■制作記(2014・5・4〜12)
(1)
調布市と三鷹市の境界あたり、深大寺、大沢あたりを中心に遠景を撮影しにいく。・・・最近リトアニア生まれのアメリカの映画作家ジョナス・メカスの個人映画や日記風の映画のことが気になってしかたがない。「メカスは毎日youtubeにアップロードしている」と以前知らされて、つい最近覗いてみたが、短編、超短編を多数作っているようだ。亡命者メカス。いかなる戦況下でも、彼は撮り続けるだろう。・・・帰宅後、『苦役列車』についての感想をまとめておこうとキーパンチしていたが、急激に眠くなり、なだれ込むように昼寝。主人公と助演の衣裳、シャツをズボンにちゃんとつっこむ(通称)「シャツイン」の表象について、なぜこんなに執着しているのか。自分でもはっきりしない。はっきりしないことをはっきりさせたいのである。・・・デュラスの『トラック』の感想も途中。この映画はゴダールの『勝手に逃げろ/人生』に影響を与えており、それは『ゴダール全作品・全評論2』のインタビュー収録で確認できるが、デュラスは映画表象において「音声を映像から徹底的に切り離した」重要な作家だ、ということは確実にいえる。デュラスの映画に関しては、内容面よりも形式面への関心がつよいのかもしれない。『アガタ』も、見直したい。・・・今回は3CCDのDVminiで撮影しているが、ライカのレンズを搭載してあるもので、画面が若干しっかりしているようにみえる。明日も午前中は撮影。府中競馬場あたり。(5月4日)
(2)
府中の東京競馬場周辺、是政周辺。撮影しながら、いや、撮影したゆえに、撮影された映像に付随する物語があれこれ頭のなかをめぐりにめぐる。あることに気づく。たとえばシャッターの具体的な映像を見て、商店街の凋落(いわゆるシャッター商店街)を想起し、そこに物語性を見出す者がいたりいなかったりする。今回は、純然たる「ナラティヴ・ムーヴィ」(物語映画)を撮るわけではないが、ナラティヴの前提を撮ることになるのかもしれない。・・・だいたいの問題提起・・・「見た目=映像自体」を物語性と結びつけるのも、結びつけないのも、各自の自由であり、この自由を誰も咎めることはできない・・・これが、より開かれた前提である。ここからが難解である。なぜ、そのようなこと(オルタナティヴ=二者択一)が起こりうるのか?人は時に幻視する。見た対象を見た対象のままにとどめておくことができないからだ。シャッターはシャッターであり、それ以上のものを表現しないはずなのだが、そこに過剰な意味や物語性を読み取ってしまうという能力がわれわれには本来的に備わっている、としかいいようのない「記憶言語の過剰」。ここ10年くらい言われている流行語「妄想」(メガロマニア)というのは、かなり乱暴かつ短絡的な表現で、「妄想」を緻密に観察してみると、そこには「幻視」(ハルシネーション)が必ず含まれている。なぜなら「想う」以前に必ず「見ている」からであり、見たモノ(=対象)が必ずあるからだ。「幻視」のなかには必ず「現実視」が含まれている。これが現実である。そして見たモノ(=対象)に対する感情移入(センチメント)の度合いが、「幻視」と「妄想」のバランス(割合)をかたちづくっている。そして過剰視というものを設定すると、必要以上に見る過剰視はある意味、病的であり、かつ偏執(モノマニア)をおびき寄せているのがわかる。「好きなものは好きなのだ!」と必要以上にアピールするとき、それは偏執に陥っているといえる。「妄想」(メガロマニア)と「偏執」(モノマニア)は分離された二元論ではなく、メビウスの輪のように、表裏並走しているのであり、このメビウスの輪を一瞬断ち切りながら、われわれが通常的に「見る」「見ている」という状態もありうる。われわれは「妄想」と「偏執」を一瞬括弧に入れながら「見ている」のだ。危うい現代の視覚の死角。そしてピエール・クロソフスキーという作家の創造の原理原則でもあった「幻視」は、いまなお興味深い。(5月5日)
