建築ノート 9


■建築ノート 9





かれこれ5年程前になるだろうか、「NEWSWEEK」という報道雑誌で、米グーグル社が所有、管理するサーバーが設置してある施設の写真を見たことがある。言うまでもなく、基本的にコンピュータ・サーバーがあるから、われわれは諸情報を共有することができるし、それに応じて各々が家庭や屋外でインターネットを楽しむことがきる。そういう意味でサーバーは電気やガスのように、現代生活にはかかせない情報の貯蔵システムになりつつある。複数台のサーバーが、一定の場所に一定間隔に置かれている。




私がその写真を見た感想は、まず「実際にこういう場所があるのだな」という視認であり、そして「こんなものか」というその「全体規模の小ささ」に対する少々の驚きだった。写真は北欧国にある屋外のサーバー施設で、二十基のおおよそ(よく神社の境内に置いてある)日本酒樽サイズのものが金網に囲まれている。立ち入り禁止の変電所が金網で囲まれているような感じである。




ところで、いつからか「共有」という語彙がブラウザ画面のどこかにあらわれることが多くなってきた。情報の送り手側が「この情報を共有しますか?」と、ネット利用者に問いかけているのである。私は、その情報を「誰かと共有する」ことの意味がわからないし、共有したい相手もいないので、「共有アイコン」をクリックしたことがない。「共有」したからといって「われわれは共有してて良かったね」と確認する必要などないだろう。




映画館はある意味で「共有の場所」であるし、今もそうである。映画館がなくなるとなると、映画というコンテンツを「共有の場所」で見ることができないので、それを各自個別に観賞するしかなくなる。一方で、映画館とは、孤独な場所である。それは、映画館が複数シートを兼ね備えた「共有の場所」であるからであり、孤独な者たちが一空間に集合し、同じ画面を同じ遠近法に準じて見ていることの可視性に覆われているので、個別の唯一の身体=孤独が余計に強調されるのである。その孤独を埋め合わせるために、映画館を出たあと、当の映画について、誰かと話したくなるのだ。





ボードレールが詳細に言及しているように、かつて都市とは、このような個別の(取り替えのきかない)唯一の身体性に覆われていたのかもしれない。西洋が極限的に突き進めてきたモダニズムの歴史もまた、「孤独な唯一の身体」なしには語り得ないだろう。(それはカントが毎日、ちょうど同じ時間帯に散歩にでかけていため、近所の人がカントを時計がわりに使っていたというエピソードをも含めてのことだ)。





部屋でDVDを一人で見ている限り、この孤独感はまったくないし、その行為はあまりにも身体性を惹起させない。途中で、切ったり、切ったまま、見忘れているものもあり、やはり観賞行為それ自体を構築的にやっていかないと、映画は20世紀のまま終わってしまうだろうと自戒している。





都市社会におけるシステムや、それらがもたらす個別の身体性には、いくつかの特徴があり、歴史的な変遷を経て、現在に至っているのは言うまでもない。ドメスティックには、いわゆるバブル化した「ポストモダン」(この語彙自体が建築家のチャールズ・ジェンクスから来ている)が、壊滅している現在においては、再び「メタボリズム」(黒川紀章)という考え方が復活していると思われる。そして現在の都市はメタボリズムの「延長/拡張」にあると思われる。「メタボリズム」は日本語訳すると「新陳代謝」のことであるらしいが、その主張は、「社会の変化に対応する人間の主体性」を獲得するためには「メタボリズム=新陳代謝」が必要なのだ、ということである。黒川紀章の『行動建築論 メタボリズムの美学』(彰国社1967)のブックカバー(背表紙面)に印刷されているテキストをそのまま、書き写しておく。




私たちの身の回りにある「地獄絵図」は 決して建築の破壊ばかりではない 社会の情報の量とスピードが増えたという事実の裏には 私たちの生活が加速度的に「消費型」の生活になり 「捨てながら生活する型」に移行しつつあることを意味している 「捨てる」「こわす」という行為が現代の生活を支えている たえまなく増大する情報の量とスピードに対応して 私たちが主体性をもつ「新陳代謝」のメカニズムを導入するためには 変化・成長という時間の体験の中へわが身を積極的に投入するという新しい生活の行動体験を必要とするのだ