紀初頭のクラウゼヴィッツはその大著、『戦争論』(1819~1827)で「防衛こそが最大の攻撃だ。」と定義したが、同じことである。拳銃を持つという行為は、防衛であると同時に攻撃の準備であり、いつなんどきでも、闘う準備はある、そして「おまえに勝てる」という表現なのである。ボクシングの試合で、ある瞬間、ボクサーが咄嗟に身構えるのは、防衛しながら攻撃する準備が、はじまったということである。これも「おまえに勝てる」というシニフィエが投入されるべきシニフィアン=ジェスチュアである。早い話が勝てば良いのである。なので、拳銃は実のところ、頭脳や金やハンマーやのこぎりや、ナイフや言語にも置き換えることができるのだが、アメリカ人は拳銃が大好きなのだ。個人的な想像だが、アメリカ人にとって、その行為は、携帯電話を身につけることよりも、はるかに大きな意味を帯びている。それは完全すぎるほど、および想像を絶するほど、アメリカ国家全体と連携している。