『RED RED RIVER』


11月13日はたくさんの人がつめかけてくれた。早稲田大学エクステンションセンターにおける塚原史氏、および氏のゼミナールの生徒さんによるこの上ないおもてなしにまずは感謝したい。良いパーティー(ビリー・クルーヴァー)が予め準備されていたことは「喜ばしい集まり」をさらに喜ばしくしてくれた。




さて、われわれはひとまず『レッド・レッド・リバー』初映に成功したと言うべきだろう。32分の、ある一人の少女をめぐる幾何学的メタ・ドキュメントの上映、そしてこの小品をめぐる対談は予想外に有意義なものだった。





打ち合わせをすっ飛ばした塚原氏とのおしゃべりではなぜか「切断」というキーワードが取り上げられた。切るものと切られるものがあるということ、目前にある単純な事物(この映画においてはくだもの、そしてやさい、そしてよりありふれたことを強調することによってより特異性に近づいてゆく逆説的な少女)を見るということはそれを一定の時間をかけて見ることにおいてのみ切られるものとして認識されうるということ。いかにありふれた事物でも、「切断する」、つまり編集台(シュルレアリズム風に言えばこうもり傘とミシンが編集されるべき手術台)にかけられた(のせられた)上で真に概念を超える事物(新たなる概念を包含した潜在性としての事物)となりうることができ、(われわれが従っている、より面白おかしく狂った哲学者ルイ・アルチュセール風に言うと)ついに「認識論的に切断する」ことができるということを改めて再認識した次第である。二つの組み合わせは単純な事物の極同士の方が、より「生き生き」としたものになるのだ。「単純な事物が目前にある。あえてじっくり見てみよう。」と、われわれは呟きつづけるだろう。





しかし、われわれは20世紀初頭のヨーロッパでおきた芸術運動における「切断」の所作をどこまで抽象的に思考しえたのだろうか。「切断」をどこまで映画の「切断」つまりモンタージュに投げ返すことができただろうか。「切断」は塚原氏とのゆるやかな思考のめぐりあわせにおいて導きだされ、それは偶然的なものであったが、この小さな揺らぎをきっかけに、あえてここしばらくは「切断」に注視すべきだろう。




なんだかんだかんだ言ってグリフィス−エイゼンシュテインパラダイムで映画史が続行していることへのイライラを共有できる類まれなるモダニストアナーキスト矢部史郎、繊細きわまるドローイングを提供してくれた朝顔ならぬ夜顔的であり、時にもぐら的でもある画家、古谷利裕、路地崩壊のデ・ジャヴを予感することによって内部のテロリスティックな情動を散布する非−中上健次的変人、可能涼介、感動的なまでにありふれた自己をさらしつづけることによって奇妙な特異体に昇華してくれ、われわれの制作意欲を触発しつづけてくれた飛田あい、一秒の面会もなしに、メールと電話でのやりとりだけで音楽を郵送してくれたケン・ミズハシに握手と拍手を。





ところで『レッド・レッド・リバー』早くも2回目の上映が決まった。11月18日の土曜日の19時から。場所は東京都中央区銀座7の3の6 洋菓子ウェスト2階の<g3 銀座芸術研究所>。入場無料。メトロ銀座駅C2出口から地上へ出て、徒歩で10分以内に行けます。なお会場近くにある一見の価値ありだと思われる建造物、資生堂本社のギャラリーでは「銀座の女たちの歴史」的な展覧会が開かれていました。退屈で死にそうな人も、充実しすぎて死にそうな人もお気軽にどうぞ。



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