(3)
今日はスケジュール調整。ここ数年カレンダーの類を使用禁止にしていたが、そうもいってられず、カレンダーを購入しに行った。あれこれがギリギリやっつけ仕事にならないように、かつ無理のないように自分の体と相談しながら慎重に書き込んでいく。なるべくゆるい、スカスカな感じになるように・・・昨晩は吉祥寺にいて、酒席の合間にちょっとした交渉ごとをした。スムーズに事を運んだ。映画のなかに「声」が必要であり、その「声」を出してもらう人が必要で、わー、とかぎゃー、ではなく、ちゃんとした意味のある音声言語であり、たとえばそれはラジオドラマの(映像喚起性をともなった、つまり音像度の高い)セリフやナレーションに近いものだ。今回の映画はポエティックなラジオドラマと前衛バラエティショーの中間あたりの位置づけをしている。そして前作の『ベスト・リカーズ』よりも声の映画、というニュアンスが強くなる。重要なのは言葉の意味であると同等に、発声のリズムであり、間合い。声を音楽的に用いることは、決して意味を貶めることにはならない。・・・吉祥寺に行くと毎回思うが、南口の商店街を堂々と走っている小田急バスの暴力性、あれどうにかならないものかな。(5月6日)
(4)
ピアノでとても短いの、ライヴ演奏用を2曲つくる。コードではなく、どうしても単音の響きを耳が聞きたがっている。個別の、独立した、単独の、強い音だ。そして残響。・・・一定の時間を決めて弾いて譜面におとしているが、その後は自由時間的なもので、楽しんでいる。なぜかエリック・サティの名曲『梨のかたちをした三つの小品』のリードを耳で拾う。たぶん3曲か4曲構成で、ピッチはアダージョかレントだったと思うが、途中、強いアタックで4拍なるやつがとても好きで、これはむかし1994年にとった8mm『すてきな他人』(英題はなんと『wonderful others』だ!)に挿入した曲でもあった。1小節目と2小節目のつなぎ部分にあたる短3度のアルぺ「シドド♯レ」という響きがとてもキレイであるが、普通に「シドド♯レ」を鳴らしても、そう思わないし感じないだろう。この曲を頭が記憶していて、頭内音階で完璧にトレースできるからキレイであると思うのだろうか。こういったことも音楽の謎である。音楽の透明性と音楽の謎(wonder)は表裏一体。(5月7日)
(5)
名古屋で三泊の撮影小旅行。めいっ子の大学入学の祝賀会をかねて行ってきた。あまりややこしいことは考えず、おおむね感覚的に撮影してきたが、やはりよその土地は見慣れていないだけあって、過剰に見ることになる。なので目が疲れた。・・・名古屋城を中心とした徳川家康の都市計画は、豊臣秀吉の大阪城を中心としたそれと比較できるのかもしれないが、詳しいことはよくわからない。・・・お城の近くに、名古屋市役所があり、15分ほど歩くと、日本映画における女優第一号といわれる川上貞奴(かわかみさだやっこ)が住んでいた邸宅の跡地があった。・・・名古屋は、関西でもない、東京でもない、というニュートラルな地帯か。けどどちらかというと「歌舞く」文化が「洗練」文化に勝っている。(女性が着ている服装の色使いがわりあい派手目である。)そこがいいところだ。大阪のミナミもセレブ化して昔とずいぶん変わったらしいが、名古屋の栄もまた、セレブ化が急速にエスカレートしつつあるらしい。(だが、大須観音のあたりは、セレブ化に抵抗しているように思えた)。街の路傍から聞こえてくる声は、大阪弁っぽい声が多かったように思う。地下鉄のアナウンス音量は、音割れするほどとても大きく聞こえたけど、街はいい感じに静かだった。たぶん商業用のスピーカー騒音が少ないのだろう。あと、中村遊郭跡、中央市場のあたりが良かった。姉にたくさんごちそうになった。感謝。(5月12日)
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