放浪ノート 1




■放浪ノート 1




しばらく放浪したが、いちばん大きな成果は、他でもないこのわたしが輪廻転生について思いめぐらしたことだった。そして、前世は何であってもかまわないし、来世がどうなろうと知ったことではないが、現世にいる、あるということを突き詰めて考えた場合に、必ず、現在とはどういうことなのか?が問われることとなる、と思われた。





「過去への無限遡行=宇宙発生の起源」のモデルと、「未来への無限投影=予言の無期限反復」のモデルとに引き裂かれているのが現在なのだとすれば、その2つにパチンとはじかれて、刹那、微小に空中破裂している状態のくり返しこそが、現在のくり返しとしての現世であるかもしれない。ボタンに糸を通して、両指でつまんでぐるぐる回すとボタンが高速回転する。それが現在である。過去からも未来からも同一のエネルギーによって支えられている現在。シーソーの中心部に立って、わずかに震えながら、なおも一瞬わずかに静止できるような現在。・・・これはよく使うメタファー。




よく言われていることだと思うが、この世に生まれてきたことは、修行のためであり、それは前世が修行不遂行で、至らぬ状態で生を中断したために、再度生まれでてしまったのだ、という説が輪廻転生の根本原理となっているらしい。すると、わたしが現世の生を(修行として)まっとうできなければ、かわりに来世の者が修行を続けなければならない、ということになる。





ところで、この考えは、誰にとって、何にとって合理的なのかというと、修行をするものではなく修行をさせるものにとってであろう。外的な修行推進素とは、他者の表象を介して発現するが、その真の正体は不可知の不可視である。ここで、冷静に仮説をたてるとなると、輪廻転生の法則そのものが「修行/被修行」の境界形成の原因となっているという答えに導かれる。修行をさせるものは修行を促し、修行をするものは修行する。「がんばれよ。」「ああ、がんばるよ。」は、たんに他者他人を介しての表象であるが、これらの成立起因は、実に面白いことに、出会いと別れにある。これらの2つの瞬間は、主体に回収される安定した現在が一瞬揺らいでしまうもっとも日常的な瞬間である。「がんばれよ」と別れ際に言った者にとっては、「生きることに賢明である者=がんばらざる者」という図式は事後的に確認されるしかないが、それが再会の意味となる。





でなければ、通常、みんなが折にふれくり返し誓う「がんばる」という苦行、一方で「がんばってね。」「がんばれよ。」と告げる(誓わせる)苦痛のくり返しの正当性を、いったいどのように説明すればいいのだろうか。それに「がんばってね。」「がんばれよ。」は常に別れ際において、強調されて言われるのがポイントで、「がんばらざるもの」と、その後二度と会うことがなければ、彼は、彼女は「がんばった。」とは確証できないものとして、時間に沈潜するしかない。





「がんばってね。」の何パーセントかには、「あなたは、きっと、がんばるだろう。」というささやかな予言が含まれている。この予言をパラフレーズすると「あなたは輪廻転生を受け入れている」のだし、「輪廻転生の根本形式の内部においてしか、あなたは存在しない」ということを示すことになる。この抽象観念を「がんばってね。」のひとことに、こめているのではないか。こうして、現世においても「輪廻転生=修行」の内的な意味が相互確認されているのではないか。




この意味は、「いま生きていること=現世をいかにして、捉えればいいのか」という、ひとつの生きた回答であり、使用価値のある発明品だとわたしは思う。ゆりかごから墓場まで、なんてのは、あまりにも夢がない。福祉は実利をもたらすが、実利が妨げているのは夢である。それに壮大なスケールでわが身を捉えた方が、わたしの卑小さを思い知らされるというものだ。





もうすこし射程を広げて、使命、宿命、運命ということも検討にいれたほうが、輪廻転生の理解に役立つだろう。煩雑なので使命だけに絞るが、論理的に考えると、各々諸個人の使命遂行こそが、輪廻転生の諸確率を縮減する唯一の方法であり、それがついにゼロに達した時こそが、ついに地球が滅亡する時(地球とか人類という観念が不必要になる時)なのかもしれない、と思ったりもする。人類を代表して言うわけではないし、人類という概念を作り、強化し、流通させたのは18世紀のヨーロッパだと思うが、人類が修行を完全遂行すれば、もはや、言語や概念やイメージでは捉えることのできない別種の生物にバトンタッチしているかもしれない。とも思う。



・・・ニーチェ永劫回帰はどうかだって?これは次の放浪時に。