『火星の住民と地球の芸術家』






「火星の住民は宇宙人ではない。」この認識が、岡崎氏の議論の前提である。われわれはいかにもナイーヴに「地球人と宇宙人」「地球人VS宇宙人」という二項対立に陥りがちだ。その罠のひとつに、われわれが幼少期に親しんだであろう「ウルトラマン」や「ガンダム」の表象(映像空間)が上げられる。それらを見ていた場所とは、地球を中心にした宇宙の描かれ方(地球を単一の中心とみなした延長空間の表象)をして、それを「いかにも想像的である」という臆見を知らず知らずのうちに強制させられていた、そんな場所でもあった。(ゆえに「○○ちゃん、ガンダムばっかり見てないで、宿題をさっさと仕上げなさい。」という母の声はいつでも現実のものであった)。この「視聴覚を通じた生物学的刷り込み」の内部過程には地球人の意識に及ばない「地球中心主義」(アース・セントリズム)がいつのまにか蔓延っていた。われわれはそれを見ながらにして欺かれていたと、言うべきか。そして夜空の星を見てロマンを感じるのは犬やカエルではなく、いつでも地球人だった。






岡崎乾二郎による「火星の住民と地球の芸術家」が掲載されているその冊子は、『プラネタリーな実践誌〜arctictoc』であることに注意されたい。「プラネタリー」とは字義通りには「惑星的」であり、この「惑星的」なるものの関与がすでに「アース・セントリズム」への批判的兆候となっている。―――語り手の岡崎乾二郎は単純きわまる「地球=中心」「宇宙=周縁」という文化人類学的発想をまずは拒否する。このテクスト(というかインタビュー)のタイトルにわざわざ「火星の住民」と表記しているのはそのためであろう。氏によると、火星の住民は宇宙人ではない、また、火星の住民の存在は理性において判断されるのではなく、悟性において判断されねばならない。分かりやすく喩えると、例えばわれわれが、リンゴが木から落下するのを見て、驚きのあまり「万有引力の仕業だ!」と、ニュートンの法則を実定的に把握するのではなく、それを「たんに落ちたものの表象」として悟性的に判断できる能力こそが、より真の認識に近づけるということである。(リンゴは変換可能な事物であり、つまりそれがミカンであっても、靴下であっても落ちることが悟性的に認識されうるし、ニュートン以前にも、落下それ自体はあった、ゆえに、ニュートンの理性とは無関係的かつ無媒介的に人々の悟性に働きかけた)。






岡崎氏の言う悟性の重要性は、「悟性なくして理性なし、これなくしては感性もなし、神もなし、自由もなし」という論理(非−排中律的な性格・・・AがAたるにはBがいるし、BがBたるにはCがいる)の強調に、おそらくは基礎付けられているのだが、「火星に水があった」という事実(出来事)を「水の発見→生命発生のプロセスの証明」という一個の悟性的判断・・・単一の「解」に着地させること、それ以上に、より多角的なアングルからの「問い―命題」を設定しつつ問題を捉えているところに、このインタビュー記事の面白さがあるのだろう。例えば「<火星における水の発見→火星における知的生命の存在の論理の発生>が地球における人類の時間(いわゆる世界史?)は瞬き(一瞬)くらいのものだ、ということを再認識させる」という指摘。つぎに「利害―インタレスト(世俗的拘束力)が悟性的判断のじゃまをしている」という指摘。つぎに「発見という出来事の論理性はそれが発見された限り消去することはできない(しかも、誰もがそのことを忘れてしまっても、出来事そのものを消去することはできない)」という指摘。しかし、生物学的な論拠「水の存在→知的生命体の発生」が、論理的な証明でもなく客観的なデータでもない、ある種の「信」に支えられているのだとすれば、この「信」はどこからやってくるのか?という疑念が残る。(空間的、時間的にではなく論理的にどこからやってくるのか?)そもそも「水は飲める=水を飲むものは生を授かる」や「円周率は存在する」、「三角形の内角の和は180度である」という「信」そのものは、「信じられる」以前に「信」なのか?「信じられた」から「信」なのか?逆に事後的に生産された「問い」(強い意味では反証可能性の可否)こそが「信」の「信」を裏打ちしているのか?このあたりが微妙に分からない。





だが、氏の次の発言を見る限り、火星人=知的生命体の存在証明のためのアルゴリズム(手続き)は「信」という概念から説明されるよりも、「モノをつくる=制作する」という態度とそれを享受する側の認識(唯物論的な認識)にこそ関わってくる。少し長いが引用する。





