重★ものではないもの★要 



重★ものではないもの★要 





物ではない物。この言明はあきらかに論理矛盾である。なぜなら「物ではない物」は「物ではない」からである。日本語の体言止め(名詞止め)は、「・・・である。」という断言文の「である。」をぼかす効果がある(これは例えば「午後3時にハニーカステラ」と言った場合「午後3時にはどこそこにハニーカステラがあり、そしてそれを食べる」)という意味(主述が確定されることによって生成される意味)が含まれていると想定可能である。体言止めは、語尾に名詞を置き、その場所に言明を留める(留めを刺す)ことによって、名詞の名詞性(名詞化された物の物質性)の効果を高める。





今、わたしは「名詞性の効果を高める」と言った。これは例えばオレンジがオレンジであることに限界を持ち、その限界をしてオレンジがオレンジであることに留めを刺していることになんらかの効果がある、ということになる。だが、オレンジがあたかもオレンジではないかのようなオレンジがあるという場合、それはオレンジの名詞性を高めているということができるだろうか?・・・さしあたっての答えはノンである。理由はおそらくは物(もの)という日本語にあり、英語の「thing」が意味的に「もの」と「こと」を同時にあらわしている、この両義性にあるかもしれない。






かくして「物ではない物」という言明はすでにして論理的破綻である。との問い/答えに漸近することができる。






もうひとつ、<物−映像−言語>という悟性の回路がある種の認識論的パラダイムとして使用されるしかない現況において、<物(オレンジそのもの)−映像(オレンジの画像/映像)−言語(オレンジという音声、あるいは記述)>の規定性がいかにして成立しているのか、何が成立させているのかを問うことが可能になる。





また上述を受けて、「映画は国際言語である」、という言い方(イデオロギー)に関して、疑問をさしはさむ余地があるだろう。もしかすると、加えて「写真は国際言語である」という言い方に関しても。(もちろん、翻訳の必要によって読まれるしかない海外文学に比較して言われていることだろうが)







映画は国際言語ではない。多種多様な言語がある限りにおいて。
映画は国際言語ではない。たとえサイレント映画であっても。
映画は国際言語ではない。個々人が別様の言語観、経験的な言語で見ている限りにおいて。
また、すべての人類が各々共通の言語で「ひとつの映画を観る」ことは決して起こらないだろう。
映画は国際言語ではない。そればかりか、映画は言語ではないし、言語ははじめから国際的ではないのだ。(国際的というタームが政治的に一般化されたのは1960年代のことで、たった50年の歴史しかない。というよりも、そもそも「国際的」という概念自体が言語的表明にしか過ぎないし、それを保証−偽装するように形式的に万国国旗を掲げたところで、それが国際的だというのか?・・・オリンピック。)




物ではない物。これはありえない。物は物に留まることによってのみ物でありうる。その限りにおいて。映画は物(リュミエールの列車からゴダールのランプシェードまで)を見せているようだが、本当にそういいきれるのか?実際には何を見せているのか?映画の物性はいかなる場所にあるのか?物性をいかなる方法で、技術においてもとめてきたのか?「物ではない物、それが論理矛盾であること」・・・まさしくその矛盾の場所を映画が見せているのなら、映画はそれ自身において抱え込む「物ではない物」を「事」と名指すべきだったのだろうか?





ここで振り出しに戻ろう。「ものではないもの」。この言明は論理矛盾である。英語のthingには「物/事」両方の意味がある。英米概念「thing」において、「ものではないもの」は同一準拠枠において名指されることが可能なのだ。ここに矛盾はない。





日本語使用者は日本語というグリッド(文法枠)において映画を見る。英語使用者は英語というグリッドにおいて映画を見る。世界において生起する現象それ自体には文法がなく、形式化され、文法化され、習慣化され、内面化され、経験化された言語において現象を捉えることだけがわれわれに許されている。それは可能性であると同時に限界でもある。