・・・・確かに、美的判断というものの特殊性と似ていますね。芸術作品に出会い感動しても、その経験を普遍化することは、必ずしも、その経験を現在時で一般化――例えば多数の同意を獲得――すればいいというものではない。カントが言ったように、美的判断は主観的判断であり、かつ他者の同意を要請する。つまり、いまだ同意されていないが、同意されうる必然をもつというのが、美的判断の普遍性であって、普遍とは、そこに時間的な遅延、持続が含まれるわけですね。現在時にのみ獲得された同意、複数の意志の同期なんて、すぐ揺らいじゃうんだから普遍の条件にならない。人気と普遍は違う。むしろ遅延、持続こそが普遍の条件です。誰もが、いつかそれをわかる、そうした瞬間が必ず訪れる。逆にどんなにセザンヌが好きだって、四六時中セザンヌに感動している人などいない。嫌いになる瞬間だってある。だけれど、すべての人間にそれぞれそのセザンヌに感動する、そうした瞬間がいつかはきっと訪れる。それぞれのその瞬間は決して一致しない。それこそ100万年くらいの時差がありうる。この100万年まで引き延ばされる時間こそが、美的判断が把捉する普遍性、芸術作品が保持するべき性格ですね。現在時におけるアクチュアリティだけではだめ。言い換えれば、むしろ、こうした持続、遅延によってこそ、無数の異なる時、場所でのみ成立した無数の判断を(時と場所を超えて)一致させうるということでもある。



ここで唐突だが、前件肯定式を批判したウィトゲンシュタインを引き合いに出してもよいだろうか。ウィトゲンシュタインは[(A⊃B)A⊃B]という前件肯定式、「AならばBであるとするとAならばBである」という論理式を批判する。それを、「地球人が存在するならば、火星人は存在する」に置き換えてみよう。ウィトゲンシュタインが批判したのは「地球人が存在するならば、火星は存在する」を証明するために必要な[(A⊃B)A⊃B)A⊃B)A⊃B)A⊃B・・・・∞]、つまり「地球人が存在するならば、火星人は存在するならば、地球人が存在するならば、火星人は存在するならば・・・・」という前提の無限だった。なぜ、この無限は批判されねばならないのか?簡単である。「無限」を批判的に反証する「実無限」が設定されなければ、論理的に「無限」はありえないからである。



たとえば富岡鉄斉でも北斎でもダヴィンチでも長寿でしたが、みんな「あと10年あれば、もっと高い地点に到達できたのに」と、同じようなことを言って死んでいますね。いつか絶対到達できるという論理的な前提が制作を支えている。彼らは作品ができる、完成するという出来事の意味がわかっていた。火星人はきっといるという理念と同じです。それは証明されるべき問題として、制作され克服されるべき問題として、すでに証明の済んだ問題として確かにそこにある。100万年生きていたら絶対できるはず、という感じ。100万年の持続時間のなかで、火星の水=火星人という確実性が得られるのと同じ。ゆえに彼らにとって、日々の制作は、その持続時間が確実であるとするに足りる不可逆的な証明となっていたはずです。



それが100年かろうが、100万年かかろうが、制作物(作品)に対しての無限に引き伸ばされた(遅延させられた)いつか訪れるであろうコンセンサス(合意)の同期ポイント。その一致のタイミングこそが、暫定的に無限を実無限としてリセットしなおす。(ここでコロンブスがインドを目指していたにもかかわらず、たまたまアメリカ大陸を発見してしまったがゆえに、世界は閉じられた・・・1492年、という柄谷行人の言説を思い出す)。ゆえに、だからこそ現行時における実無限・・・「地球人は地球人として、地球にいる」という事実の重みがあるのだろう。(といえばまたもや「地球中心主義的」に聞こえるかもしれないが)。目の前にある石ころのように、地球人がいっぱいいて、火星に水があって、火星人がいるにも関わらず、風呂にはいって、歯ミガキして、寝る、朝起きて、モノをつくる、という只中でこそ、真の火星人の到来=神の贈与を前提しなければならないし、前提しなければ面白くないのだろう。それは芸術という謎を謎として更新してゆくことでもあり、謎の歴史を刻印してゆくことでもある。「人気作家がどれほどのものか?」しかし、勇気づけられる議論ではある。